一階から目薬 〜アクロバティック点眼に挑んだ、とある姉妹の物語〜

つくのひの

第1話

 よく晴れた午後。

 あたしは庭へ出て、二階にあるお姉ちゃんの部屋を見上げた。窓から顔だけを出していたお姉ちゃんに、声をかける。

「準備はいい?」

 お姉ちゃんは頷いて答えた。

「おっけー」

「じゃあ、いくよ!」


 あたしは両足を開いて腰を落とした。目薬の容器を持った両手を、地面スレスレまで下げる。

 うおりゃっ、と全力で跳び上がる。それと同時に、両手を思い切り振り上げた。目薬の容器が顔の前を勢いよく行き過ぎる。

 今だ!

 あたしは両手の指に力を込め、目薬の容器を思いきりプッシュした。

 水滴が勢いよく発射される。

 飛び出した水滴は、三十センチくらい上昇した後、勢いを失うと、やがて地面に落下した。

 目薬の水滴が、土の地面にしみ込んでいく。

 なるほど。まあ、こうなるよね。

 二階の窓を見上げる。

 窓から顔を出していたお姉ちゃんが言った。

「まあ、そうなるよね」


 *


 バズる動画を撮りたい、と言ったあたしに、『二階から目薬』とかいいんじゃない、と答えたのはお姉ちゃんである。

『二階から目薬』とは、二階にいる人が一階にいる人に向かって点眼するという、伝統的な高難度チャレンジである。非常にメジャーだ。過去に何人も挑戦しているだろう。成功した人だっているかもしれない。

 そう考えると、『二階から目薬』にはチャレンジとしての新鮮味はない。

 それならばとあたしは考えた。そして思いついた。『二階から目薬』の逆バージョンを。

 それが、『一階から目薬』である。もちろん二階にいる人に。


「下から上は、物理的に無理があるよね」

 と、お姉ちゃんが言った。

「だからこそ、バズるんじゃない」

「でも、具体的にどうするの」

「それを考えるの。お姉ちゃんも考えて」

「それなら、こういうのはどうかな。二本の長い棒の先端にペンチを横向きにつけて、そのペンチの先端で目薬を下向きに挟めば、どう? 棒をグッとしたら、ペンチで目薬をキュッとできて、いける気がする」

「道具の使用は禁止」

「えぇ? どうして」

「だって、『二階から目薬』は道具を使わないじゃない。それなのに『一階から目薬』の時だけ道具を使うのは、アンフェアでしょ」

「そう、なのかなあ」


 あたしは立ち上がり、言った。

「とりあえず、やってみよう」

 そう、まずは行動だ。考えるのはその後でいい。

「なにか、具体的な考えがあるの?」

 とお姉ちゃんが訊いてきた。

「勢いをつけて押し出せば、カタパルトみたいにシュパッと射出されるはず」

「射出ってどういうこと? カタパルトって何? それを受け止める私の目は、安全なの?」

 あたしはお姉ちゃんに説明する。

「たとえば、水の入ったペットボトルを、飲み口を上に向けたまま、下から上に向かって勢いよく持ち上げるじゃない。それが上にきた時に手でグッと握り込めば、ペットボトルを上に持ち上げる力が加わって、水が上に飛び出していくでしょ。そんな感じ。お姉ちゃんの目は、だいじょうぶ(たぶん)」

「なるほどね。それを目薬の容器でやるってことね」


 前述の通り、その試みは失敗に終わった。

 挑戦していればそのうち成功する可能性のある失敗ではなく、何度挑戦しても失敗するであろう失敗だった。


 お姉ちゃんの部屋に戻ると、あたしはベッドに向かってジャンプした。空中で体をひねり、お尻で着地する。

「だめ。高さがぜんぜん足りなかった」

「どのくらい足りないの?」

 あたしは大雑把に計算してみる。

 あたしの身長が約百五十センチ。垂直跳びの高さをとりあえず五十センチ、腕の長さを三十センチくらいとして、目薬の飛距離は三十センチくらいだった。

 全部足して二百六十センチ。

 二階の窓までは、五メートルくらいだろうか。

「二メートル四十センチ足りない」

「二メートルかあ。ううん、それなら、ニンジャみたいに壁を走って登るのは、どう?」


 あたしは考える。

 もちろん、壁を走って登るなんて、あたしにはできない。でも、ジャンプした後に壁を蹴ってもう一回ジャンプするくらいなら、できる気がする。

 だけど、それができたとしても、せいぜい垂直跳びの飛距離が二倍になるだけだ。やっぱり足りない。

 でも、もし、三歩くらい壁を登ることができれば、あるいはもしかしたら。

「とりあえず、やってみよう」


 結果を言えば、その試みは、挑戦する前に失敗に終わった。

 壁を走る練習をしていたら、お母さんに「うるさい」と怒られたのである。

 この案は却下だ。


 お姉ちゃんの部屋に戻ると、あたしはベッドに寝ころんだ。

 ううむ、どうしたものか。

「下からだとどうしたって高さが足りないんだから、目薬の容器を上に投げるしかないんじゃない?」

 と、お姉ちゃんが言った。

「投げて、どうするの」

「私がキャッチして点眼する、とか。だめ?」

「それだと、二階にいるお姉ちゃんが、二階で目薬をさしてるだけじゃない」

「そうなるのか」

 ううむ、このチャレンジは無謀だったかもしれない。


 お姉ちゃんがコーヒーをいれてきてくれた。

「はい、ちょっと休憩ね」

「ありがと」

 あたしは熱いブラックコーヒーをひと口すする。

 空中に投げられた目薬の容器から、手で触れることなく、液体を放水できればいいわけだ。

 目薬の容器に大きめの穴を開けてみようか。いや、それだと目薬がすぐになくなってしまう。まあ、なくなったらお姉ちゃんに買ってもらえばいいか。社会人だし。

 でも、できるなら容器に細工はしたくない。スマートさに欠ける。


 お姉ちゃんが、砂糖とミルクのたっぷり注ぎ込まれたコーヒーを、ティースプーンでかき回している。

 あたしはお姉ちゃんの動きをじっと見つめる。

 お姉ちゃんが、あたしの視線に気づいて、顔を上げた。

「そ、そんなに睨まないでよ。たしかに、自分でも甘くしすぎかなあとは思うけど」

「回転。遠心力」

「な、なになに、どうしたの」

 あたしは目薬の容器を取り出して、キャップを外した。

 容器を押さえないようにして、下に向けて振ってみる。

 ちょろっと、出た。

「お姉ちゃん! ほらっ、出たよ!」

「出たけど……」

 次にあたしは、手首のスナップをきかせて、目薬の容器を回転させながら上に投げてみた。

 空中で回転する目薬の容器から、水滴が飛び散る。天井に、壁に、カーペットに、お姉ちゃんに。

「出た! 出たよっ、お姉ちゃんっ!」

「出たけど……。なんで私の部屋で試すの」


「無制限にやるのはエレガントさに欠けるから、挑戦する回数は二十一回まで。『2』階と『1』階だから『21』。まあそれだと十二回でもいいことになるけど、十二回じゃ成功する気がしないから」

「そうなんだ。二階と一階だから二十一なんだ。私の誕生日、じゃなかったんだね」

 お姉ちゃんが哀しそうに微笑んだ。

 そうだった。来週はお姉ちゃんの二十一回目の誕生日だった。すっかり忘れていた。

「も、もちろんそれもあるから。ていうか、むしろそっちがメインだし。ほら、あれよ。サプライズみたいな感じで黙っとこうかなって」

 お姉ちゃんの顔に満面の笑みが広がる。

「そうなんだ。よかった。てっきり忘れられてるのかと思っちゃった」

「そんなわけないでしょ。忘れるわけないじゃない」


 *


 二十一回目の挑戦。これがラストチャンス。


 回転を意識するとコントロールが乱れて狙いが外れたり、逆にコントロールを意識すると回転が足りなくて飛び出る水滴の量が少なかったりと、思いのほか難しかった。

 だけど、もう完璧だ。コツは掴んだ。

 お姉ちゃんはお姉ちゃんで、顔を出すタイミングが早かったり遅かったり、顔の位置がうまく合わなかったり、目薬の容器を顔で受け止めたりと、なかなか大変そうだったけど、次第にタイミングも顔の位置も合うようになってきた。

 だいじょうぶ。

 あたしとお姉ちゃんなら、うまくいく。


「ラスト! いくよ、お姉ちゃんっ!」

「おっけー」


 あたしは投げた。

 投げられた目薬の容器が、鋭く回転しながら上昇していく。散らばる水滴が陽の光を浴びてキラキラと輝いた。

 目薬の容器が二階の窓を過ぎる。

 お姉ちゃんが窓から顔を出して、上を向いた。

 目薬の容器が落下し始める。

 死角になって見えないが、タイミングは完璧。

「キャッ」というお姉ちゃんの小さな悲鳴が聞こえた後、「いたっ」というお姉ちゃんの声が聞こえた。

 落ちてきた目薬の容器を、あたしは両手で受け止めた。

 二階の窓を見上げる。

 お姉ちゃんが顔をこちらに向けた。その目が、濡れている……ように見える。

 成功したのか?


 あたしは階段を駆け上がって、お姉ちゃんの部屋に飛び込んだ。

 撮影していたスマホを手に取り、動画を確認する。

 お姉ちゃんと顔を寄せあって、画面を見つめた。


 目薬の容器が窓の高さに上がってくる。

 お姉ちゃんが窓から顔を出す。

 問題はここからだ。

 目薬の容器から飛び出した水滴が、落ちていく。その先にはお姉ちゃんの目がある。

 水滴が目に飛び込む寸前、お姉ちゃんが目をつむった。

 水滴が、閉じられた目に落ちた。眼球を守る、そのまぶたの上に。

「キャッ」

 次いで目薬の容器がお姉ちゃんのおでこに当たった。

「いたっ」


「目、つむっちゃったね」

 と、スマホの画面を見ていたお姉ちゃんが言った。

「もしかして」

 あたしはお姉ちゃんに確認する。

「お姉ちゃんって、目薬さす時、目をつむっちゃう人?」

 お姉ちゃんが、頷いて答えた。

「うん」

「なんで最初に言わないのよっ!」

「でも、ほら、目はしみてるから。目がしみてるってことは目薬が目に入ったってことでしょ。だから、成功じゃない? でしょ?」


 *


 動画はいちおう公開した。半分成功ということにして。

 動画はすぐにバズった。

 そして、お姉ちゃんに対しての好意的なコメントが、コメント欄には溢れ返った。


「目をつむっちゃうお姉さん、かわいい」

「お姉さん、よくがんばった」

「妹のわがままにつき合ってあげるお姉さん、偉い」


 動画がバズったのは嬉しいけど、なんか納得いかない。

 でも、まあいいか。お姉ちゃんの誕生日記念ということで。


 それでは、ええ、コホン。

 お姉ちゃん、二十一回目の誕生日、おめでとう。


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一階から目薬 〜アクロバティック点眼に挑んだ、とある姉妹の物語〜 つくのひの @tukunohino

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