トートイ
虫十無
呪文
ブラジルで多くの人が謎の死を遂げている。明らかにおかしい人数だ。謎の死を遂げた人たちの共通点はない。精々死んだ場所が近いというくらいだ。ただ元々範囲も広かった。だから近いと言ってもある地点の死に近い地点における死と他の地点の死に近い地点における死がお互いに近いというわけではなかった。
ここ一か月だけでその前はそんなに多くなかった。もしかしたら未知の病原菌があるのかもしれない。けれどこんなに死者が出てもまだ見つからない。全員を解剖や検査できるわけではないがそれらが行われた場合は心筋梗塞や脳卒中が死因と判断された。しかしそれらと計上してもそれぞれ前年比約十倍の死者数となっている。やはりおかしいのだ。
今わかっていることは何もない。それだけだ。ただ何もわからないからこそブラジルから逃げる人は沢山いる。隣国に逃げるのが大半だが中には遠くヨーロッパまで逃げるような人々もいる。
それはそうだろう。しかしブラジルから人がほとんどいなくなった頃には隣国にも謎の死が急増していた。元々隣国にも誤差の範囲と判断されるくらいの謎の死の微増はあった。
そう、普通の感染症のように見えた。だからヨーロッパに逃げた人々は迫害された。隔離という建前で迫害された。原因がわからなかったことも大きいだろう。ただ来た人を敵と見なすことで不安を外に押しやろうとした。
けれどヨーロッパでは謎の死は増えなかった。偶然と見る向きもある。
それは呪術だった。人を呪い殺す類のものだ。
本来は区切った場所で使われるものだった。区切った内で一番遠い人が対象のもの。家と区切るなら家の中で一番遠い人、村と区切るなら村の中で一番遠い人。区切る前提があるから本体の呪文は短くても問題ない。むしろ短い方が対象もそれ以外の人も動く前に言い終わることができる。
区切らなければ、ただ一番遠い人が対象となる。そして今その呪文が呪文と知らず繰り返されているのは日本でだ。だから一番遠い人というのは基本的にブラジルにいることになる。ブラジルに、と言うより日本で呪文を唱えた人から一番遠い人がブラジルにいなくなったなら隣国の人々が対象となる。ヨーロッパはブラジル等南アメリカ大陸よりは日本に近い。だからこそそちらで謎の死を遂げる人はいなかった。
ではなぜここ一か月のことなのか。確かに、その言葉はここ数年よく使われるようになった。だからここ数年で増えたというならわかる。
簡単なことだ。呪術とするために持ち込まれたものがある。持ち込まれたと言っても物ではない。音だ。
「尊い」の音は元々その呪文とは違った。だから問題なかった。しかし一か月と少し前、ネットに「尊い」の正しい発音なるものが流された。人々は様々な理由からそれを採用した。懐古趣味、見栄、信用。
「トートイ」の呪文はそうして広がり、多くの人を呪い殺した。
ネットにその情報を流した人はつきとめることができた。けれどその人はもう三十年ほど前に死んでいるはずの人であり、その人はこの呪術の発祥の地へ赴いたことはなかった。
その人に成りすまして、ということはできない。そうなっている。
人には不可能なことも一つある。けれど人間以外にはできないこともある。怪異の仕業と見る方がいいだろうと私などは思うのだがそうも行かないらしい。
トートイ 虫十無 @musitomu
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