まどろみは君の隣で

白川ゆい

安全なラブソング

 夏が来ると毎年思い出す光景。鋭い猫目を細めて彼女の柔らかそうな長い髪を撫でる彼の後ろ姿。野球で鍛えた筋肉質な二の腕が、まるで彼女を抱き締めるためだけに存在しているかのように動く。汗が頬を流れて地面にポタリと落ちる。その光景が、感触が気持ち悪くて、でも動けなくて。私は呆然と立ち尽くしたまま太陽の熱がジリジリと肌を焼いていく感触だけを感じていた。


「……しぃ。しぃ、起きないと遅刻するよ。今日一限からでしょ」


 肩を弱い力で揺らされる感覚に、落ちていた意識が浮上する。ぼんやりとした視界の中に整った顔が映った。


「……透くん」

「おはよう。朝ご飯出来てるよ」

「……うん」


 三崎透。私の幼馴染みであり同居人だ。社会人である透くんの部屋に居着いたのは一年前。私が高校を卒業した直後だった。透くんは大学から都会に出て一人暮らしをしていた。地元を離れたくて仕方のなかった私は、透くんを頼って一人都会へ。透くんも始めは嫌だとか一人で住みなよとかウダウダ言っていたけれど、この人は昔から私に甘い。お願い、もうあそこにいたくないの。そう言って泣けば同居を許してくれ、その上私の親まで説得してくれた。フェイクとして地元の大学も受験していたから、親は直前まで私が都会の大学に行くことを知らなかった。猛反対されたけれど、透くんが一緒なら、と許してくれた。さすがイケメンで世渡り上手の透くん、私の親の信頼まで知らない内に勝ち取っていたらしい。


「ほい、ココア」

「ありがと」


 透くんはお人好しだと思う。彼だってきっと相当モテるだろうから、この部屋に女の子を連れ込んであんなことやそんなこと、したいだろうに。四つ年下の色気皆無の女子大生を住まわせ更に美味しいご飯まで用意してくれる。

 朝ご飯はチーズの乗った食パンにキャベツときゅうりとトマトのサラダ。そしてコーヒーが飲めない私のためにわざわざココアも淹れて。透くんは優しいね、前にそう言えば透くんはだからモテるんだよとニコッと笑った。


「今日はバイト?」

「うん」

「なら晩飯はいらないね」

「いらない」

「気をつけて帰ってくるんだよ。常に携帯手に持って、いつでも俺を呼べるようにしといて」

「わかってるってば」

「じゃあ俺先行くからね。戸締りよろしく」

「はい」


 スーツを着てネクタイをキュッと締める透くんは幼馴染みの贔屓目に見なくても文句無しに格好良い。いってきます、いってらっしゃい、当たり前になった挨拶を交わした後。透くんがそうだ、と立ち止まった。


「週末英太くんが遊びに来るって」

「……え」


 英太くん。今井英太。私の初恋の人。そして、頭にこびりついていつまで経っても離れてくれないもう一人の幼馴染み。

 その日は少しだけ顔を見せて友達の家に避難しよう。会いたくない。まだ、顔を合わせるのは痛い。


「……静菜」


 透くんの長い指が顎を掬う。強制的に顔を上げさせられた目の前には、その辺のイケメン俳優にも劣らない整った顔。ちゅ、と。一度だけ柔らかい唇が私の少しかさついた唇に触れる。


「今日帰ってきてお風呂に入ったら俺の部屋においで」


 透くんには、忘れられない人がいる。詳細は知らないけれどずっと昔に恋をした人だと透くんは笑っていた。

 ……私たちは、お互いの傷を舐め合うように。心の隙間を埋めるように体を重ねる。誰にも言えない、悟られてはいけない、秘密の関係。


「……わかった」


 透くんの体温が離れるときは、いつも不安で悲しくて寂しい。


***


 バイトが終わり、暗い夜道を透くんに言われた通りすぐに透くんに電話できる状態にして持ったまま歩く。時刻は22時過ぎ。まだそんなに遅い時間ではないけれど、そうしないと透くんに怒られてしまうから。

 始めのうちは透くんが毎日送り迎えすると言ってくれていたのだけれど、それはさすがに申し訳なくて断った。透くんには透くんの生活がある。無理やり居候している私が言えることじゃないのは充分分かっているけれど。

 週末、英太くんが来るのは何時頃だろう。早い内に泊まらせてくれる友達を見つけておかないと。そんなことを考えていたからだろうか。突然手の中の携帯が震え出し、驚きすぎてそれを落としかけた。ディスプレイを見て、落としておけばよかったと思った。携帯なんて持っていなければよかった、と。

 今井英太の文字が光る。その下に、眺めすぎてもう覚えてしまった電話番号。バクバクと嫌な音を立てる心臓。私はそれを誤魔化すように走った。

 ガチャガチャと大きな音を立てて鍵を開ける。そして中に入るとドアを閉めてその場に座り込んだ。電話はとっくに切れているのにいつまでも震えているような気がする。ハァハァと肩で息をしながら胸を押さえた。

 痛い。痛い。胸が、痛い。

 本当に、本当に大好きだった。それこそ小さい頃から。私は当たり前のように信じていた。いつか英太くんの隣に自分が立てることを。いつか、英太くんのお嫁さんになるという子どもの頃の夢が叶うことを。

 全部全部、独りよがりだった。英太くんは私のことなんか好きじゃなかった。私よりも色っぽくて、綺麗な人を好きになった。私のことを妹みたいな奴だと彼女に紹介した。顔を歪める私に気付きもしなかった。彼女のことしか、見ていなかった。

 助けて、と。誰かこの暗くて狭い場所から助け出して、とそう叫んだ。失恋なんて誰もが経験することだと言われても納得できなかった。十数年大切に大切に育てた想いだったから。


「しぃ?」


 顔を上げると明るい光の中に透くんが立っているのが見えた。透くんがいたのだから当然電気が点いているリビングのドアを開けて私を見ている透くんが、唯一の救いのように思えた。


「……透くん」

「どうした?」


 ペタペタとスリッパの音を響かせて私の横まで来た透くんに縋り付くように抱き着いた。逞しい透くんの腕が私をしっかりと受け止める。透くん。透くん。


「どうして私じゃダメなんだろう」

「……」

「透くんのこと、好きになりたかった」

「しぃ」


 名前を呼ばれて、顔を上げると同時。柔らかい唇が私の唇に触れる。透くんはすぐに離して私を見つめる。甘い瞳。ゴクリと喉を鳴らす私を、透くんは笑った。


「慰めてあげる」


 それは、甘美で淫らな誘惑だった。

 透くんの部屋は透くんの匂いがする。透くんのベッドは透くんの匂いがする。透くんの体は透くんの匂いがする。手際よく私の服を脱がせながら、透くんは私の胸に顔を埋める。

 こうして透くんとセックスするのは何回目だろう。初めて透くんとセックスした時、今まで経験してきたのは何だったのだろうと思った。英太くんを忘れるために何人か付き合った彼氏とのセックスは、あまりに稚拙なものだったのだ、と。自分だけが気持ちよくなれればよかったのだ。まぁ、私も彼らを利用していたのだから同罪だけれど。

 透くんに触れられると何も考えられなくなる。透くんの仕草は全て色っぽくて、甘くて。私の脚の間に顔を埋める透くんは、大きな瞳を私の顔に向けたまま舌を伸ばす。大きく跳ねる私の体を動かないようにしっかりと捕まえ、私の気持ちいいところを徹底的に責める。私の体の奥の奥を、徹底的に解していく。


「……しぃ、覚えておいて」


 透くんが耳元で囁く。透くんのことしか考えられない私の耳に、透くんは甘いものを流し込んだ。


「世界で一番甘やかしてあげる」


 シーツを掴む手は透くんの大きな手に包まれ、指と指が絡まる。私の体全てを独り占めしようとするかのような透くんの瞳。私は夢中で透くんの名前を呼んだ。

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