不幸の対価~セイカツ~

兎ワンコ

シーン1 その夢

 その夢はいつの頃から見たのだろうか? もうすっかり思い出せなくなっていた。

 父が私の処女を奪ってからか? 私が学校に行かなくなってからか? それとも、母がクスリ漬けになってから?

 思い出すことは出来ないが、その夢は心地よいものだ。

 見知らぬ古いカフェの窓際の席で、シトシトと振る雨を横目にしている。

 次に手に持ったココアの入ったマグカップの奥底に沈む、溶け残るザラザラとした茶色の砂糖に目をやるのだ。


 誰もいない穏やかな時間。

 私は誰かを待っているのだ。でも、いつも会えない。だけど、その人が必ず来ることを私は知っている。

 雨はどんどん強くなるばかり。でも、その人は絶対来てくれるんだと、信じている。


 ― ― ― ― ― ― ―


 目が覚める。

 六畳間の片隅には決まってコンビニで買ってきた酒のつまみの袋が捨てられており、それが異臭を放っていた。

 だが異臭の原因はそれだけじゃあない。わたしは気だるさを感じながらも、起き抜けに部屋をゆっくりと見回す。

 テーブルの上には空になった焼酎のビン。クスリの炙りで使われたアルミホイル。穴の開いたペットボトル。小さなジッパー付きの小袋。食べ終わった汚れた皿。


 ため息をつき、皿だけを持って台所に向かった。シンクの中には溜まった洗い物とそれに降りかかった吐しゃ物。鼻をつまみたくなるような酷い匂いからして、飲みすぎたパパが嘔吐したのだろう。


 気が滅入りながらも、ゴム手袋をはめて吐しゃ物をコンビニ袋に入れる。

 アパート特有の狭い窓の向こうから差し込む光からして、時刻は昼過ぎだろう。残念ながら、この部屋には時計がない。

 部屋の中には私以外に誰もいない。恐らくパパは日雇いの仕事か、どこかで隠れて酒を飲んでいるのだろう。

 ママはきっと隣の部屋で寝ているのだろう。昼夜逆転の生活になってしまったからだ。もしくは、クスリで決まってハイになっているのか。


 しばらく洗いものをしていると、まだ四歳の弟が後ろから私の足に抱きついてきた。恐らくお腹が空いたのだろう。「洗い物が終わるまで待っていて」と告げ、私は汚れた皿を水道の水で洗い始める。

 洗い物を終えた私は、パパに隠すようにカバンの中に入れていた菓子パンを弟に差し出した。ひったくるように菓子パンを受け取り、力任せにビニールの梱包を破く弟。

 散らかったテーブルの上で美味しそうに菓子パンを貪る。あどけない怪獣のような弟の右瞼の上には青痣が出来ている。恐らく、昨日の夜か明け方にでもパパが弟を殴ったのだろう。無性に腹が立つ。だが、腕力ではパパには勝てない。


 弟を不憫に思いながら、冷蔵庫に冷えてあるパックの麦茶を取り出し、グラスに注いで弟に渡してあげた。手に取った瞬間、ゴクゴクと音を立てて飲み干していく。まるで待て、という指示を解放された犬のようだ。その姿が胸を苦しくさせる。


 こんな暮らしになったのは何が原因だったのだろうか? 私は考えてみる。

 発覚した母の不貞? 父の退職? そしてアルコール依存症からの性的暴行? 重なっていく借金? 親戚との離縁。

 わからない。何が悪かったのか、誰が悪かったのか? こんな風になってからは、もうどうだっていい。このアパートの一室は私には辛い場所でしかなかった。

 そんな状況だからこそ、夜に家にいたくない私にうってつけの仕事があった。

 パパ活。少し前は援助交際と呼ばれていたらしい。エッチをしなければいけないのが苦痛だが、十五歳の私には十分すぎるほどの金も貰えるし、ごはんも食べられる。


 一年前から始めて分かったのは処女に価値はないということだ。でも、年齢に価値はあった。十四歳という身体は、大人の男に魅力を持たせたようだ。特にインテリを気取った男どもにはたまらないのだ。

 彼らはいつだって理性の仮面を被って生活している。私の前では、自分が如何に大変なのかを語り、私の状況を理解した言葉を投げかけ、ベッドに忍び込んでくる。

 彼らが相手したいのは私じゃあない。自分が理想としていた十代の少女なのだ。


 だから私は年相応の恰好を演じ続けた。黒髪は絶対に染めない。化粧もなるべく派手なものは選ばない。でも、手入れだけは入念にする。肌とデリケートゾーンは特に手入れを怠らなかった。

 下衆のようなロリコンどもに身体を弄ばれるのは苦痛でしかない。大人の愛は確かに寛容で、魅力があるのはわかった。だけど、それは性欲というものが前提でなければ、私に降り注ぐことはない。

 だから代わりに金を無心し続けた。理由はなんだっていい。両親が病気だ、とか。弟が治らない病気で大変だから。十四歳の私には難しいことはわからないから。国は何にもしてくれない。そんな言葉を適当に並べるだけで彼らは優しく頷き、私の身体を貪った。


 パパ活の中でエッチしない客は上客だ。上客である彼らの大半は一緒にご飯や買い物なんかをして、私が楽しそうに笑っているだけでいいのだ。

 中には当然そういう雰囲気に持っていこうとする者もいる。その時はさすがに金を要求する。そうすると大概の客は幻滅したのか、タダでやれないと分かってなのか、すごすごと帰っていく。

 正直にいえば、すべての男が私に跨るだけの生き物だとは思っていない。だけど、その中で私の大事な人になる男を探す方が至難だ。なぜなら、その生殖器が穏やかでない人ばかりだからだ。


 パパ活は順調で、多い時には月に六十万稼いだ時もあった。大人が月にいくらで稼いでるのか知らない。きっと今のわたしはそれよりも稼いでるのは理解できる。だけど、そんな金も弟との食事とパパの酒代、そしてママのクスリ代で消えた。

 そんな活動をずっとしているから、学校にはいけない。時折、学校の教師が児童相談員と共にアパートに尋ねているようだが、パパとママがあしらっているようだ。私はその時間にはいないから知らないからだ。


 いつだったかママは言った。


「梨沙。あんたはえらいよ。ママの為にこんなに頑張っているんだから」


 クスリですっかりラリッて、虚ろな目から涙を流しながらいう。その言葉は本心なのかどうかはわからない。けど、なぜかそこにまだ希望があると思って、私も泣いてしまいそうだった。


 パパは嫌い。ママも嫌い。でも、ママにはまだ救いがあるかもしれない。いつか、たくさんお金を稼いだら、パパと離れて、ママと弟の三人だけで暮らそう。クスリもどうにかしてやめて貰おう。私はそれだけを胸に生きてきた。


 菓子パンを食べ終えた弟に「お姉ちゃんはちょっと仕事だから、また出かけてくるね」と告げ、カバンを持って部屋から出た。

 アパートの古びた階段をキイキイ鳴らしながら降り、私は型落ちしたスマートフォンを取り出す。今日もいつものバイト。


 私は男たちが買ってくれたサマースカートとカーディガン。そして男たちの金で買った黒のパンプスを履いてアパートを出て行った。

 外に出れば、傾き始めた太陽がまだ余すことない青空を見せてくれた。うだるような熱が安アパートの鉄骨の手摺に帯びている。私は手摺に触れないように階段を降り、住宅街を進んでいく。

 一昨日に連絡を寄こした相手に会うのだ。匿名アプリでの連絡であるので、相手の本当の姿はわからないが、なんでも有名企業に勤めている三十代の男。こんなプロフィールはよく見かける。二十代の男はトークスキルとギャップ狙いの事業話、三十代の男は包容力と金をちらつかせる。ここばかりは同年代よりも、大人を見抜く力を見つけたと思う。

 化粧やケアはドラッグストアのトイレでするとして、男との待ち合わせ時間までどうやって暇を潰すかを考える。

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