鎮守の杜

尾木洛

鎮守の杜


 高校を卒業する同時に、僕は、この町から逃げ出し、遠く離れた町で就職した。

 故郷から離れることで、何もかも捨て去り、何もかも忘れ去ってしまえると考えていたからだ。

 でも、結局、無くなったのは、自分を支えてくれた友人や家族、それから自分自身だけだった。

 あとは、演じるモノが変わっただけで、そっくりそのまま、自分の周りに残り、まとわりついてきた。

 結局、自分自身が変わらなければ、自分の評価からは逃げきることはできない。所詮、ダメなものはダメなのだ。

 そうとわかっていても、僕は、もとより己に自信がなかったから、あきらめに似た思いで、その評価と相対していくより術がなかった。


 ただ、生きるだけの日々を過ごし、

 ただ、おっくうなだけの日々を過ごした。

 それは、ただただ退屈なだけの毎日だった。


 故郷を離れて、21回目の春、不意に実家から連絡が入った。

 父親が倒れたという。

 急いで実家に戻ったが、僕がたどり着いた頃には、すでに父は息を引き取っており、母と兄が、父のお通夜の準備を進めていた。


 もはや、父への惜別の思いすらうかばず、僕は、ただ呆然と儀式を事務的にこなしていくことしかできなかった。


 翌日、告別式と初七日が無事終わる頃、急に居たたまれなくなり、僕は、何かに追い立てられるかのように実家を飛び出した。


 気が付くと、実家から歩いて5分ほどのところにある若宮神社にたどり着いていた。


 30年ぶりくらいだろうか。

 若宮神社の鳥居をくぐる。


 こんなに小さな神社だったっけ。

 神社の鳥居、石灯籠、拝殿、全てが小さく縮んでしまったように感じる。


 短い参道を進み、拝殿にて参拝をする。

 何を願うでもなく、ただ無言で手を合わす。

 そして、拝殿の左側にある小さな公園に移動した。

 そこには、昔と同じようにブランコと滑り台と低い鉄棒があって、ブランコと滑り台の間には、木製のベンチが一つ置いてある。

 滑り台では、一人の男の子が遊んでいた。傍には、その男の子の父親と思しき人が佇んでいる。


 その親子の邪魔にならないように気を付けながら、僕はブランコと滑り台の間にあるベンチに腰を下ろした。


 遠く西の山が青く連なっているのが見える。


 これも、変わらないな。

 ぼそりとつぶやく。


 小学校の頃、学校から帰った後は、いつもこの公園で遊んでいた。

 当時は、この辺りにも子供がたくさんいて、この時間にここにくると、大抵ゴムボールを使った野球が繰り広げられていた。

 僕は、下手なくせに野球が大好きだったから、いつもここで皆に混ざって野球に興じていた。


 そういえば、あの頃、いつもこのベンチには、近所の子供好きなおじいさんが座っていた。

 いつも楽しそうに、僕たちの様子を見守ってくれていて、僕たちが些細なことで小競り合いをはじめると、やんわりと間に入り仲裁してくれた。

 そして、日が沈む頃になると、山から天狗がやってきて、おまえらをさらっていくぞ、だから、急いで家に帰れとどやされた。

 そのおじいさんの言い方が、妙に真に迫っていたので、その天狗とやらがとても怖いものに感じられて、あわてて家に帰ったものだった。


 そうそう、怖いと言えば、あの陰も怖かったな。


 この神社の周りには、わずかながら鎮守の杜が広がっている。

 その杜の樹々の間に広がる薄暗い陰が、なぜだか妙に怖かった。

 まだ、真っ暗で何も見えない闇の方がましだ。

 その薄暗い陰には、神秘的な何かがたたずんでいて、だけれども、決してそれに気が付いてはいけないと思わせる静けさがあった。


 もともと臆病な僕が、暗いところを怖いと感じなくなったのはいつからだろうか。


 故郷を離れ、一人で生活するようになって、ほどなく僕は、日中、職場で働いたり、人と接したりするときには、心を大きな仮面とマントで隠すようになった。

 仮面と大きなマントの中の闇は、僕にはとても心地よかったし、その仮初の姿は、少なからず僕を守ってくれた。

 それでも、ダメな自分は、そんな仮面やマントごときで隠し通せるモノではなく、ひたすら襲い来る絶望感から逃れるように僕は光を避けるようになった。

 暗いところでうずくまりっていると、日中に摩滅した自分がなんだか少し癒されているような気分になった。


 何も変わらず、何も変えられず、ただ時を浪費していくだけの毎日。

 静かに朽ちていく自分を、どうせそんなもんだと、達観したような光のない目で眺めていることしか出来なかった。

 闇の中で、何もせず、動き出すこともせず。



 僕は、座ったベンチから後ろを振り返える。

 そこには、あの日と変わらない鎮守の杜が広がる。


 でも、こんなに薄い杜だったっけ。


 日はすっかり西に傾き、夕暮れがすぐそこまで迫っている。

 と言うのに鎮守の杜の木々の間に陰は感じられない。ただ、淡い闇が広がろうとしているだけだ。


 いつの間にか、僕の周りは闇だけになっていたんだな。

 杜の陰もなく、天狗すらもいなくなってしまっている。



「ほれ、もう日が沈むから、家に帰るぞ」


 公園で遊んでいる男の子に父親が声をかける。


「もうちょっと。

あとブランコ20回」


「それじゃ、あとブランコ20回漕いだら終わりだぞ」


 夕日が西の山の背に隠れようとしている。

 空は赤く染まり、森に帰る鳥の群れが、赤い空を通り過ぎていく。



「……18、……19、……20。

もういっかい!」


 男の子は、最後におおきく漕いだブランコから飛び降ると、夕日のほうに駆け出して行った。

 その後を父親が追いかけていく。


 二つの長い影が、鳥居の下を通り抜けていった。

 親子の声が、次第に遠く小さくなっていく。


 日は完全に沈み、空に夜が広がっていく。

 痩せた細い月と一番星が光を放ち始める。


 一瞬、不意に僕の目の前を子供が泣いて駆け抜けて行く姿がみえた。

 鼻をすすり、大きな涙を流しながら、脇目も振らず走っていく。


 痩せた月と一番星が放つその僅かな光の中に生まれた影を背にしながら、沈んだ夕日を追いかけるようにその子供は走っていく。

 だんだんと遠くに消えていくその小さな背中。

 なんだか、あの頃の僕に似ているような気がした。


「もういっかい」


 つぶやき、僕は立ち上がる。

 そして、わずかに残る薄暮にむかって歩き始める。


 痩せた細い月を目印に。

 輝く一番星を目印に。



 鎮守の杜の陰が深くなる。


 鎮守の杜がざわつく前にと、僕は歩みを早め鳥居の下を通り抜けていった。



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鎮守の杜 尾木洛 @omokuraku

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