ゆめよりすてきな夢
眞壁 暁大
第1話
最初に月を見上げたとき、俺は7歳だった。
まだ自分のことを「僕」と言ったり、時として自分の名前で呼んだりしていた時分だ。
10回目に月を見上げた時は、俺は17歳だった。
その頃にようやく何かおかしいことに気づいた。
賢い連中はもっとずっと早くに気づくものらしい。
けれど、俺は気づかずにその日まで過ごしてきた。とにかく自分の運が悪いのだな、とばかり思い込んでいた。
そうではないことを思い知らされたのは18の春だ。
成績がバラバラの生徒ばかりが集められた場所に、なぜか俺も呼ばれた。
見知った顔ばかりだが、どの顔も成績がぱっとしない奴ばかり。
俺も他人のことを言えたほどではないが、それでも常に上位3割には入っていたから、いささか場違いな印象を持った。間違って呼ばれたのではないかと思ったほどだ。
教師が入ってきて告げた言葉で、間違いじゃないことにすぐに気付かされた。
察しのいい奴、賢い奴は言われるまでもなく気づいていたのに違いない。
そこに気づかないのだからやはり、俺が呼ばれたのは間違いではなかったのだと今は思う。
「今日集まってもらったみんなは、月を見ても何も感じなかった組だ。何かおかしいと思わなかったか?」
俺は首をかしげる。
思い当たる節もなかったので少し顔を上げてみたら、周りもそうだった。
教師はそれを見て少し肩をすくめる。
「上に上がって月を見るとき、いつも曇ってなかったか?」
そう言われて気付いた奴もいれば、なんだ、そのことか、という反応をする奴もいる。俺は後者だった。そのことは気づいていたが大した問題ではないと思っていた。
「10年もの間、満月の日に限って曇るというのは不自然だと思ったりはしなかったのか? 周りとそうした疑問を話しあったりはしなかったのか?」
畳みかけるように教師はさらに続けた。
「不自然だと思ってもそれを表に出さない奴、そもそも不自然だと気付くことすらなかった奴。ここに集まっているのはそういう連中だ。消極的か、注意力が散漫か。そのどちらか、あるいは両方だな」
ここまで言われると俺も、ほかの連中もさすがにこの集まりがどういう集まりなのか悟る。
嘘だろ、と思ったが教師のセリフは図星だった。
こういう衝撃を受けた時に、それを分かち合うような友人が俺には居なかった。そもそも喜怒哀楽を共有するような友人をついぞ得たことがない。それで不自由しないと思っていたが、どうやらそれは間違いだったらしい。
「君たちは次の階梯にはやれない。ここで離脱してもらう」
教師のセリフに動揺は広がるものの、抗議の声や悲嘆の声が聞かれることはなかった。こういうところもまた、俺たちが消極的だとみなされた理由なのだと思い知らされはするが、それを隣の奴と分かち合おうとも思えなかった。
けっきょくのところ、俺は徹頭徹尾そうした情動の欠落した人間だったのだと思う。
あの時。
示された選択肢はおおざっぱに二つだった。
外のシリンダーでの監督官の仕事。
中のシリンダーでの作業員の仕事。
待遇は外のシリンダーのほうが良い。
内筒育ちで外のシリンダーの空気に耐性のある人間は少ない。
一番下層の、外のシリンダーではいちばん空気のマシなフロアでも内筒育ちではそれなりに負荷のある環境だったから、そこに耐えられるのであればいかなる人材でも歓迎されるのが実情だった。
それなりに出世の可能性があるのはこの監督官の仕事だから、希望は殺到する。
しかし、俺はそれにのれなかった。
体質的に外のシリンダーの暮らしには耐性がないと評価されたためだ。
この時ばかりは俺も、自分らしからぬ熱意をもって外を志願してみたのだがそれでも駄目だった。外のシリンダーは人手不足だが、それでも半病人になることが確定しているような人材は要らないらしい。
失意を抱えたまま、俺は中のシリンダーでの作業員の仕事につかざるを得なくなった。
シリンダーの中で工事に従事し始めて11年が経った。
はじめて月を見てから、21回目の誕生日を迎え、28歳になる。
その頃には周囲の状況もかなり変わっていた。
外の曝露部のウィルス濃度は上昇する一方で、外側のシリンダーでも上層フロアの一部は頑健な抗体持ちの人間ですら生存が苦しいほどの環境になっている。
一応のフィルターもついているシリンダー型コロニーの中ですらこの有様なのだから、まるごと裸のままで地上に残されていた都市群はもっと悲惨だった。
それゆえか、見上げた月には靄がかかっていない。
靄の発生源である都市が壊滅し、人間の活動が停滞したからだ。
外部から供給されてきた水・食料・エネルギーなどの枯渇も現実味を帯びてくる中で、シリンダーの中だけが以前と変わらぬ平穏な社会を築き、過ごしている。
外部からの供給が絞られるにしたがってシリンダー内での自給体制の強化に努めた結果、外部依存度は限りなく低減している。
もうしばらく辛抱すれば、完全に孤立した状態でもシリンダー内の生態系を循環させられるような体制が確立できるはずだった。
・・・はずだったのだが。
「主任」
駆け寄ってきた部下の声に、俺は回想を振り捨てる。
「準備完了しました。いつでもいけます」
ヘルメットと防護服・・・宇宙服と見まごうほどの厳重な防護服を着込んで膨れ上がった体を2足歩行型のパワーローダーのコクピットに無理やり押し込んだその姿はまるでゴリラのよう。
俺は黙ってうなずくと、月とは反対へくるりと向きを変えて、見上げた。
自分の背後に聳え立っていたものがはっきりと見える。
誰も乗っていないロケット。脱出用の試作ロケットの一号機だ。
俺に準備の完了を告げたゴリラ部下は、その見た目とは裏腹のスピードで素早くシリンダー内に避難する。
内側のシリンダーの最頂部に位置する此処、ロケット射点は内側のシリンダーでは例外的にウィルス濃度の高い場所だ。外部シリンダーの頂部と同じくらい地表に暴露しているのだから当然だった。
そのような環境では内側のシリンダーの住人は防護服を着ていても活動限界は10分にも満たない。
俺の耳にもさっきからずっと警戒を促すアラームが鳴りっぱなしだった。
ただロケットを見るためだけに外に出てから既に7分が経っている。
潮時だった。
シリンダーの作業員として俺が従事したのは、このロケットの射点と、それに付随する各種施設の建設だった。
10年も勤続していれば少しは出世もする。
燦然と輝くロケットを見上げられるのは、その余禄のようなもの。
アラームがさらに鳴動を大きくする。もう10分。
俺はロケットに背を向けると、少しだけ速足でシリンダーの中へ戻る。
ロケットは選抜された人を乗せ、いつか来るシリンダーの寿命を迎える前に、ほかの星へ移るか、宇宙に浮かぶ小型のコロニーに移住して他のシリンダーの選抜された人々と新たな社会を作る予定だという。
けっきょく、繋がらないと生きていけないのだ、人間は。
そう思うと俺は笑いともため息ともつかぬ何とも言えない声を漏らした。
この繋がるために投じた資源とエネルギー・それと時間があれば、このシリンダーを孤立したまま永続させる改修だって不可能ではなかっただろうに。
このシリンダーの中で生きる人間を救うことだってできたろうに(俺も含めて)。
何度目になるか分からない問いを立て、答えかけて俺は止めた。
この世界は俺の好んだようにはできていないのだ。ばかばばかしい。
非常ハッチを後ろ手に閉めると、俺は待機していた部下たちに指示を出す。
「ロケット発射用意」
華々しい人類の未来に幸あれ。
あわただしく動き始めた人々を眺めながら、俺はヘルメットの中で、泣き笑いにも似た表情を浮かべた。
ゆめよりすてきな夢 眞壁 暁大 @afumai
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