主任は夢を見る。ep8
arm1475
主任は夢を見る。
VROがベータテストの終盤に差し掛かり、正式に運用する準備に入った頃に、世界は高い感染力と死亡率を持つ病原体の出現により感染パンデミックに陥り、日常生活に高レベルなソーシャルディスタンスを要求されるようになっていた。
その為、VROはその実装スケジュールに大きな遅れが生じることとなる。だがベータテスト中に起きた様々な事案を解決して完成したシステムは、感染パンデミックで一変した世界から最良のコミュニケーションツールと認められ、多くの企業や研究機関に導入されることとなった。
あれから何年経っただろうか。
病原体へのワクチンの開発も進み、仮想現実空間への依存は感染パンデミックへの対応というステージは終了しようとしていた。
人間の量子体技術は更に進み、脳死状態からの再生すら可能になり、大病や事故で肉体を喪失した人々が、電子の仮想世界に量子の身体を得て生きながらえるのが当たり前のようになっていた。
仮想現実は今や新たな人類の生活圏となり、仮想現実空間からの現実への干渉も可能なデバイスも開発されてその境は希薄になりつつあった。
故に、仮想現実と現実の差異が物理的だけでは無く精神的な面で曖昧になった者も少なくなり、特に不慮の事故などで不可抗力で肉体を喪失した場合、自身の今の境遇を把握出来ない、あるいは忘却している者もおり、彼らをいつしか
VRO管理長の部下である主任も
元は件の病原体によって脳死状態に陥った患者であったが、VROのワークギアを利用した量子再生医療によって量子体となっていた。しかし治療による記憶の混濁が生じ、自身が病魔に冒されて倒れた経緯を忘却した結果、
要は当人の自己回復に任せるしか無いのだが、大半はさして問題も無い事や、やはり肉体を喪失したというストレスを考慮して、周囲の同意の下に放置されている。
もっとも主任が量子体となった一番の理由は、感染が脳死に直接繋がったのでは無く、
量子体となった今もその社畜ぶりは健在で、VROという巨大インフラを支えるために連続長時間勤務を相変わらず続けており、本来ならその異常性から治療対象に相当するはずだった。だが肉体を失い量子体となった今、疲れを知らない身体を得てしまった為に、彼がそのストレスを感じていない状態と判断され、管理長責任の元で現状維持が黙認されてしまった。「本人は働くのが好きなんだから構わないんじゃ無い?」とあっさり。
そんな主任だが、休むときは休む。休憩時間15分と食事の1時間は規約にあるのでちゃんと休む。ながら仕事は注意力とモチベーションが下がるので絶対にやらない。
ワークギアに人格を移した量子体が食事をするのは肉体があった頃の欲求を満たすための反射行動の様なもので、常時給電されている以上必要はない。実際、数は少ないが自身が量子体と理解しているユーザーには食事の概念がなくなったものもいる。余録だが睡眠の概念が無くなったユーザーは皆無で、やはり思考を整理、クールダウンする長時間の休憩は肉体を喪失しても必要なのであろう。
但し、主任の様に自身が肉体を喪失し食事も睡眠も必要で無くなっている事に気付いていない社畜が、睡眠なんて時間の無駄と考えているのは珍しい話ではない。人は失ってから始めてそれを本能で必要と感じる生き物だから。
とはいえ、今の主任は休憩を欲していた。
仮想空間の自席を離れ、休憩所の喫煙ルームでのんびり一服する。喫煙は今の仕事を始めて眠気覚ましに吸い始めたのだが、量子体になって初めてニコチンの味を覚えたというのは彼らしいといえば彼らしい。無論彼が吐く紫煙はただの電気信号なので受動喫煙など意味も無いが。
そんな彼が缶コーヒーも持ち込んで一服している時は決まってあることを考えていた。
「管理長、なかなかお誘いに乗ってくれないよなあ」
主任には夢があった。
あの、長い黒髪の美女とディナーで向かい合わせに座りたいという願いだった。
叶うならそれ以上の関係になりたいとは思ってるが、流石に身の程が過ぎると秘めたままだった。
この職場に配置換えされてからずうっとあの美女の下で働いていた。彼がガムシャラに働くのは彼女に認められたいという想いからなのだが、
「キミ、働きすぎ」
と裏目に出ることばかりで、空回りする日常を悶々と過ごしていた。
それでも管理長の元で頑張ってるのは想いが本気だと自分に言い聞かせるためであって、自身の肉体喪失以上にその本末転倒ぶりに気付いていないあたり、暢気な人間性が災……幸いしているのかもしれない。
そんな彼がある日、奇妙なことに気づいた。
きっかけは先日のVRO乗っ取り騒動の後処理中の事だった。
やらかしたSEの処分で、主任はSEの職歴を確認し、歴代の所属部署に「トロイの木馬」でも残してないから調べていた。
「年齢、58歳…あと少しで定年だったのにアホだなあ。えーと、28歳にVROベータテスターとして参加し、30歳でそのまま本採用……あら、俺より先輩かい。若く見えたから年下かと……っていうか28年も勤務? ベテランかぁ……そうか、VROももうじき30周年かぁ……色々あったよなあ……ンンッ?」
主任は問題のSEの顔写真を二度見した。
おかしい、と思った。
なんで俺はこんなベテランを知らないのだ、と。
正確には、名前だけは知っていた。
しかし面識が無い。
更に、この顔をじっと観てある事に気づいた。
俺は知っている、と。
慌てて職員のライブラリーを開き、過去の資料をチェックする。
そこで見つけた写真をマジマジと睨む。
これだ、と。
それは問題のSEの入社当時の顔写真だった。
俺は知っている、と。
何故、記憶と一致しないのか。
何故、この若い頃の彼を知っているのか。
何故、自分は、30年も前の記憶があるのか。
軽い目眩を覚えて仰ぐ。
「……疲れてるのかなあ俺。……いや、」
『あんたから直接リクエストが来るとはな』
VRO乗っ取り騒動を起こしたSEは、独房から主任からの連絡に拒否することなく応じた。SEは現在拘置所に収容されており、その会話は全てオープンになるため大抵の容疑者は拒否するのだが、相手が主任と知るとそのリクエストに応じた。
「……」
『ほう、その顔だとやはり俺とはお初らしいな』
「俺の顔と名を知ってるのは、俺が管理室の人間だから、だよな?」
SEは少し考え込み、
『ひとつ訊くが』
「何を」
『妹さんのことは覚えてるか?』
「い、妹? 俺には妹なんて居ないが……」
「やはり忘れたのか、
主任は絶句した。
『自分はあんたの妹さんの旦那だった』
「おい」
『VROで開催された同人誌即売会で知り合ってな。しかし、結婚して間も無く死別したんだよ。妹さんも例の病原体に罹患してな』
「おいちょっと待ってくれ」
『あんたはそのショックでまた記憶失くしてな。あのメイドが必死になって記憶領域を修復したが完全には治らなかった」
主任は頭を抱えた。SEから告げられた情報を処理する脳が追いつかないのだ。
「俺は妹さんを量子体として復活させたかったが叶わなかった。遺言でな、自分が量子体になったら真実を知らない兄を苦しめるだけだからって。そりゃあ無いだろ、俺の想いは無視されたんだ。だから俺はいつかVROの社畜どもを懲らしめたくて」
「何わけわからんこと言ってんだ!」
主任は激昂した。そのやり取りのせいで拘置所との回線は不適切と見做されてそのまま切られてしまった。
暫く主任は管理室で放心してると、管理長が入室してきた。
「拘置所の方から問い合わせが来たが……どうした?」
「……管理長。俺、いつからここで働いてます?」
震える声に管理長は暫し沈黙した。
「私がここに就任して間もなくだったよ」
「では、管理長はいつからここで働いてました?」
管理長はまた沈黙した。
「俺の記憶はVROのベータテストの頃から一緒に働いてましたよね? VROって運用開始してから何年目でしたっけぇつ?」
もはや悲鳴だった.管理長は困惑する部下を黙って見守るばかりだった。
「俺、まさか、もう肉体が無ーー?!」
遮られたのは管理長が主任を抱きしめたからであった。突然の事に主任は唖然となる。
「ご主人様……貴方はお疲れです」
「え……え……?」
「辛い事は想い出さなくてもいいのですよ」
管理長の突然の行動に動揺する主任だったが、そのうちこの声をどこかで聞いた事があるような、と思うようになっていた。
主任の記憶領域を掠めたのは、自分好みの巨乳メガネメイドの笑顔だった。
懐かしい、遠い記憶。
タスクマネジメント起動。
対象:システムオペレーター、ナンバー009SK
管理者権限により
管理者権限により、当日の記憶を削除、改変します。以上。
「……拘置所? なんですかこの報告ファイル」
「ああ、例のSEの弁護士からの報告書だそうだ。私が目を通すから君のフォルダからパージして」
「判りました。……って管理長、それ俺のコーヒー」
「ああ、そうか済まん、考え事をしていた」
「考え事?」
「今夜、君と吞みにつき合うかどうかをね」
「え」
主任は顔を赤くして慌てて吸っていた煙草を落としかけた。
「冗談だと言ったら怒るか?」
「管~~理~~長~~ぉっ」
管理長は意地悪そうに笑ってみせる。
この笑顔にはどうしても勝てない主任だったが、しかしちょっとだけこの笑顔が見られて嬉しかった。
おわり
主任は夢を見る。ep8 arm1475 @arm1475
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