第414話 記録と今

 真白い空間にピンク色の花吹雪。

 それは先程まで見ていたものと似ている。だが、決定的に違うのは、今ここにはアルしかいないということだ。


「っ、いったい、何が……」


 気を引き締めて周囲を見渡す。まるで雲の中にいるように、上下も左右も分からない。ほんの少し歩き出してしまえば、元の場所へは戻れないだろう。


 それをすぐ見て取って、不用意な行動をしないよう、暫く観察に専念した。


『懐かしき同胞の気配に誘われてみれば……愛しい子の気配も感じるではないか。そなたは何者か』

「っ……僕に、聞いていますか?」


 不意に聞こえた声に息を呑み、アルは慎重に問い返した。

 声の主は見えない。というより、空間全体から響いているように感じられる。もしかすると、この空間そのものが、声の主なのかもしれない。


『ここにはそなたしかおらぬようだが』


 不思議そうな声で言われ、やはりブランとクインからはぐれてしまったのだと分かった。直感しか根拠がないが、声の主は嘘をつかないだろうと思えたのだ。


「そうですか……。まず、あなたがどなたなのか、伺ってもいいですか?」

『私を知らずして、ここに至ったのか。あの放棄されし塔の転送陣しか方法はないだろうに』

「……確かに、その塔は通ってきましたけど」


 やはりオリジネが管理する塔は、放棄されていたのかと改めて理解した。原初の魔力を生み出すという役割自体は今でも行われているはずだが、世界にとってはもはや重要ではないということか。


『ドラゴンを弑したか。……いや、そのような業は背負っていまい。ではいかにして——。ああ、なるほど。そういえば、いたはずだ。ドラゴンを食らった大食らいの魔物が』


 あっさりとブランの血が鍵となったことまでバレた。

 それにしても、ブランは暴食の獣や大食らいの魔物などと、食欲に関して称されてばかりなのは、少ししょっぱい気分になる。

 もっと格好いいのはないのだろうか。アルでも思い浮かばないのだから、要求するのは酷なのかもしれないが。


「あの、それで、あなたはどなたで……」


 問いを繰り返すと、声が止まった。暫くの沈黙の後、含み笑うような密やかな吐息が聞こえる。思っていた以上に人間らしい。


『私の名はソーリェン。精霊の森に生まれ落ち、聖なる領域の礎たる存在と成り果てた。そして世界の記録を保持する役目を負っている』

「あぁ……やはり……」


 予想はしていた。このような形で言葉を交わすことになろうとは、思いもしなかったが。


「——あなたには、人の形というものがないんですか?」

『既に精霊の理から追放され、そのようなものが必要とはされていない。ゆえに、形はない』

「追放?」


 なんとも過激な表現だと思った。だが、ソーリェンの声に悲しみも憤りも存在しない。精霊に対する愛おしさが感じた。


『礎になるためには、精霊の器は小さすぎたのだ。この役目を受け入れたと同時に、私は精霊の理の外にある』


 ブランがドラゴンの役目を負わされて、永遠の命を得ると同時に魔物の範疇から外れてしまったのと同じようなものなのだろう。

 アルは自然と「寂しくないのですか」と尋ねていた。


『寂しい? 私が? ……ははは! 久し方ぶりの訪問者は、なんとも愛らしいものだ』


 笑われてしまった。思わず眉を寄せる。笑わせるつもりなんてまったくなかったのだが。

 悠久の時を聖域の礎となって過ごしてきたソーリェンにとっては、頑是ない問いかけだったのかもしれない。


「……どうぞ質問を忘れてください」

『拗ねるでない。精霊の分かたれし枝よ』

「僕が精霊の魔力核を持っていることが分かるのですね」

『もちろんだとも』


 ソーリェンの声は愉快げだった。そして、慈愛で染まっているようにも聞こえる。

 アルはなんとも面映ゆい気がしてきて、警戒しているのが無駄に無駄に思えた。


「どうして分かるのですか」

『私の中に記録されている。精霊と神の契りにより、この森の近くで育まれた命だ。知らぬわけがあるまい』

「……なるほど」


 ソーリェンが保持する記録とは、随分と幅広いらしい。アルの個人的なことまで既に理解されているなんて。


「——では、僕の名前も既に?」

『さて……。私が知る名はアルフォンス。だが、既になき名なのだろう? そなたの名を教えておくれ』

「……アル、です。どうぞお見知りおきを」

『相分かった。アルよ、よく来たな』


 精霊の森で歓迎された時のような、温かな声音だ。精霊の理外にあると言っても、アルを同胞の一人とみなすのは変わりないらしい。

 最初に問いかけてきた時はアルが何者か分からなかったようだから、記録と照合するのにタイムラグがあるのだろう。


「歓迎していただけたのはありがたいのですが……僕の仲間はここに入れませんか?」


 残してきたブランとクインが心配だった。アルの安全を気にし続けていた二人が、今頃パニックになって何かやらかしていないだろうか。


『ここへの繋がりは精霊しか不可能だ。申し訳ないが』

「そうなんですね……。では、伝言はできますか?」

『展開している記録を変更させることは可能だ』

「どういう意味ですか?」


 急に分からない表現が返ってきた。困惑しながら尋ねると、暫く説明を迷うような間が生まれる。


『……ここへ繋がるのは、ある記録の中だけだ。放棄されし塔からのみ到れる記録。そなたが気にしている者たちは、未だそこに残っているのだろう』

「やはり、あの空間は作り物だったんですね」


 そうは見えなかったが、と思いながらも呟く。

 だが、アルの理解に対して、ソーリェンは『否』と返してきた。アルは思わず目を瞬かせる。


『記録はすべていつかの現実である。作り物でも幻影でもない』

「……つまり、過去の直中ただなかに放り込まれているようなもの?」

『さよう。だが、干渉は最低限だ。何かを壊したとしても、記録がそれを保持することはない』


 つまり、過去の記録の中で行動して影響力を与えても、再び同じ記録を見たときには、その影響はなくなっているということか。過去を変えられるわけではない。


「……えぇっと、記録からの出方は?」

『そう望むこと。そなたと共にあった聖魔狐は、そのことを知っていたはずだ』

「言われなかったんですけど……」

『一度出れば、再び入るのに塔を中継せねばならんことに気づいていたのだろう。そのようなことをしないと分かっていれば、言う意味もない』


 クインの中で勝手に判断が下されていたということか。クインはあそこが記録の中であることも確証がないようだったから、状況を見定めていたというのも考えられる。


「二人がいるところの記録を変えることによって、伝言が可能なんですか?」


 聞きたかった質問に戻る。


『少なくとも、アルがここにいることは知らせられる。ここでアルが過ごした記録を追体験させるのだ』

「あー……今の僕の少し過去の記録にブランとクインが入るということですね」


 ややこしい。感覚的に理解するしかない。

 おそらく、ソーリェンが言った方法をとったなら、アルは二人に会えないが、二人は今の会話を聞いて状況を理解できるのだろう。


『展開している記録を変更するか?』

「それで二人に害はないんですよね?」

『いずれの記録においても、観察者がなんらかの悪影響を及ぼされる可能性は存在していない』

「でしたら、お願いします」


 ソーリェンのことは信頼してもいいのだと、既に判断していた。だから悩むことはない。


『……変更させた。これでアルの気がかりはなくなったか』

「はい、ありがとうございます」


 アルは何かが起きたかすら分からなかったが、しかたない。過去が現在に干渉してくることはないと、ソーリェンが暗に言っていたのだから。

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