30.

 朝早く、荷車を二頭のロバに曳かせて三人は出発した。前にツゲヌイと僧院の使者、後ろにサウビが座る。僧院から借りた旅のためのマントは、充分に風を防いでくれる。

 この道を曲がれば、ノキエの家に戻ることができるのに。たまらなく懐かしく、涙ぐみそうになる。不安定になっているというノキエは、どうしているのだろう。帰らない自分を、マウニは心配しているのではないだろうか。ギヌクはどんな説明をしてくれているのだろう。

 ノキエの土地の中をロバは進み、ツゲヌイに殴られた木立を抜け、ライギヒの管理する土地を通り抜ける。マルメロの木の向こうにイネハムの姿を認め、荷車を飛び降りたくなる。


 森に入る前に一度休憩を入れようとロバを繋ぎ、僧院の使者が用を足しに木の陰に入った瞬間、予測通りツゲヌイは豹変した。

「僧まで誑かしたか、アバズレ!」

 足元を蹴られてよろめくサウビの腹に、拳を入れた。ロバの縄を解いてサウビを荷車に押し込んで、木の陰から出てきた使者の声を後ろに、ロバに鞭を使った。

「おまえのせいで使わなくてもいい金を損して、怪我までさせられた。この詫びはたっぷりしてもらうし、二度と逃げられないようにしてやる」

 勝ち誇ったようにツゲヌイは叫んだ。けれどサウビはもう、殴られることに怯えるだけではいけないと知っているのである。


 この森は、そんなに深くない。ロバなら一時もあれば抜けてしまう。殴られた腹部が落ち着くのを待ち、サウビは荷車から転げ降りた。道ではなく、森の中に逃げ込む。

「どこへ行くつもりだ、クソ女!」

 慌ててロバを止め、追って来たツゲヌイの声に向かって叫ぶ。

「私の育った土地すら覚えていないの? 森で生まれ育ったのよ。森の中であなたが私に敵うものなんて、何もないの」

 迷い込めばいい。木も土も私の味方だと信じられるだけの、森の知識はある。枝の伸び方は方角を教えてくれるし、下生えに気をつければ水の流れの場所だってわかる。自分のほうが強いと言いたがる男を嘲るように煽れば、必ず追ってくると確信はあった。サウビに敵わないことがあるとは絶対に認めず、組み伏すために。

 用心深く木の枝ぶりを観察して目印を覚え、頭の中で方角を折り返し、道からは大きく離れないように考えながら、サウビは走った。ツゲヌイの息遣いを確認し、捕まりそうで捕まらない距離を保ちながら、しばらく鬼ごっこをする。息は切れていたが、自分の企みの成功は知っていた。ツゲヌイとだけ一緒にバザールまで戻れば、家の奥に隠されてしまうことは目に見えている。どうしても僧院の使者に、いてもらわなくてはならない。そのためには、森の入り口まで戻らなくては。


 十分も走ったろうか。木の根がゴツゴツとした森の地面は、木の葉が積もっていると形がわからない。サウビが考えていたよりずいぶん後ろから、男の悲鳴が聞こえた。自分の姿は見えないようにこっそり戻ると、木の根元に腰をついたツゲヌイがマントを腰まで上げ、自分の膝を見ている。息を殺してそれを覗くサウビにも、膝のあたりがみるみる血で濡れていくのが見えた。

 いい気味だとは、思わなかった。自分が何か酷いことをしたように感じ、その瞬間にツゲヌイの前に姿をあらわしていた。


「血が止まらない」

 破れた着衣の隙間から、肉の色が覗いている。次々と滲み出てくる血で、膝から下の生地が染まっていく。すぐに死ぬほどではないにしろ、そのまま置いて行っても歩けないことは見てわかる。血の気の引いたツゲヌイは、今まで見せたことのない心許ない表情だ。

 このまま、ここに置き去りにしようか。ふと耳に聞こえた囁きに、首を振る。ツゲヌイの死を望んでいるわけではなく、自分が自由になりたいだけ。この男が死ねば、私は自由になる。また聞こえてくる囁きを頭の中で叱りつけ、サウビは森の中で鉤裂きのできたスカートの裾に指をかけた。力を込めて引いて裾が大きく裂けるのを、ツゲヌイもまた見ていた。

「早く血を止めてくれ」

 悲鳴のような声を出すツゲヌイの膝を裂いた布で包み、足を高く持ち上げるまでサウビは無言だった。


 早く道に戻り、誰かを呼ばなくては。痩せた女では、男を支えて歩くことはできない。サウビが何も言わずに歩き出す後ろから、ツゲヌイの声がする。

「見捨てないでくれ。助けてくれ」

 振り向いたサウビの口からは、おそらく生涯で一番冷たい声が出た。

「そのまま獣にでも、食われればいいわ。助かりたいのは私も同じなの」

 そして来た順路を辿りながら道を探すと、急ぎ足でロバを追う僧院の使者と出くわしたのだった。思いの外、短い時間だったらしい。

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