玲斎先生の講義

高麗楼*鶏林書笈

第1話


「旧都にまつわる史話」の講義も二十一回目を迎えた。今回は西京こと平壌について、私の知るところを話してみよう。

 我が国で一番の古都はなんといっても平壌であろう。

 唐土の書物によれば、二千年ほど前、檀君という人物がここを都にして国を開いたそうだ。国号は朝鮮とし、都は阿斯達と呼ばれた。

 その後、商の人・箕子が朝鮮侯に封じられてこの地に来て檀君に替わって王位に就きこの地を治めるようになった。都はそのまま平壌で、その頃は王倹城と呼ばれていた。箕子は善政を敷き国内は豊かになったと言われている。

 だが、三代王はあまり賢くなかったため、この地は唐土からの亡命客・衛満に奪われれしまった。衛満も王倹城を引き継いだ。

 さて、この頃、楽浪城外の川辺の村の女性が作った歌が広く歌われたそうだ。そう、皆もよく知っている「箜篌引」だ。

 衛満が治めたこの国も三代目の王・右渠の時、漢によって滅ぼされてしまった。その後、この地域は漢の領域になってしまった。

 ちなみに、この時代、我が国の南方には濊、貊、韓が存在したことは皆も知っての通りだ。

 平壌が再度我が邦の都になったのは高句麗の時代だ。

 だが、建国当時は卒本を都にしていた。

 もともと扶余で生まれた東明王だが、その能力を妬まれ生命を狙われたため仲間と共に故郷を去って卒本の地に来た。そして、ここの有力者の娘と結婚して、この地に建てたのが“高句麗”だ。

 東明王が即位して暫くすると扶余に残してきた妻と息子が尋ねて来た。遠い道のりをやってきた息子・瑠璃の姿を見て感激した王は、その場で彼を後継者にすることを決めてしまった。

 これを不服に思った今の妻と二人の息子はこの国から出て行ってしまった。この母子が百済を建国するのだが、それについてはまた改めて話そう。

 他所から来た者が国を治めるのは困難なことだ。瑠璃王が作った“黄鳥歌”にはそうした意味も込められているともいえる。

 高句麗が平壌に遷都した頃より国勢は盛んになり、以後、温達、乙支文徳等、名将が現れ、あの隋の大軍も追い払えたのである。

 高句麗が滅び、その後、幾つもの王朝が建ったが平壌が都になることはなかった。

 だが、その後も平壌は西の京としてずっとこの朝鮮の主要な場所となっている。

 ところで、先日、私は所用があり、この地を訪れた。

 中央に大同江が流れ、川岸の枝垂れ柳が風になびく風景は一幅の絵のようだ。

 ここの風俗としては元宵の日に松餅を作って食べることだ。話が横に逸れてしまったな。

 風景もよく、地相も良い場所だが、既にその地勢は尽きたと私は思う。

 それゆえ、我が太祖はここ漢陽に都を置いたのだ。以降、様々なことがあったが、我が王朝はまだ隆盛の余地がある。

 諸君は日々精進し、主上を輔け、この国と民のために尽くさねばならぬ。それが、臣下の勤めであるからだ。

 私が言わなくても賢き諸君ならば先刻承知のことであろう。

 では、今日はここまでだ。明日は新羅の古都について話してみようと思う。皆も知っての通り、新羅も史話がいろいろある。どうか休まずに聴講願いたい。




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玲斎先生の講義 高麗楼*鶏林書笈 @keirin_syokyu

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