シーン4-1 疑念
一週間後。八束高校の保健室ではいずみがどこかへ電話をかけていた。
「……いや、無理なのは百も承知しているさ……金なら出すから、その無理を何とか通すことは出来ないか? ……この間の分? そんなものはとっくに使い切ってしまったよ……」
電話越しに相手と話すいずみの口調はいつもの明るい調子ではなく、切迫感に溢れている。それだけ重要な電話だということなのだろう。
「……もう間もなく一般に出回るようになるからそこまで待て? ……いや、そうも言っていられない事情があってな……それなら医者に見せろ? ……それが出来るならお前にお願いなどしていない……!」
電話の相手はいずみの話に難色を示しているようだった。色よい返事をしてくれない相手にいずみはつい声が大きくなってしまうが、詳しい事情を相手に話す訳にもいかないこともあり、いずみ自身それが単なる八つ当たりであることは理解している。
そんないずみの足下を見透かすかのように、電話の相手はある提案を持ちかけた。それを聞いたいずみの顔が曇る。
「……なに、私と……? ……どうしてもそれしかないのなら考えには入れておく。……ただし、その話を通すのならばお前が最低一月分程度モノを用意できることが絶対条件だ! それが出来ないのならば話はなかったことにさせてもらう。……一か月分はとても無理? ならそんな下世話な要求などするんじゃない。……もういい、これ以上お前には頼まん!」
相手の対応に腹が立ったいずみは付き合いきれないとばかりに電話を切ったが、切ったからと言って事態が好転するわけもなく、少し経って怒りが収まったいずみは深い溜息を吐く。
「ああは言ったものの……レジステアに関しては奴以外に当てがあるわけでも無いし。さて、どうしたものか……」
いずみは仕事用の黒椅子に深く腰掛けながら思案する。
これまでは電話の相手である製薬会社の知人から優希に必要なレジステアを調達してきたのだが、元々レジステアはまだ試験段階の薬であり、知人にもかなりの無理を言って確保してきた経緯がある。
それを考えれば、いずみを「抱く」ことを条件にとにかく当面必要なレジステアを融通するという提案は、知人にしてみれば当然の対価を要求しただけであっただろう。まだ正式に承認もされていない新薬を密かに横流ししていることが知れ渡ってしまったらそれこそ大問題である。冷静になればその程度の道理が分からないいずみではない。
「ああ言ってしまった手前、もう奴には頼めないし……かと言って、優希のことを放っておくわけにもいかないしな」
いずみは普段の陽気で明るい調子とは全く違う、重苦しく暗い調子でつぶやく。優希以外の生徒や教師には絶対に見せない姿だった。
普段こそ適当で明るく陽気なキャラクターで通しているいずみだが、実際の素顔は真面目で責任感も厚く、思い込んでしまったら融通の利かない、頭の固い性格である。普段の性格も「養護教諭はこうでなければ」といういずみの思い込みで形作られたものであり、こうやって一人きりになったり優希がいる時には地の性格の方が表に出てしまう。
「……ダメ元でも他の製薬会社に類似する薬がないか聞いてみるか。もし見当たらないようならば……恥を忍んで奴にもう一度頭を下げるのも止む無し、か……」
憂鬱そうにそうつぶやいたいずみはもう一度電話を手に取ろうとするが、その時保健室の戸がゆっくりと二回ノックされる。
今は授業中である。優希はいじめがあったとしても授業中に仮病を使うような人間ではない。逃げるならば授業前にさっさと駆け込んでくる。従って、誰か別の人間が来たことになる。
いずみはよそ行きの明るい声で「どうぞ」と言った。
引き戸を開けて入ってきたのは、優希のクラスの担任である北栄であった。
北栄が保健室を訪れるのは初めてのことではないだろうか。何度か優希以外で北栄の受け持つ生徒たちの世話を焼いたこともあるが、その時もいずみの方から職員室に出向かなければ話の通じない人間であった。
その北栄が珍しくも自分の方から保健室に出向いてきたのである。何か重大な案件でもあるのかと、いずみは首を傾げてしまう。
「北栄先生が保健室にお見えとは珍しい。今は授業中なのだが……」
「今日のこの時間は私の受け持ちはありませんのでね。少々座間先生とお話をしたいと思いまして……」
北栄は相も変わらずいまいち気の抜けたような口調で話すが、いずみはその態度に何となくだが嫌なものを感じる。気の抜けたようでいながら、その実こちらの一挙手一投足に至るまでじっと観察しているような印象を受けたのだ。
いずみはひとまず北栄に椅子を勧めると、北栄の出方をうかがうために自分から話し始める。
「なるほど……それでお話というのは?」
「はあ……最近うちのクラスの歩生がしばしばこちらにご厄介になっているようでしてね」
いずみはその言葉に微かに眉をひそめる。優希が頻繁に保健室を訪れていることなど、とっくの昔に周知の事実となっていて今更持ち出すような話でもない。まして、優希がそうせざるを得ない状況を作り出しているのは当の北栄自身である。今更何を聞こうと言うのか。
いずみは表面上笑顔を維持しつつも、心の中では北栄のことを得体の知れない人間として警戒し始めた。
「歩生君か。確かに最近は調子がすぐれないことが多いようだ。身体的に問題はないから、精神的なものが大きいと私は見ているが……」
いずみは噓をついた。優希の身体は問題ないどころか異常が過ぎるくらいなのだが、正直なことを北栄に話したところで話が進むとも思えない。
だが、それを聞いた北栄は一瞬奥底の知れない冷たい笑いを浮かべ、それから疑わしげにいずみのことを見つめる。
いずみは背筋がぞくりとした。
「本当ですかねぇ……?」
「私の見立てをお疑いかな?」
「いえ、そういうつもりはありませんよ。ただ、大切な生徒がもし重大な病気にでもなっていたらと考えると心配で心配で……」
疑問に対しいずみが強い口調で反論すると、北栄はオーバーな身振りを交えながら明らかに嘘だとわかる言い訳を話し、いずみはますます警戒心を強める。この男を信用するのは危険だと、本能的にそう思った。
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