第8話 『ガーゴイル即落ち』



牢獄にて長い長い沈黙が続いている。

格子越しに見つめ合う二人。


片や、ダンジョン主からの直々の命令に気合の入ったガーゴイルアロエ。

片や、脱獄を行う上で新たな障害をいかに攻略しようかと心悩ますサンデリアーナ姫。


その沈黙は、一昼夜におよび続いた。


事実、姫は手をこまねいていた。

眠らないどころか、瞬き一つしない相手を前に如何に脱獄を果たせようか。

しかし、その大きな大きな壁は逆に姫を奮い立たせる。


魔物一体を攻略できずして、何が脱獄王か。

ふと、姫の脳裏に一つの言葉が浮かんだ。

すなわち『攻略』。そのたった一つの言葉をきっかけに、そのアイディアが急速に枝葉を伸ばし始める。


しかし、そのアイディアは姫の能力をもってしても実現可能か一抹の不安があった。

これまで、試したことのない手法。果たして、自身にこの脱獄が可能であろうか。

姫は、心の中の師匠へと問いかける。「私にできるでしょうか?」と。


だが、師匠は何も答えてはくれなかった


「サンちゃん朝ごはんに行くよー」


長きにわたる沈黙を破ったのは、姫を食事に誘いに来たパキラであった。

その手には手拭いが握られており、パキラはおもむろにそれでアロエの目を覆う。

アロエが動揺し、羽をばたつかせる。


「ごめんなさいねアロエさん。ほら、サンちゃん今のうちに着替えて」


パキラに促され、姫は自身がずっとスウェット姿であったことを思い出した。

食堂に行けば、夜勤を終えた多くの魔物で溢れているであろう。その中に、スウェットで行くのは流石の姫と言えど恥ずかしい。

新たに用意された姫好みのカジュアルな服に、袖を通す必要があった。


さて、ここでアロエの心中に思いを馳せていただきたい。

誤解を招かぬよう、あえて事実のみを記述させていただく。


不眠不休の職務の際中に、おもむろに職場の同僚によって目隠しをされたアロエ。

その同僚は、自身のサキュバスという種族特性「魅了」を支給された地味な制服で抑え込もうとしているが、その豊満な胸と臀部によってより逆にダンジョン内の職員たちのエロティシズムを膨張さえるエロいお姉さんだ。


必然、アロエの心臓が普段の3割増しで大きく脈打ちだす。


しかし、アロエはどこまでも職務に忠実な男であった。そのような些事に気を留めることなく、その胸中には任務遂行の4文字しかない。


視覚を奪われたアロエは、任務を継続するうえで聴覚に頼ることとなる。

聞こえてくるのは、大きく増した自身の心臓の鼓動、壁に掛けられたランプがチリチリと燃えている。そして耽美で艶めかしいパキラ嬢の吐息―――最後に、姫が身に纏った衣服をぬぎさる衣擦れ。


聴覚と共に鋭敏となった嗅覚が、人肌の甘い香りを捕らえた時。

アロエの、心のダム、否、鼻の粘膜が決壊した。その小さき体のどこに貯えていたのか、大量の血液がドバドバと鼻から流れ落ちる。

しかし、溢れ出る鼻血をアロエはものともしない。


いま、自身が為すことはこの状況、この音、この匂いを可能な限り鮮明に心に刻むこと。

果たしてそれは、職務をまっとうするためか。それとも、男としてそうせざるを得ないためか。

その答えは、アロエ本人にもわからなかった。


アロエの意識が、そのしたたり落ちる血液と同じく失われていく。

薄れゆく意識のなか、アロエが最期に記憶したのはパキラ嬢の微かな悲鳴だけであった。



アロエは強く恥じていた。

一分の隙も無く姫を見張る看守でありながら、欲情に駆られ、あまつさえ気を失ってしまった己を。大事な仕事で、大ポカをやらかした。その事実が、アロエの心をバキバキにへし折ってしまっていた。


しかし、そんなアロエを誰も叱りはしなかった。

むしろ、そういうこともあるさと慰めさえした。


アロエは、看守の交代をペディランサスへと申し出たが上司はそれを許さなかった。

失った信用は、仕事で取り返せ。そういう意図なのだろう。


ゆえに、アロエはいまなお姫を捕らえた牢獄の前で看守の任を継続している。


「あなたは寝ないの?」


格子の向こう。監視対象者であるサンデリアーナ姫が、声をかけてきた。

その声には、優し気でアロエを労わる気持ちがこもっている。


その異常さに、アロエは何ら疑問を感じることはなかった。

しかし、どうしてそれを責められようか。このダンジョン内で、その異常さに気づくことができるのは日頃より姫と言葉を交わす僅かな者たちに限られるであろうからだ。


ふだん、姫の言葉にはおおよそ感情がこもっていない。

どうすれば、そのようになるのか。まるで無機物であるかのような、平坦で抑揚のない声。

表情の貧しさもあってか、どこか人を寄せ付け難い雰囲気をはなっている。

それが、サンデリアーナ姫だ。


ゆえに、アロエに語り掛ける姫の声に優しさが込められているなど異常以外の何物でもないのだ。


姫の問いかけに、アロエは首をふってみせた。


「きっと疲れていたのよ。でなければ、あんなことにはならなかったはず」


「ガ、ガーゴイルの肉体に疲れなどない……」


「あら、貴方の声初めて聴いたわ」姫がコロコロと笑って見せた。


その愛らしさに、アロエの心が揺り動かされる。


「でもね、たとえ体は疲れなくても心は疲れるのよ。心と体が万全の貴方なら、決して私に脱獄なんか許さないでしょう」


「そ、そうだろうか……だが俺は眠ったことなどないから」


「ねえ、それだったら眠ってみましょうよ。人生初めての睡眠。なに、安心して貴方が眠るまで私が見ていてあげるから」


アロエの心がポカポカと温かい何かに満たされていく。


いま、彼女は敵であるアロエを前にその優しさを惜しげもなく向けてくれている。

どうして、それに抗うことができようか。アロエは、その夜、生まれて初めて瞼をおろしグッスリと眠った。




「ようやく眠ったか」


姫の口角がニヤリと上がる。

新たに設置された、やっかいな敵。この数日、姫はいっさいの脱獄の準備ができずにいた。

いかに、姫と言えど準備無くして脱獄などできぬ。ペディランサスの知略は、まさに姫を封じ込めて見せたのだ。


しかし、眠らぬ看守が眠ることを覚えた今、もはや何の障害もない。

そう。姫は、看守を「篭絡」。否、「攻略」してみせたのだ。

自信はなかった。そもそも、姫自身は人づきあいが得意なほうではないし、それを自覚している。だからこそ、相手の心につけいるような技能を知ってこそ入れ実践することはなかった。


だが、脱獄が封じられその縛りをといた。

着替え中に、突如血を噴いて倒れるという想定外の事態もあったものの。その後、落ち込んでいたアロエにつけいり。その種族特性、強みを打ち消すことに成功した。


姫は、脱獄王として更なる一歩を踏み出したのだ。


朝、アロエはかつてない爽快感に包まれ目が覚めた。

心に余裕ができたためか、周りの景色がいつにもまして美しい。


ユラユラとゆれるランプの灯、ごつごつと露出した岩肌、天井よりしたたり落ちる水滴。

そして、からっぽの牢獄。


からっぽの牢獄。


アロエの口から、笑いがこぼれた。

してやられた。まんまとしてやられた。

だがしかし、そこに焦りや緊張、怒りは一切ない。


何故なら、生まれて初めての睡眠が彼の心に大いなる余裕をもたらしていたからだ。

ああ、ペディランサスは続けざまの失敗に流石に怒るだろうなあ。だが、それでも笑って許してくれるだろう。


仕方がない、大ポカをやらかしたのは俺なのだから。

しっかり怒られて、しっかり反省して、そしてもう一度しっかり職務に励もう。


ガーゴイルアロエ、眠らぬ看守と呼ばれた魔物は今日初めて目が覚めた思いがした。


ちなみに姫は、すぐに捕まりました。

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