第41話 黄緑空気な日常(4)
塩水の電気分解を始めてすぐ、ぼこぼこと泡が発生して辺りに不快な臭いが漂い始めた。
「妙な臭いがしますね……」
「うん、あまり嗅いだ事ない臭いだけど、なんとなく危険な感じ……」
「私の個人的感想ですが、あまり吸い込むと肺が腐るような気がします」
「これが黄緑空気なのかな。だとしたら有毒だよ、風上に立とう」
そうして二人は、泡立つ塩水を遠巻きに眺めながら漂白水が生成されるのを待った。
「出来たかな?」
「さてどうでしょう。早速、試してみますか?」
たぶん生成されたであろう漂白水の見かけは、ごく薄い黄色を帯びた透明な液体だ。
異質な臭気を放っている以外には、一見して少し汚れた水にしか見えない。
実際に使用して効果のほどを確かめてみるほかないだろう。
「アンリエル、汚れた布とかある?」
「はい。染みの付いてしまった衣服があります。お気に入りだったのですが、どうやっても落ちない染みが付着してしまい、ずっと棚の奥にしまってあったのです。それで試してみましょう」
グレイスは、アンリエルが衣装棚の奥から引っ張り出してきた衣服を漂白水に浸し、染みが落ちるか試してみた。
………………。
漂白水の効果は、絶大だった。
「落ちましたね」
「うん。汚れ一つないね」
「……白いですね」
「真っ白だね……」
予想以上の成果に、しかし感動とは正反対の複雑な感情を抱いて二人は呆けていた。
「このドレス、いつから純白になってしまったのでしょう?」
「初めは何色だったっけ……?」
「薄紫色のドレスだったはずなのですが、途中から薄桃色のドレスに変わって、最終的にはこのように白く……」
『はあ……』
二人揃って溜め息を吐く。
この事態、予想してしかるべきだった。
ただちょっと実験が楽しくて、つい興奮のままに後先考えず試してしまったのだ。
「とりあえず実験は成功と言うことでいいのかな?」
「ええ、まあ。色々と新しい見識と教訓が得られました。次に生かしましょう」
前向きな発言をしているアンリエルだったが、目の端にはほんの少し涙が溜まっていた。
◇◆◇◆◇
漂白水の生成に成功したグレイス達は、続けて苛性ソーダの生成実験に移っていた。
「不思議なものです。どうして電極と容器を二つに分けただけで、生成されるものが変わってくるのでしょう?」
「本来は苛性ソーダ水と黄緑空気の水溶液が得られるところ、容器が一つだと生成した時点で混ざり合って、勝手に漂白水へと変化するみたいだね」
グレイスは容器一つで作った漂白水と、容器二つから生成された苛性ソーダ水と黄緑空気の水溶液をそれぞれ小瓶に移し替えながら、名称の書かかれた札を紐で括り付けていた。
「それにしてもこれが石鹸の元、苛性ソーダですか……?」
「あ、駄目だよアンリエル!」
アンリエルは苛性ソーダの瓶に指を突っ込み、付着した苛性ソーダ水の臭いを嗅いだり、指先を擦り合わせたりして性状を探った。
「指先がぬるぬるします。なるほど、これなら石鹸の元と言われても納得できますね」
「あ! あ! あのね、アンリエル早く指を洗った方がいいよ! それってたぶん、指の皮が溶けている証拠だから……」
ずるり、とアンリエルの指先の皮が剥けた。
薄皮が剥けて、赤々とした皮下組織が露出するのを見て、グレイスは思わず顔を引き攣らせた。
当のアンリエルは自分の身に何が起こったのか理解できず、呆然と皮の剥けた指先を見つめている。
わずかな間を置いて、次第に表情を歪ませていったアンリエルは、悲しげな声を絞り出した。
「グレイス……指が、ひりひりと痛みます……」
「わぁー!! 早く早く、水で洗い流して!」
「しかし、水は傷口に沁みませんか?」
「そんなこと言っているともっと悪化するから!」
アンリエルの指を治療する為、実験は一時中断となった。
◇◆◇◆◇
「さて、気を取り直してそろそろ本題の実験に入ろうか!」
「……ええ、石鹸の元となる物質の性状も、だいぶ理解が深まったところですからね」
包帯を巻いた右手の指を沈痛な表情で睨んだ後、アンリエルは無事な左手で参考書を捲り、黄緑空気の性状について詳しく調べていた。
「黄緑空気の発生を防ぐと言っても、どうしたって漂白水作るときに出てきちゃうのは仕方ないよね。だから私が思うに、出てきた黄緑空気を全部捕まえて閉じ込めちゃえばいいと思うんだ!」
我ながら名案、と息巻くグレイスにアンリエルは冷静に応じる。
「それで、具体的にどうやって捕集するのです? 水に溶けきらなかった黄緑空気、別にガラス瓶を用意したとて、その程度の容積では到底収まりませんよ」
「んー……。容積は小さくても、無理矢理押し込んじゃえばどうかな? 気体なら縮んで入るはずだから」
「なるほど、逃げ道を塞いで押し込むと。気体の性質としてどの程度まで押し込めるものなのでしょう?」
「まあ、試してみようよ。理論ができているのなら可能な限り実践あるのみ、って私の父様も言ってたよ!」
電気分解によって発生した黄緑空気を一時的に貯槽するガラス容器。そこから黄緑空気を吸い込み、水でよく冷やしたもう一つのガラス瓶に送り込む為に、
ふしゅう、ふしゅう、と間の抜けた音を立てながら、鞴を踏み込むグレイス。
「ねえ、アンリエルー。どうなっているー?」
「あまり様子が変わったようには見えませんね。本当にこんなことで黄緑空気が圧縮されて、液化するのですか?」
「さあ、どうだろう? とにかく冷やしながら圧縮すればいいんじゃないの?」
「行き当たりばったりですね。ちゃんと下調べしたわけではないのですか……」
グレイスが鞴を踏み続ける横で、アンリエルは参考書を読み漁る。
「どうも、冷やし方が足りていない様子です。氷点下よりさらに低い温度にする必要があるみたいですよ」
「そうなの? じゃあ、このまま圧縮し続けても意味ないのかな。そろそろ鞴で押し込むのも抵抗が強くなってきたし」
「いえ、それでも発生した黄緑空気がガラス容器の中に押し込まれているのは間違いないようですから、もっと押し込んでいけばいつか液化するのではないでしょうか」
「へえ、じゃあもう少し頑張ってみようか!」
「はい、あ? グレイス、心持ちわずかではありますが、圧縮された空気がまさに黄緑色になってきましたよ。薄くではありますが確かに黄緑に色付いています」
「本当!? よーし、じゃあもうひと踏ん張り――」
――ばんっ――!!
グレイスが気合いを入れなおして勢いよく鞴を踏み込んだ瞬間、水に浸かったガラス容器が突如として破裂し、周囲に鋭く尖ったガラスの破片が飛散する。破片の多くはアンリエルの持った参考書の表紙に突き刺さり、幾つかは壁にぶちあたって砕け散る。
そして同時に、圧縮されていた大量の黄緑空気が部屋の中に拡散した。普通の空気より重い黄緑空気は、窓や煙突から逃げることもなく、床を這うように滞留している。
「――う、げぉほっ! ごほっ!」
吸い込んでしまった黄緑空気が喉や鼻の粘膜を刺激し、グレイスは激しく咳き込んだ。涙が止めどなく溢れてきて目の前が霞んで何も見えない。
「あ、アンリ……エ……ル……?」
涙で霞んだ光景の中に、床で倒れ伏すアンリエルらしき人影がちらつく。
だが、黄緑空気が目にまで沁みてきたのか、目の前がちかちかするような眩暈にグレイスは堪らず膝をつく。すると、唐突に吐き気が襲ってきて、自分の意思では堪えることもできず盛大に嘔吐する。
「うごえぇ……。げっ、げ……ぅごぼ……」
(――まずい。これはかなり、か、限りなく危険な状態――)
朦朧とする意識を辛うじて保ち、根性でもって部屋の外へ出る扉まで歩いていく。
あと一歩という所でグレイスは扉に向かって倒れ込み、そのままの勢いで寮の廊下へと転がり出る。そこでまた吐瀉物を石畳の廊下へとぶちまける。
ほどなくして、異常を察知した隣室の学生と、破裂音を聞きつけた教員が現場へと駆けつけた。
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