第40話 黄緑空気な日常(3)


 アカデメイアで洗濯婦達のサボタージュが起こった。


 積み上がる洗濯物の山を前に、アカデメイアの学生、教員、事務員、皆が困り果てていた。

 今は夏、汗や油脂で汚れた衣類を放置しておくと一晩でおぞましい悪臭を放つようになる。


 アカデメイアを実質的に管理しているフーリエ学院長は事態の早期終結が必須と考えて、すぐに洗濯に十分なだけの石鹸を取り寄せるように手配を行っていた。



 だが、時悪く、国内のソーダ工場では、製造過程で出る毒性を持った塩酸蒸気が問題となり、周辺住民からの苦情によって石鹸の生産は止まっていた。

 また、石鹸と同様に重宝されている漂白剤の生産も黄緑空気きみどりくうきという猛毒ガスを発生させることから、こちらも周辺住民から製造をやめるようにとの訴えが出されていた。


 学院長室ではマリー=ポールズ女史とフーリエ学院長が頭を悩ませていた。

「フーリエ学院長……どういたします? このままですと、学生の日常生活に多大な影響が出て、講義もままならなくなります」

「ううむ……参った。新しい石鹸が手に入るのはいつになるかわからない、とソーダ工場から連絡を受けてな。すぐには手に入らないのだ」

 しばし沈黙が訪れたが、ふとポールズ女史が名案を思い付いたように意味ありげな笑みを浮かべる。

「……それならば、いっそ自分達で作ってしまいますか?」

「ほう? それはなかなか面白い提案だが、人手が足りるかね? 塩酸蒸気や黄緑空気の発生も問題解決しておらん。アカデメイアの中で生産してはまた別の問題にも発展しかねん」


 興味深そうな様子でフーリエは話に乗ってきたが、しっかりと問題点の指摘も忘れない。

 だが、フーリエの問いかけにポールズ女史は自信を持って答えた。

「両方同時に解決する方法があります」



 ◇◆◇◆◇


 洗濯婦達の要求に対応するべく、アカデメイアでは急遽、特別研究課題の発表がなされていた。



 ――懸賞研究・主題――

『塩酸蒸気を出さない、石鹸の製造方法を開発すること』


 懸賞金 一〇〇〇フラン

 特典  発明者の特許権利をアカデメイアが保障する

     発明者が学生の場合には下期の定期試験において無条件で星一つを与える

     発明者が教員の場合には月給の基準賃金を五パーセント引き上げる



 この研究開発には懸賞金と定期試験への追加点が特典となり、多くの学生たちが片手間の研究として挑戦を試みた。さらに、教員にとっても基準賃金の引き上げと言う報酬が注目され、化学分野の教員以外からも挑戦する者が続出した。後に、懸賞研究に熱を上げ過ぎて、普段の講義を疎かにしてしまう悪例も出たほどだ。


 大勢の学生達に紛れて、グレイスとアンリエルもまた掲示板に張り出された懸賞研究の内容を眺めていた。

「へー……。懸賞金が出るんだ。私も挑戦してみようかな」

「石鹸の製造ですか? あれはもう、様々な製造方法が提案されていますから、それより優れた新しい製法を見つけるのは困難ですよ? そもそも今ある石鹸の製造方法を再現するのも、教本を見る限り苛性ソーダが必要なので、原料調達から始めなければなりません」

「あ、でも副題として、もう一つあるよ。こっちはどうかな?」



 ――懸賞研究・副題――

『黄緑空気を出さない、漂白剤の製造方法を開発すること』

 懸賞金 六〇〇フラン

 特典  発明者の特許権利をアカデメイアが保障する

     発明者が学生の場合には下期の定期試験において無条件で及第点を与える

     発明者が教員の場合には月給の基準賃金を二パーセント引き上げる



「難度は大して変わらないと思いますが……。まあ、漂白水オー・ド・ジャヴェルくらいなら、私達でも作れるかもしれませんね。難しいのは黄緑空気の発生を防止することですが」

「黄緑空気の発生を防止する方法は後から考えるとして、まずは試しに漂白水を作ってみようよ!」

「本気ですか、グレイス? 何故、そこまでこの懸賞に拘るのです?」


 アンリエルの素朴な疑問に、グレイスの顔色は見る見るうちに青ざめていく。

「それぐらいしないと私、セボン洗濯長に合わせる顔がなくて……」

 真っ黒に汚した衣服を洗濯長に手渡した時、あの瞬間における憤怒の形相はグレイスの脳裏に焼き付いていた。



 ◇◆◇◆◇


「漂白水の製造は単純です。塩水の電気分解で発生した黄緑空気をそのまま水中に溶かし込めば良いらしいですよ。ちなみに、溶液を容器二つに分けて、ろ紙で橋渡しをすると、苛性ソーダ水と黄緑空気の溶けた液が別々に得られるとか……」


 アンリエルは化学分野の参考書を何冊か図書館から借りてきており、内容を読み上げながらグレイスに実験手順の指示を出していた。


「ボルタ電池と黒鉛電極を準備して、と。でも、本当にそれだけでうまくいくのかな? 水中に溶かし込むってどうすればいいの?」

「……待ってください。ええ……、ええと……水はなるべく冷たい方がいいらしいです。それから容器には完全密閉しない程度に蓋をして……ああ、危険な『燃焼空気』と有毒な『黄緑空気』が発生するとのことですから、日陰で風通しの良い所へ移動しましょう」

 言われてグレイスは塩水の入ったガラス容器を日陰に持っていく。


「それと、……もう私には原理が全くわかりませんが、生石灰や灰汁を加えると漂白水の性状が安定すると書いてあります」

「うーん、色々と条件が増えてきてわかんなくなりそうだね。とりあえず容器は一つで、漂白水だけ作ってみようか? うまくいったら容器二つで苛性ソーダを分離して……それから黄緑空気の発生を防止する方法を考えようよ」

「そうですね。段階を踏んで、できるところから始めましょう」

 初めは乗り気でなかったアンリエルも、積極的に実験準備を進めるグレイスに引っ張られる形で、徐々に好奇心を掻き立てられていった。


「何やら胸の内がむず痒いです」

「わくわくするよね! 本当にできるのかな!」

 特に進級がかかった研究と言うわけでもない。

 そこにあるのは未知への挑戦と期待、自分の手で何かを作り出す喜びだった。

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