今日は言ってくれるよね
高山小石
今日は言ってくれるよね
「ほんまクズやな。ああ、あったま悪いもんなぁ」
今日も夫の口は止まらない。
ちょっと幼い子どもがプラスチックの菓子包装を生ゴミ入れに入れ間違えただけで、まるで鬼の首を取ったみたいに言ってくる。
「はぁ。働かんヤツやなぁ」
ちなみに『働かない』=『就職していない』というわけではない。
私が「子どもにバカとかアホとかいわないでほしい」と言ったら、かわりに使い出したのが『働かない』だ。
最近よくいわれている『自己肯定感』を下げることになるから「悪口みたいな言葉を使わないでほしい」と伝えたら、使い出したのだ。
『働かない』を連発されるのも、こちらにとっては嫌だから「『働かない』って言わないで」と伝えたけれど、夫は「『効率よくない』『なってない』みたいな表現だからいいだろ!」と譲らない。
子育て中で働いていない私にとっては当てこすりのように感じるし、子どもに『働かない』を連発されると、まるで『働けなくなる呪い』をかけられているみたいに思えて嫌なのだが、夫には伝わらない。
脳科学的には、人間とは言われたことをする生き物らしい。
『バカ』だの『クズ』だの『働かない』など言われたら、脳は『そうしよう』とそういう行動を取ってしまうのだという。
それを知った時、私は、人間とはとても素直なAIのようなものなんだな、それで『褒めて伸ばそう』と言われているのかもしれないな、と思った。
たとえば、昔はよく耳にした、親が子どもに気をつけて欲しくて「バカになるよ!」「悪い子ね!」みたいに言えば言うほど、言われた方は『バカな悪い子』になるのだ。
脳科学的に言えば「バカになれ!」「悪い子になれ!」と言っているようなものだから。親は正しくさせようと叱っているつもりが、子どもを今より悪くさせる呪いをかけているだけだというのだから、怖い。
だから「死ね」という言葉を言う人は、まず一番近い自分自身に言い聞かせていることになるし、脳は主語を理解しないらしいので、誰かの悪口を言っているつもりが、実際は自分の脳へと言い聞かせているというのだから、愚痴グチ口にすればするほど深みにはまるというのにも納得だ。
脳の中では、文字通り『相手を否定する言葉』は『呪い』になり、『相手を思いやる言葉』は『祝福』となっているのだ。
そんな説明も何回もしたが「シロウトがなに言っとんじゃ!」と返ってきた。
たしかに私はただの名も無い主婦だからと思い、詳しく書かれている本を何冊も買って渡したが(一人の作者だけでは「そう言ってんのはコイツだけやろ!」と言われるのは目に見えている)、夫の口は止まらない。
「俺の正直な気持ちを素直に言ってなにが悪い!」
「なんで俺が子どもに気を使わなアカンねん!」
それが夫の主張だ。
私は物心つく頃から暗記してしまうくらいに言われてきた。
『見たままを言っただけでも相手が傷つくこともあるから、言う前にこれは言ってもいいか考えてから話そうね』
『言葉は相手を傷つけるから気をつけて使いましょう』
『悪口は弾丸よりも速く相手に届くから、口に出す前によく考えよう』
『体の傷はすぐ治っても、心の傷はなかなか治らない。つまり言葉は凶器より強いということだ』
同年代であるのに夫はそういう教育を受けていなかった?
受けていなかったか忘れてしまったのかもしれないと思って言い続けているけれども、名も無い主婦の言葉は夫には入らない。
そして単純に、大人は子どもに気を使うものだと思うのだけど、違うのだろうか。
『子どもに気をつかう』というとまるで『子どもをヨイショしなくてはならない』と夫は勝手に勘違いしているのかもしれないが、そうじゃない。
弱い者を守るというか、人生の先輩として、優しく諭す立場であるだけだ。
単純に生きてる年数が多い方が人生経験値が高い。
当然ながら、経験値が高い方が低い方よりもわかっていることが多い。だから迷いの多い年少者を助けたり思いやったりするのは当然のことだと思うのだが、夫の考えは違うらしい。
年長者はえらい! だから敬え!
年少者は年長者の言うことを聞くべきで、こっちからご機嫌うかがいなど持ってのほか!
俺が言うことを理解できないなんて、俺をバカにしているのか!
夫の主張も間違ってはいないのかもしれないけれど、それはもっと人間らしい人間まで育った子どもに言い聞かせることで、特に最後のことなどは、まだ言葉もままならない子どもに求めることじゃない。
大人は子どもの言いたいことをくみ取り「こう言いたかったの?」と言い直して確認する立場であって、せっかくお話ししてくれているのに「意味わからんことしゃべるな!」など、話したいという気持ちを無くさせ、余計に言葉が遅くなるだけだ。
これも何度も説明したり、こうすると子どもに伝わりやすいよ系の本を買って渡したりしたけれども、伝わらなかった。
夫は今日も、私と子どもを怒鳴りまくる。
「ほんま離婚案件やで!」
『離婚』の言葉が出たときヒヤリとした。
子どもを抱えている自分にとって離婚は困る。今すぐ働くのは無理だ。
そんな私の気持ちが表情に出ていたようで、それからの夫はよく「離婚やな」「離婚案件やで」と言うようになった。
「それ精神DVだから!」
久しぶりに話した友達は憤慨した。
「DVって。べつに叩かれたり蹴られたりしてないよ?」
「だから精神的なDVなの! なんでそんな暴言吐きまくられなくちゃいけないのよ!」
そう言われても、私にはピンとこない。
「え、大丈夫? 普通はそんなこと言われないんだよ?」
「私がダメな主婦だから仕方ないんでしょ。働いてないのに家事も完璧にできないし、今離婚されたらどうしようもないし」
「……離婚できるかどうか1回シミュレーションしてみようよ」
友達の提案に尻込んだけど、「シミュレーションだから、深く考えなくて大丈夫だよ」と友達は笑う。
「最初は簡単なところからやってみよう。ちょうど年末だし大掃除するでしょ? かなり念入りにできる? いらないものはできる限り捨てて、旦那さんと自分達の荷物を分けられるくらいに念入りに」
それならできると思ったので、やってみた。
家がキレイになって気持ちもちょっとスッキリした。
ちなみに夫は「なんや夜逃げでもすんのか?」と笑っていた。
「次は、仕事先、探せる?」
「子どもが小さいから」
「そうだね。じゃあ先に保育園を探そっか」
「働いてないけど入れるの?」
「離婚したいから求職したいってことで話そう。旦那さんのことを相談したら、たぶん、向こうも相談にのってくれると思う」
「なにを話していいのかわからないよ」
「普段、旦那さんとどんな会話をしているかとか、子どもに対する旦那さんの言動とか。旦那さんにこうしたけどこうだった、みたいなことを話せばいいよ」
なんとか相談してみると、担当者がついて、親身になって話を聞いてくれた。
それからは定期的に相談に行くようになって、保育園にも入れることになった。
「子ども手当もらってるでしょ? それを旦那さん名義から自分名義に変更するの。できる?」
それもできる。
お金をあずかっているのは私だ。
夫は気づきもしなかった。
「就職先は見つかりそう?」
「難しい」
「そっか。実家に帰ることはできる?」
「それは聞いてみないとわからない」
実家に帰る。
ようやく『離婚』の二文字が現実味を帯びてきた。
今までは言われるままに動いてきていたけれど、まったく現実感がなかったのだ。
久しぶりに実家に連絡してみると、簡単にOKしてもらえた。
遠いこともあってまったく帰省もしていなかったから、「むしろこっちで暮らしてくれてもいいよ」とまで言ってくれた。
「よし。離婚届もらいに行こうか」
友達と一緒に役所に行って離婚届をもらった。
子どもの親権を自分が持つなら子どもの籍をうつすために離婚した後は裁判所に行くように説明を受けた。
「破られることがあるかもしれないから多めにもらっとここう」
言われるままに複数枚もらった。
「これ全部に記入してハンコを押して、いつでも出せる状態にしておいて」
「それで離婚できるの?」
「旦那さんが離婚届に名前を書いてハンコ押してくれたらね。そうじゃなかった時はまた考えよう」
それだけで終わるのか。
そういえば、婚姻届も紙一枚だったなと思い出した。
出した時、特別「おめでとうございます」と言われることもなく、ただ淡々と書類として受理された。きっと離婚届も同じなのだろう。
「いつ夫に出したらいいの?」
「いつでもいいけど。旦那さん今でも離婚リコン言ってんでしょ? 次に言った時に出してやれば? 『そんなに言うなら離婚しよう』って」
すでに今日も朝から聞いた。もはやただの決まり文句のようになってしまっているので、出すタイミングがわからない。
「じゃあ何回目とかに決めたら?」
1回目はあっと言う間すぎる。10回もすぐだ。私の心の準備ができない。
「それなら何回目を言ったら本当に離婚するって宣言しとけば?」
それはいいかもしれない。
私も心の準備ができるし、夫も一日くらいは考える時間がいるだろう。
「じゃあ21回目にするね」
私は帰宅してきた夫に宣言した。
「あのね。もう何回も離婚って言われてるし、これから21回『離婚』って言ったら離婚しよう」
「は? おま、なに勝手なこと。離婚て」
「1回目」
「え。……マジか?」
私は用意していた離婚届を出して見せた。
夫はすぐに破り捨てた。
複数枚あって良かった、と思った。
結局この日は会話もなくなったので、それ以上は言わなかった。
翌朝も無言だった。
夫が怒ったら無言になるのはいつも通りなので、私も子どももいつも通りに過ごす。
帰宅した夫は、ちょっと普通に戻っていたようで、いつもの調子が出てきた。
「まったお前、そんな離婚案件」
「2回目」
「は? まだ続いてんのか、ソレ」
口癖になっているようで、うっかりぽろりと発言して、20回になった。
きっと今日は言ってくれるよね?
今日は言ってくれるよね 高山小石 @takayama_koishi
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
同じコレクションの次の小説
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます