九十九神

丹羽 寛樹

九十九神

                               丹羽 寛樹


 小高い丘を登りながら長い青葉のトンネルを潜ると、一軒の木造家屋が建っている。義(よし)仁(ひと)の自宅だ。その丘は神丘という名前だが、近隣に住む人々は、声をそろえて『九十九神が住まう丘』と呼んでいる。

 

 丘の回りは大小様々な樹木と、多種多様な草花。それらが群れを成している薄暗い森だ。その森は丘の中腹より少し上で終わり、土を踏み固めただけの小道が、一本だけ街と大名屋敷さながらの自宅とをつないでいた。


 楽しみにしていた新刊を片手に、義仁は全速力で丘を駆けあがる。

新しい本を一分一秒でもはやく、断捨離してすっきりした自分の部屋で読みたかったからだ。肌にあたる風が、五分袖の浅葱色をしたジャケットの隙間から入ってくる。汗に濡れた白いカットソーが風に冷やされて心地よかった。

 

 立派な門かぶり松の下を通り抜けた義仁は、広い庭の飛び石を渡って自宅の玄関先に着いた。力まかせに引き戸を開けると木と木がぶつかる怒りがこもった音が玄関に轟く。義仁は閉めることもしないで、外よりは涼しい平屋のなかに入った。


 スニーカーを乱雑に脱ぎ捨てた義仁は床の間にあがる。そして、急いで自分の部屋へ向かおうと一歩を踏み出した。


――途端。


「義仁!」と、母の怒声が玄関に響き渡った。


 玄関から家の奥へとつづく大廊下の端に、すみれ色の絣(かすり)を見事に着こなした母親が凛として立っていた。母は柔らかく、しかし隙などなく歩み寄ってくる。育ちの良い身のこなしで、品よく床の間に正座をすると義仁を鋭く睨んだ。床の間に座るという行為は、一般的にみて変なことなのだが、義仁の家ではそれが許されていた。


「神座(かんざ)守(もり)家の嫡男ともあろうものが、靴を乱暴に扱うとは何事ですか」

 

 母の口調は静かではあった。しかしその声には針が入っているらしい。ちくりと義仁の胃袋のあたりを刺激した。


「あ、いや。ちょうど今直そうと思ったところです」

「嘘をおっしゃい。ずっと見ていましたよ。今日という今日は堪忍袋の緒が切れました。そこに正座なさい」

 

 義仁はちょっぴり嬉しく思いながら、母と目を合わせて床の間に正しく座った。

義仁の大学の友人たちからは、やさしくて美人の若い母親、と良く言われる。ところがどっこい怒った時の母は鬼か悪魔だ。恐ろしいことこの上ない。このままでは義仁の読書というやすらぎの時間が削られる。何とか短くできないだろうか。義仁はこれから始まるだろう説教を待ち構えつつ、頭の片隅で考えを巡らせた。しかし、よい考えが浮かばないまま母の話が始まる。


「いいですか義仁。わが神座守家は慶長から今の令和まで続く名家中の名家です。その嫡男が引き戸を力まかせに開き、靴も揃えようとしない。断捨離とかいうのもそうです。なにを学んで生きてきたのですか」と静かな怒気を発しながら母が訊いてきた。義仁には、その気が義仁を押しつぶさんとする鬼の金棒であるかのように思われた。


 これ以上母を怒らせてはいけない。どんな答を言うにしても、神経を尖らせて慎重に答えなければ話は長くなるだろう。そう考えた義仁は、一呼吸置いてから口を開いた。


「すみませんでした。新しい本を手に入れたので舞いあがっていました。以後、注意します」

「毎回、毎回、よくぞ同じような言葉がいえますね。母は聞き飽きました。あなたの反省はうわべだけということもよくわかりました」

 

 ここからが長かった。義仁の感じるところ、二時間にも三時間にも思えた。実際は小一時間と経ってはいないだろう。その間に、やれしきたりは、やれ学ぶとは、父は、と義仁は散々どやされた。

 

 やっとのことで説教から解放された義仁の足は、爪の先からふくらはぎのあたりまで電流が走ったように、じん、と痺れている。


 母はなんともない様子ですっと立ち上がり、「夕食の準備をします。義仁は部屋に戻っていま教えたことをよく考えなさい」と言って、すっきりとした爽快な顔を見せて、家の奥へと姿を消した。


 義仁も足のしびれが収まるのを待って、ぶつくさとひとりで文句を呟きながら、自分の部屋へと向かった。


     *


 さくらは、殆んど家具がない部屋の片隅で義仁を待っていた。部屋に家具がないのは、義仁が必要最小限のもので生きたいといって、断捨離とかいうことを実施したからだ。幸いにも捨てられなかったさくらは、義仁に必要とされていると思えた。さくらはいつも義仁の部屋の障子が開くのを今かいまかと待ちわびる。


「いつ帰ってくるのかしら。義仁さまはいまどのあたりにいるのかしら。ああ、帰ってくるのが待ち遠しい」

 

 さくらは夢の世界に入り込んで、あれこれと思い出に浸りだす。義人がさくらを胸に抱いてくれたあの日のことや、義仁とはじめて出会ったときのこと、さくらの身体を丁寧に拭いてくれたこともあった。そんな想いを巡らしていると、部屋の障子が滑るように開いた。


「あ! 義仁さまおかえりなさい」

 

 しかし義仁は返事をしない。それもそのはず。さくらの声は義仁に聞こえてなどいない。さくらは本棚にぎっしり詰められている一冊の本なのだから……。

 

 だけど、さくらにとってそんなことは些細な問題でしかなかった。義仁がさくらの目の前に存在している。その動きを追えるだけでもさくらは幸せだからだ。


 それでも、もし義仁と共に歩けたとしたら。どれほどの幸福感が胸に広がるのだろう。そう想像してしまうことがしょっちゅうあった。さくらは、もういちど義仁の動きに視線を凝らした。


「ああ、なんて綺麗な黒髪なの。長くもないし、短くもない。あたしの理想そのもの。優しい瞳も輝いて、とっても綺麗。あたしの素敵なご主人さま、早くあたしのところへ来てほしい」

 

 しかし義仁はベッドに横になってしまった。そして手に持っている袋から一冊の本を取りだす。義仁はその本を嬉しそうに読みだした。さくらはその本を憎らしく思って睨んだ。


「あの本も、あたしたちみたいに心を持つのかな。きっと持つよね。だってそれが神座守の血の力だもの。この丘の神力だもの……」

 

 耐え難い嫉妬心が胸の内側を蝕んでいくのがよくわかる。痛みにも似た感情。とても熱い氷。その熱さが増せば増すほど、心は凍り付き、傷付いていく。さくらは義仁の温かい寂しい手に、もう何年も包まれていなかった。だからその感情が溢れて来ているのかもしれない。

 

 さくらと義仁は十年前に街のとある古本屋で出会った。義仁は現当主であるお母さまに絵本を強くねだった。その時の義仁は抱きしめたくなるくらい可愛らしかったのをよく覚えている。意識や心はまだなかったが、ただの本であったときの記憶もどうやら残っているらしい。

 

 絵本を買ってもらえた義仁は大げさに身体を弾ませて喜んでいた。桜の一生を書いた絵本。さくらと題名が書かれているあたし。どこへ行くにもそのさくらを胸に抱いて連れて行ってくれた。しかし最近はさくらを手に取ることはまったくない。だから新しいあの本を憎らしく思ってしまう。


「どうしたらいいの。どうすればまた義仁さまと一緒に歩けるの。いったいどうすれば……」

 

 もう二度とそんな機会に恵まれないかもしれない。さくらは悲しくなる。けれども、どうしてもなんとかしたかった。


「あ、そういえば、茶器さまがこの部屋に来た時に願いが叶う日があるとか言っていたような……。なんだったかな」

 

 茶器さまは慶長から神座守家に居る最古参の茶碗だ。なんでも神座守の始祖さまがとても大事にしていた茶碗らしい。いまでも家宝としてこの屋敷の蔵で大切に保管されている。

 

 たしか去年の暮れのことだ。蔵の大掃除があるからと、この部屋に茶器さまが運び込まれたことがあった。そのとき、茶器さまにさくらは色々と話をしてもらっていた。生きているだけで、ものに命を与える神座守の力のこと、だから栄えたこと、九十九神の声を聴けるほど力を持った一族はもういないこと。願いのこと。


「なんて言っていたっけ。たしか十年に一度、神が天から降り立つ日に、九十九神が集まってお祭りをするとか、その日に心の奥からの願いが叶うとか、そんな話だったはず。そのお祭りはいつだった? 来年のお盆前って言っていたような。―今日だわ」


 ただの想像に過ぎなかったことが、もしかすると実現するかもしれない。一筋の希望の光がさくらには見えた気がした。さくらは踊り出したい気持ちを押さえつけて、天高原の神々に必死に願う。


     *


 義仁は真新しい本を、ベッドに寝そべりながら読んでいた。ふいに集中力が途切れた義仁は、ちらりと木製のデジタル時計をみる。もうこんな時間か。まだ読書を楽しんでいたかったがそろそろ夕飯だ。義仁は本にしおりを挟むと、溜息を一つ吐いた。

 

 ベッドから立ちあがった義仁は、なにかの視線に気付く。部屋には誰もいない。なぜかわからないが毎日この視線を感じる。弾力性に富んだ心は、なにかが起こるかもしれない、と期待で弾んだ。


 義仁は視線の感じる本棚のあたりをじっと見て息と眼を細めた。おとぎ話に出てくる小人だろうか、もしかすると幽霊でもいるのではないだろうか。しかしどんなに眼を凝らしてもなにもいない。義仁はあきらめと無念が混じる吐息を漏らした。

 

 居間に行こうと振り向きかけた義仁。その瞳にピンク色の本が眼を引いた。懐かしくなってその本の前に立って視線を注いだ。

生暖かい夕風が明け放っていた小窓から、レースのカーテンを膨らませては萎ませてゆったりと流れた。


「義仁。夕飯が出来ましたよ」


 母の声が家中に響く。過去を思い起こすことに集中していた義仁は、母の声に驚いてびくりと身体を震わせた。義仁は仕方なく部屋を後にする。そして母親と夕飯が待つ居間へと寂しそうに向かった。

 

 すでに居間のちゃぶ台には、料亭顔負けの和風料理がきちんと並べられている。どれもおいしそうだ。畳のうえを歩いて料理に近づけば近づくほど、よだれが出そうな香りが強くなる。義仁はごくりと生唾を飲み込む。と同時におなかの虫も騒ぎはじめた。だがどう見ても、その料理の数々は二人分だ。義仁はまたかと思いながら、襖から一番近い座布団に座った。

 

 割烹着を脱ぎながら居間に入って来た母に向って義仁は、「父さんは今日もいないのか」と訊いた。


「あなたの父はやり手の商社マンです。家族のために海外を飛び回っているのです……。さあ、そんなに暗い顔をしていないで夕食にしましょう」割烹着を丁寧にたたみつつ母は言う。だがその顔も充分暗い顔をしている。母も寂しいのかもしれない。普段は気丈に振舞ってはいるが、会いたいとき、話したいとき、夫がいないというのは、きっとつらいことに違いないのだろう。義仁はできる限り明るい顔に見えるように努めた。


「母さん食べよう。せっかくの料理が冷めちゃうよ」

「まったく、あなたは……。叱られているときは敬語を使うのに、そうでないときは友達口調なのですね。魂胆が見えみえですよ」

 

 どうやら母も寂しさを抑えつけたようだ。お外用ではない正直な笑顔を義仁は見た。


「では、八百万の神々に感謝を」

 

 神座守家の古いしきたり。夕食の前に必ず、一日無事に過ごせたことと、明日も無事に過ごせるように神棚に手を合わせてから食事をするのだ。義仁は何の疑問も抱かずに感謝の言葉をささげた。


「今日も一日ありがとうございました。明日もよろしくお願いいたします」

「では、いただきましょう」最後に母が締めくくったあとに続いて、義仁も食事をはじめた。

 

 母の料理は控えめにいっても美味しい。金目鯛の煮つけを一口食べる。白身魚の上品な脂とザラメの優しい甘さ。その調和した味わいがしっとりと舌にひろがる。


「どうですか。おいしい?」

 

 勝ち誇っていそうな満面の笑みの母。義仁は正直に言うのが気恥ずかしい心持がして、ただ「うん」とだけ音を出した。

 

 母の顔がむっと膨らむ。義仁はあわてて言葉を付け加えた。


「母さん、おいしいよ。この鯛の煮つけが特に。今日はなにかおめでたいことでもあったの。鯛だけに」

 

 母の表情が緩んだのを見て、義仁はほっと胸を撫でおろした。


「ずいぶんと古い冗談。義仁は老け込むのが早まりそうですね。それはそうとして、今日は、神座守の家が代々祭っている神さまが、わたしたちが住んでいる地上へ権現……。天から降りてこられる日なんですよ」


 母は手に持った夫婦箸を丁寧に置いて、ありがたそうに神棚に目を向けて答えた。


「毎年ってわけじゃないよな。この季節に鯛を食べた覚えがまったくないもん」

「あらそう、でも義仁が八歳の時に一度出していますよ。あなたは鯛の目が気持ち悪いと大騒ぎして、箸すらつけませんでしたけど」

 

 そういった母の表情に、また少し影が射したようにみえた。

「やっぱり、覚えていないよ。そんなことがあったんだ」義仁は自分の箸を適当に置いて母に答えた。

 

 母の影が火の色に変わったのを義仁は見た。また地雷を踏んでしまったのだと思う。

 

 仕方ないじゃないか。と義仁は髪の下で文句を呟く。十年も前のことを覚えていないだけで怒るのはやめてほしい。それはだいぶ大人気ないことだと義仁は思う。そして怒られてもいたずらを続ける子供のような悪びれない気持ちが、心を広くめぐりだしていた。しかし。


「義仁。お箸を適当にほうり投げてはいけません」母が箸を申し訳なさそうにじっと見ながら言った。

 

 母が怒った理由は義仁が考えていた理由とはまったく違うことだった。母も義仁をわかっていないだろうが、義仁もまた母をわかっていない。親の心子知らず。子の心親知らず。というが、うまく言ったものだ。と義仁は苦笑した。


「母さん、ごめん」義仁は言い終わらないうちに、箸を揃えて置いた。

 

 母の頭がゆっくり下を向いて、おなじところへ帰っていく。その動きがそれでいいのですとでも言っているかのようだ。その動きを見た義仁の心には、また深い安心感が広がった。

 

 そのあとの夕食は、たわいもない世間話をしながら、舌が溶けて消えてしまいかねないおいしい料理をほおばった。舌鼓を打ち終わった義仁は、さきほどの本をまた読もうと自分の部屋へと急いだ。


     *


 たぶん義仁の足音だろう。急いでいるのか床の鳴る音がはやい。きっと新しい子を早く読みたいと思っているに違いない。さくらは、はやる気持ちを抑えて、義仁のベッドの近くで静かに正座していた。

 

 すこしすると桜の木で出来た鴨居と敷居がするりと上品な音色を醸しだす。その色を聞いた瞬間、わたしの重たい胸も色めいた。


「だれだ。おまえは」


 義仁は、とても驚いているのだろう。目が黒い点になっているのが見てとれる。さくらは長い髪を何度か撫でつけた。そして義仁に、ほんのりとした笑顔にみえるよう祈りながら、そっと三つ指を突く。薄い白の桜の花に似た自分の指が視界に入った。


「はじめまして義仁さま、さくらと申します。いきなりで驚いたでしょうけど、一度落ち着いて話をきいてくださいな」

「え……どうして……、どうして」

 

 義仁はおなじ言葉を二度つづける。その言葉は虫の楽団が奏でる演奏に溶け込み、いつもと違う突飛な調子を含んで繰り返された。少し混乱しているのだろう。さくらはなにか言わなければと思いはしたものの、結局なにも言えないでいた。


「どうして、君はここにいる。いや、その前に君はだれで、どうして名前を知っているのかな」

 

 義仁の態度は驚きを通り越して落ち着いているように見える。しかしその声は混乱の色を含んでいた。けれども驚いた表情のなかには、はっきりとは言えない、期待に満ちた光が射していた。

 

 さくらは、自分が一冊の本であること。神さまに願いを叶えてもらったことを話した。話し終わったあとの義仁の瞳は、電灯の明かりを反射して光の軌道を描いている。屈折することなく、直線的でいて絶えずさくらの瞳に発せられていた。そのまばゆいばかりの温かい光線に耐えきれず、さくらは下を向く。


「そうか、やっぱりだ。生物じゃないものたちがこの世界に存在している。それがわかったことがとてもうれしいよ。だけど、どうして人の姿なんだろう。もっと幽霊というか、思念体のような姿でもよかったんじゃないかな」

 

 義仁が言ったことはもっともだと思う。けれども、それはさくらと神さまの秘密なのだ。おいそれと話すことはできなかった。


「義仁さまが、少しでも驚かないようにと、神さまが気を使ってくださったんじゃないかな。現に人の姿でも充分驚いています」

 

 さくらは生まれてはじめて嘘をついた。さくらという本は嘘をつくわけにはいかない種類の本だ。それでも嘘をついたのはひとえに、人に知られれば願いは消えるからだった。


「そうなんだ。じゃあどうして今日なの」

 

 その種類の本が好きな義仁は、さくらの嘘をあっさりと信じたようで別の質問が口から飛び出してきた。どうしても言いきれなかったことに繋がる質問に、さくらの心はゴム毬のように何度も弾んだ。


「あたしは、義仁さまを、あたしたちの、お祭りに、連れて行こうと、考えたからです」

 

 お祭りにはいかないと言われたらどうしよう。そう考えていたさくらの声は、緊張のあまりうまく響いてはくれなかった。呼吸もうまくできない。頬もなぜか熱くなってきている。さくらはその頬を両手で挟み込んだ。ちょっぴり冷たい手の感触が、すっぽりとさくらの頬を覆った。

 

 義仁はさくらに優しい笑顔をほおってよこして、「お祭りか、ぜひ行きたいな。いや、違うな、連れて行ってくれないか?」

 

 さくらの耳が頬よりも熱くなるのを感じる。それだけではなくて、五体すべてが熱く火照っているのがわかった。さくらの口のなかは水分が消え失せてしまったのではないかと思うほど乾いている。舌のざらりとした感触が口の裏側を襲う。五体の熱さのせいなのか、空気の熱さのせいか、まるで見当がつかなかった。けれども嫌な気分は塵ほども感じられない。


「はい、ご案内します」と、ほんの少しでも上品にきこえるように努めて言った。さくらは内心、嬉しすぎて泣きたかった。


     *


 義仁はさくらに連れられて、息を抑えながら廊下を抜けて玄関に向かった。母に見つかればさくらのことで根ほり葉ほり聞かれるだろう。それは絶対避けたい。


 その母は今頃、ご神体を祀っている部屋で祝詞を唱えているはずだ。ただでさえ大きな家。ましてや祝詞を大きめの声で唱えているのなら静かにさえしていれば、母に見つかることはないだろう。と考えた義仁は、音もなく玄関から外に出た。さくらもわかっているようで同じく静かに歩いていた。


 外は柔らかな月明かりが足元を照らしている。虫の声が心に染み入り、やっと涼しくなった夜風の感触。その風に当たったさくらの黒く細い髪がふわりと宙を泳いだ。月光がその髪を黒真珠のように煌めかせていた。


 さくらの髪とは真逆に、白く輝くほっそりとした顔には、幸せそうな華やかな笑顔が見えた。その周りに蛍のような数えきれない光球がさくらをほんのり照らしている。義仁は顔に熱が帯びるのを感じて、視線をさくらから離す。一面見渡す限りに光球が浮かんでいた。


 さくらは光球には目もくれず急ぐように森へ向かっている。義仁も置いて行かれないように急いで後を追った。

「さくら。なんでそんなに急ぐんだ」

「お祭りが始まってしまう時間だからです」

「それなら、もっと急ごう。―競争だ」

 

 義仁は勢いよく走りだす。後ろ髪から「あ、ずるいです」と少し鼻にかかるかわいらしい声が聞こえた。

 

 義仁は森の入り口でさくらが追い付いてくるのを待った。肘を振りながら小刻みに走るさくら。その姿を瞳に映した義仁の胸に、ザラメの味が膨らんだ。やっと追い付いてきた荒い息をしているさくらに、「大丈夫か」と義仁は訊くと、さくらは、「走るのってたのしいですね」と顏をほころばせていた。

 

 森の小道に入った義仁とさくらは、その途中で大きく道を逸れる。青い草を足で分け、若い木の枝を手ではらう。さくらのかぼそい肩甲骨が、枝をはらうたびに前後に動いていた。そして汗の雫が清楚なうなじから首筋へ流れて、衣文を抜いた着物へと吸い込まれた。

 

 森が空けて広場になっているところで、さくらが急ぐのをやめた。どうやら目的の場所に着いたようだ。


 義仁は首を左右に振り辺りを眺めまわす。そして衝撃をうけるほど驚いた。右も左も、どこを観ても異形のものたちばかりがいる。玄関の戸だったり、靴だったり、箸だったり。どのものたちにも人間とおなじ顔の部位があり、手足が生えている。義仁はわずかな恐怖をおぼえたが、桃色のさくらの背中を追って、広場の中心へと向かった。


「おい、見ろ。義仁さまだ。なんでこんなところに来ているんだ」


 箸の異形が呟いた言葉が耳に入る。それは歩を進めるたび、他の異形の声も混ざり合って大きく強くなっていった。広場の中心に着くころには無数の異形が、義仁とさくらを取り囲んだ。その者たちは声をそろえて叫ぶ。


 ――この恨みはらさでおくべきか!

 

 義仁の膝の皿が力を失うまいと激しく震えた。耐え難い恐怖。受け難い憎悪。たった一言であらわされた感情が、自分という人間を形作るすべての細胞を、ひとつ残らず縛りつけてしまったようだ。

 

 しかし異形のものたちは動こうとしなかった。鋭い視線は義仁を貫こうと放たれ続けている。拳を硬く握り締めているものもいた。罵詈雑言さえ聞こえる。だが、なぜか襲い掛かっては来なかった。


「みんな、やめて。お願いだからやめてよ」

 

 さくらが義仁を庇うように、両手を一杯に広げて、集団の前に立ちはだかった。

「構うことはねえ。やっちまえ」とスニーカーの異形が眉を吊り上げながら怒気を纏って叫ぶ。異形たちもそれにならい叫びだした。


 義仁の眼には、異形のものたちを止めようと必死で右往左往するさくらの姿。その一心不乱の呼びかけは、無数の荒ぶる声にかき消され、空しくも霞と消える。義仁はさくらを眼球に捉えたまま、動くことも声を発することもできないでいた。


 異形の集団は一歩、また一歩と間を詰めてくる。しかし何かに怯えているようにも義仁には映った。実際、一気に押し寄せてくれば、義仁とさくらだけでは防ぎようがないのだ。それでも義仁と集団との距離は、手を伸ばせば届くあたりまで近づいて来ている。


 引き戸の異形が左手の甲に筋の力強い線を浮かばせて、義仁のむなぐらを硬く掴んだ。もう片方の手は天に向けられて、上腕に力こぶが盛り上がる。殴られると思った義仁は、とっさに歯を食いしばって瞼を強く閉じた。だが、いつまで構えていても一向に痛みの波と振動が押し寄せてくることはなかった。


 身体をじっと強張らせることに耐えかねた義仁は、おそるおそる眼を開く。引き戸の異形が天に拳を向けたまま、後ろの一点を凝視して固まっていた。いつのまにか怒声も消えている。辺りは静まり返って、青葉が風に擦れる音と、変わらず温かい光を放つ球体が浮かんでいるだけだった。


「茶器さま……」引き戸がバツの悪そうな顔をしてぽつりとつぶやく。その声が向かった先には古びた茶碗の異形が堂々と立っていた。

 

 茶椀の身体は他のものたちよりも小さかったが、ここにいる誰よりも義仁には大きく見えた。その後ろの人だかりが二つに割れて道が出来ている。どうやら茶椀の異形を通すために集団が道を空けたらしい。

 

 さくらは腰が砕けたのか地面に座り込んだ。ほっとした空気がさくらの表情に漂っているのを義仁は感じる。つられて義仁の心にもまばゆい安堵が広がった。

 

 義仁は茶椀と目が合う。そして茶碗はさくらのほうを見た。茶碗は集団をぐるりと眺めると、最後にまた義仁に視線を投げた。

 

 すべて理解したとでもいうように茶椀が、「なるほど。ここはわしに任せよ」と、静かだがよく響く声で集団に聞かせる。そして義仁に近づくと、とても丁寧なお辞儀をした。


「お初にお目にかかります。わしは茶器と皆に呼ばれている九十九神の筆頭でございます。若君さま、なにとぞわしの話を聞いていただけませんでしょうか」と茶器は義仁に向ってそう切りだす。義仁はただ首を縦に振った。


「ありがとうございます。今回のこの一件は、若君さま……つまり義仁さまにも非があり、またわしたち九十九神にも間違いがございます」

「どういうことですか。こころあたりがありません」

「いいえ、それは違います。若君さまはそうとは知らずに、罪を冒しておられるのです」

「知らないうちに?」

「はい。若君さまは断捨離と称して、わしらの仲間を殺しました。そして日ごろの暴力。怒らぬわけがございません」

 

 周りを取り囲む者たちが、「そうだ、そうだ」と騒ぎたてはじめる。茶器が手に持っている杖を強く打ち付けた。乾いた音が轟く。するとぴたりと騒ぎが止んだ。茶器は一度頷いてから話を続けた。


「しかし、わしらも暴力で解決しようなどとは、なんとも浅はかな考えでございます。しかも九十九祭りの真最中。仲間の魂も帰ってきているというのに……」茶器は無数の光球を懐かしそうに眺めて言った。

 

 どうやらこの光球は朽ちてしまったものたちの魂らしい。義仁はそう考えると悲しくなる。義仁が捨てたものたちの魂も、きっと帰ってきていると思えたからだ。義仁の心に罪の意識が芽生える。そして助けを求めるようにさくらに視線を送った。


 さくらは茶器をじっと見ている。そして思い立ったようにさくらが地べたに座り込んだまま、周りに響く大きな声をあげた。


「茶器さま。義仁さまはきっと寂しかったんです。幼い頃からお父さまは仕事で帰って来なくて遊んでもらえなかった。当主さまは家事に炊事と大忙し、兄弟もおりません。だから、叱られるようなことばかりしていたのではないでしょうか」

 

 さくらの言葉はまさにその通りだった。義仁はずっと構って欲しかった。断捨離も母の気を義仁に向かせるためにやったことだった。もちろん物を粗末に扱うことも……。


「知っておる。この年寄りは若君さまを産まれた時からずっと見ていたのだから」茶器は心なしか微笑んでいるように義仁には思われた。


「わしは若君さまを許そうと思っておる。神座守の血筋と、この山がなければ、わしらは生きていけぬ。なくてはならん。ただし、もう二度とわしらに危害をくわえないとこの場で誓ってくださいませんか」

 

 義仁はひとりではなかったのだ。こんなにも傍にいてくれたものたちがいた。義仁は酷いことをしてきたのだと思う。罪なこととも思う。その罪を償えるかどうかわからない。けれど出来る限りものを大切に扱っていこう。義仁は、はっきりと鮮明にそう考えた。


「約束します。でもお願いがあります。ずっと傍にいてください」

 

 義仁は心の底から祈る。もっと話をしたいと。もっと仲良くなりたいと。神は訊き届けてくれるだろうか。いや、訊き届けてくれなくても九十九神はずっと見守ってくれるだろう。


「さあ、戻りなされ。わしらは約束を違えない。若君さまの居る限り。約束を守ってくれる限り」と茶器が嬉しそうに、そして優しさが滲みでそうな声で言った。義仁は寂しさから解放された嬉しさと安心感からか、熱いものが頬を伝うのを感じる。茶器の言葉のあとに、さくらの言葉が続いた。


「わたしも、ここでさようならです。ほんのひとときでしたけど、夢のような時間でした。義仁さま。ありがとうございました」

 

 さくらの寂しそうな声が、義仁の鼓膜に張り付いてしまいそうだった。それは熱い気持ちを冷ますには充分な声だ。熱いものとおなじものだが、今度は寂しさからか、ひんやりしたものが頬を濡らした。


「茶器さんも、さくらもありがとう。そしてほかの皆。ごめんなさい」

 

 義仁はそう言うと、九十九神たちを一度見渡して、その場を後にした。この日のことを忘れてはならないと、深く胸に刻み込んだ。

 

 森の暗い道に、無数の魂が明るい道を作ってくれていた。まるで義仁を許すかのように……。

 

 部屋に着いた義仁は、桜の一生が書かれた本の背表紙を一度優しく撫でると、倒れ込むようにベッドへ吸い込まれていった。


     *


(あれから数年が経ちました。九十九祭りの時は色々あったけれどいまとなっては良い思い出です)


「さくら。母さん。ただいま。帰ったよ」

「義仁さま、おかえりなさい。当主さまは鯛を買いに行かれました。それと茶器さまが怒っていましたよ。今日はわしの背中を若君さまに流していただく日なのに遅いって」

「わかったよ。今行くって言っておいてくれ」


(あたしの願いは完全な形で叶いました。きっと義仁さまの……。あたしの夫の願いもかなったのだと思います。あたしはとても幸せ。きっと、これからもずっと……)


                            〈了〉





                    【四百字詰め原稿用紙換算数三十二枚】

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九十九神 丹羽 寛樹 @hiroki20031616

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