【第4章完】トーカのアトリエ ― 異世界初の絵描きを夢見て

皆尾雪猫

第1章 森の中

第1話 転生と世界樹

近所の団地の屋上。

足元にはひび割れたコンクリートと原因のよく分からない黒いシミ。

周りを見渡すとオレンジ色の街灯とコンビニの明かり、夜の住宅街の光景が広がる。


私は錆びた金網をガシャガシャと乗り越えて、屋上の縁に立っていた。

一歩先には何も無い黒い空間が広がっている。

とても、自由で、絶望的な空間だった。


私には絵の才能が無かった。

才能があると思って、才能があると信じて、才能があると思い込んで、学生時代から20年以上努力をしてきたが、全く報われなかった。

私よりも若い奴が次々と追い越していくのを何人も見てきた。

私の立っている場所は通過点でしかないと言わんばかりに、易々と飛び越えてきた。

私はそこで何年も何年も立ち止まっていると言うのに。


私には運も無かった。

私よりもどう考えても下手で、才能ないのに、努力もしていないのに、不思議と売れていった奴も何人も見てきた。

でもそれも世の摂理、仕方の無いことだと思う。

よく言うだろう。運も実力のうちだ、って。

私はそう自分に何度も何度も言い聞かせてきた。


彼ら成功者に対して嫉妬をしていない……、と言ったら嘘になる。

というか大いに嫉妬をしていた。

もし私に絵の才能があれば、その嫉妬すらもテーマにして創作活動をしたのかもしれないが、私の場合はそういう訳でも無かった。

ただただ、ぐちぐちと悩み、苦しみ、嫉妬の炎に焼かれる思いで日々を過ごしてきた。

何であいつが……、何で私は……、あいつには何があるのか……、私には何が無いのか……。

嫉妬の炎に焼かれながら、悶々と壁を殴り、床に頭を打ちつけ、キーボードを激しく叩いた。

しかし今ではその嫉妬の感情すら希薄になった。

多分、嫉妬に疲れたのだと思う。


そう、ただただ、何というか、絵を描くことに疲れたのだ。

絵を描けば必ず、誰かと比較され、審査され、価値をつけられる。

あるいは、全く無視されることも……、いや違うな、相手からしたら気付いてすらいないのだから、『何も反応が無い』というだけか。

とにかく、そんな状況に疲れたのだ。嫌気が差したのだ。

そして、そんな思いをしてまで頑張る気力が、もう若くない私には無いのである。

絵を描くのに疲れた私は、いつの間にか絵筆を持てなくなっていた。

絵が描けなくなっていた。


今私が屋上に居るのに、特に大きなきっかけがあった訳では無い。

コンビニバイトで消費期限を過ぎたお弁当を廃棄している時に、『あ、死ぬか』と思った。

何となく、消費期限を過ぎたお弁当に自分を重ねて見てしまったのだ。

両親や祖父母はとうに他界し、夫も彼氏も子供もいない。

私には才能も無く、これまでの無駄な努力により、既に人生の『消費期限』が過ぎてしまったと思った。

そして、そんな絵筆を持てない『お弁当』はもう『コンビニ』に不要なのだ。

廃棄されるべきなのだ。


そう、私は全てに疲れたのだ。

自然に、団地の屋上へ足が向かった。

屋上に着いてから、そういえば高所恐怖症だったことを思い出したが、肚が決まっていれば恐怖も全く湧いてこない。


絵を描いていれば、何かがあると思って生きてきたが、何も無かった。

そして、私の人生、これから成すべきことも、為されるべきこともない。

これまで絵に全てを捧げてきた私にとって、絵が無くなると何も残らない。

私の今後、私の将来、私の未来には何も無いことに気づいてしまったのだ。


未練は無かったが、ただ、恨み言は最後に言いたかった。


私は空中に一歩を踏み出した。


――あぁ……、転生したら、次は何かを成し遂げたいなぁ……。


私は夜の底に吸い込まれていった。


 +++


「あれ、この子ちょうどいいんじゃね?」

「……ん、そうかもね」

「折角だし、ちょっと借りておくか」


 +++


衝撃は――いつまでも来なかった。

代わりに、淡いオレンジ色の光が見えた。

視界はボヤけていたが、周囲で人の話している声が聞こえてきた。

聞いたことの無い言葉だったが、なぜか意味を理解することができた。


「ごめんなさい……マーク、ごめんなさい……ごめんなさい……」

悲痛な鳴き声でひたすらに謝る若い女性の声。

声の方向と背中の感触から、彼女に抱きしめられていることがわかった。

「シーラ……、君のせいじゃない……。そんな……、謝らないで……」

悲しみに暮れながらも、女性の横で慰める若い男性の声。

「……、村長に知らせに行ってきます」

冷静に私を覗き込みつつ言う白衣姿の中年の男性の声。

――あれ、私……、団地から飛び降りて……。


「少し……、待ってくれませんか……」

とシーラと呼ばれた女性が中年男性に乞うように言った。

「……出来ません……、この子は神子みこである故、早く村長にお知らせしなければ……」

「少しだけでも……」

「なりません……、一刻も早く神にお返ししなければなりません……」

そう言うと中年男性は視界から消えて行った。

――死んでない……、と言うか……。


私はここがどこかと尋ねるために声を出した。

「うぎゃー! うぎゃー!」

まごうことなき赤ん坊の声だった。

――ということは……。


さらに念のため手足を動かしてみた

どうにもいつもの感覚よりも鈍くて短い気がしたが、そのまま目の前まで持ってくると、さくらんぼのような小ささの握り拳が見えた。

――転生したんだ!


どうやら私は団地から飛び降りて、そのまま死亡すると、前世の記憶を持って転生をしたらしい。

マークとシーラという夫婦の子として。


私はマークとシーラをもう一度見渡す。

どちらも焦茶色の髪の毛にヨーロッパ系の顔立ちながら浅黒い肌をしていた。

そして、どちらもどういう訳か悲しそうな顔をしていた。

シーラは涙まで流していた。


「ごめんなさい……マーク……こんな子を産んで……本当にごめんなさい……」

シーラは何度も何度もマークに謝っていた。

「シーラ……、シーラのせいじゃないよ。天神ファスティア様が望んだんだ……」

マークはシーラの肩を抱き寄せて、私を挟むようにシーラを包んだ。


――ん……? 『こんな子』?

私は不穏なワードが囁かれていることに耳を潜めた。

そういえば、さっきの白衣男は『神子みこ』とも言っていたような……。

特殊な力が得られるのは嬉しいけど、『こんな子』呼ばわりはあまりにも不穏すぎる。

私はマークとシーラの会話に聞き耳をそば立てていたが、シーラが謝罪しマークが慰める以外に新しい情報は無かった。


しばらくしたらドアが開く音がして、3人の男性が入ってきた。

1人が先ほどの白衣の中年男性で、もう1人が『村長』と呼ばれた口髭を蓄えたおじいさん、最後の1人が細身の剣を携えた精悍な顔つきの若者だった。

若者は村長のボディーガードのような立場だろうと推測された。


村長が私を見るなりこう言った。

「おおぉ……、これは神子みこじゃ……はよう天神様の元にお戻ししなければ」

「そんな……、どうして……」

シーラは私をぎゅっと強く抱きしめた。

この子を絶対に手放したくない、という悲痛な心情が伝わってきた。

私は良く理解出来ないなりに、とにかくマズそうだと思って「オギャーオギャー」と泣き続けた。


「ダメじゃ……、お主らも村の言い伝えは知っておるじゃろ。肌も髪も真っ白な子は神子みこじゃて。天神様が使徒とするために祝福したが故に、このように肌も髪も白く生まれてきたんじゃ。明日にでもここを出て、世界樹へと行って、神様の元に送り届けなければならぬ……」

「そんな……」

マークも力なく、シーラと私を抱き寄せながら崩れ落ちた。

私は手を顔の前に持ってくると、確かに透き通るような艶々とした白い肌だった。

浅黒い肌のマークとシーラの子とは思えない白い肌だった。

――『神子みこ』になったのは嬉しいけど……、『神様の元に送り届ける』だと……?


「もしこれを破れば、神の怒りで村がどうなるか分からん。分かっているじゃろう。わしも力ずくはしとうない……」

村長はそう言うと、剣を持った若者をちらりと見た。

従わなければ力ずくでも連れて行くぞと合図を込めながら。


「うう……」

シーラは私の上に泣き崩れた。

マークはそんなシーラに覆い被さるように、村長から守るように慰めていた。

「これも村のためじゃ……、分かっておくれ。明日の日の出と共に、若人衆と共に村を出るからの、今はゆっくりと休んでおけ……」

そう言うと、白衣男と村長と若者は家を出て行った。


シーラの嗚咽と、マークの慰める声と、私の無様な泣き声が、狭いレンガ造りの家に反響し続けた。

私は恐怖と無力感と空腹で、とにかく泣くしかなかった。

泣いて、泣いて、泣きまくった。

そうして、気付いた時にはお漏らしをしていた。


 ***


昨晩は泣き疲れていたのか、いつの間にか寝てしまっていた。

私が起きた時には太陽は昇っており、シーラに抱かれたまま、森の中を徒歩で移動していた。

周りをぐるりと見渡すと、中心に村長とマークとシーラ、その周辺に6人の若者が剣を携えて歩いていた。

若者達は護衛としての意味もあるが、それ以外にもマークとシーラが逃げ出さないようにするために周辺にいると推測された。


森の中では、緑や黄、赤色の木の葉が、風に揺られてさらさらと音を立てており、その向こうから柔らかな木漏れ日が落ち葉の表面を暖かく照らしていた。

時折、真っ赤な葉っぱがひらひらと舞い落ちており、私の上にもそっと落ちてきた。

爽やかな秋の朝といった光景ではあったが、その森の中を歩く私たちの間に会話は無く、ただただ悲痛な雰囲気だけが漂っていた。


「この子が起きたわ……」

シーラは大きな隈を目の下に作りながら、ぽつりとつぶやくように言った。

私はあまりの空腹に泣き叫ぶと、シーラは歩きながらも無言で服をはだけさせて胸を出してきた。

私は夢中でおっぱいを飲んだ。


「……」

シーラは無言ではあったが、どこか物憂げな目をしていた。

大事な我が子ではあるが、もうすぐお別れをしなければならないため、感情移入をしないようにしているのだろう。

そして、産んですぐの我が子を、何故に『神様の下に送り届ける』ことになったのか、原因を考え込んでいるのかもしれなかった。


私は村長の言う『世界樹に到着して神様の下に送り届ける』の具体的な内容は良く分からなかったが、とにかくマズい響きがするのは理解していた。

良くてその場で放置、最悪そこで殺されるのだろうと思う。

『神様』と呼ばれる誰かに預けられるという線も一応あるが、それはあまりにも楽観的な考え方だろう。


とにかく、何としても『世界樹』に到着する前に何かしなければならないと私は思った。

しかし、今の赤ん坊の私に意識的にできることはあまりにも少なかった。

①泣き叫ぶ

②手をバタつかせる

③足をバタつかせる

の3択しか無いのである。

これでどうやって今の状況を打破出来ると言うのだろうか。

産まれてすぐの赤ん坊に出来ることはあまりにも少なかった。


そして、色々と考えたかったのではあるが、私は赤ん坊のせいで覚醒と睡眠の境界が曖昧で、気づかない間に眠ってしまうことが多かった。

特にシーラのおっぱいを飲むと、すぐにうとうとと眠ってしまうのであった。

そうして起きると、またお腹が空いているので、泣き叫んでシーラのおっぱいを飲んで、また眠るというサイクルになってしまった。

そうしていつの間にか夜になっていた。


爽やかな木漏れ日が森の中を照らす日中とは異なり、夜の森はひたすらに不気味であった。

何らかの獣の遠吠えや虫の飛ぶ音、そして何かが木々をコツンコツンと叩く音に、パキっと枝を折る音、果ては正体不明の重低音まで、様々な音に満ちていた。

私は夜であろうと関係無く、目覚めるたびに泣き叫び、おっぱいをせがんだ。

私は赤ん坊なのだ。お腹はどうしたって空く。

――それに、きっともうすぐこのおっぱいともお別れだしね……。


寝て起きては泣き叫びおっぱいを吸ってまた寝ると言うのを何度も繰り返した。

寝て起きたら昼の森で、また寝て起きたら昼の森で、また寝て起きたら夕方の森で、また寝て起きたら夜になっており、また寝て起きたら明け方の森になっていた。

いつまで経っても森の中を移動し続けており、全く何も進んでいないような感覚になる。

ひたすらに彼らは無言で重苦しい空気の中、移動をし続けているようで、徐々に時間が経過していく感覚も無くなってくる。

もしかしたら『世界樹』には到着しないのではないかとも感じられた。

しかし、村を出発してから3日目、遂に大樹の端に到着がした。


その大樹は説明されるまでもなく、一目で『世界樹』であると理解できた。

大樹と言っても想像を遥かに越える規格外の大きさで、反対側の端は全く見えなかったし、下から見上げても樹の頂点は全く見えなかった。

葉は全て半透明の薄いガラス片のようで、『世界樹』の天頂から降り注いでいる太陽光をキラキラと反射し屈折させながら七色に輝いていた。

そして『世界樹』の根元には、そのガラス片のような落葉が幾重にも重なりあって、天頂から降り注ぐ七色の光を乱反射させていた。


私の目の前には全ての色が存在していた。

光が反射し、屈折し、重なり、遮られることで、この世で生み出される全ての色彩が、私の目前に現出していた。

私はもうすぐ神様に『お返し』される危険な状況にもかかわらず、目の前の光景に心を奪われていた。

泣きやみ、ただただ見惚れていた。


シーラは村長に促されるまま、私を抱いて、『世界樹』の根元へとゆっくりと進んでいった。

何も言わなかったが、私を抱く手には力が込められていた。

マークと3人で世界樹の幹へと、静々と歩いて行く。

護衛の6人は『世界樹』の落葉が溜まっている場所へは入り込まずに、大樹の端で待機するらしい。

それだけこの『世界樹』の下が神聖な場所ということか。


たっぷりと20分は幹までかかった。

幹は間近で見ると、黒っぽい透明感のあるガラスのようで、それが幾重にも重なっているようだった。

そして幹は本来円形であるはずが、あまりに巨大すぎて木肌が曲がっているように見えず、どこまでも続く黒いデコボコしたガラス面が左右に広がっているように感じられた。


「ここに置くのだ」

村長が静かにシーラに命じた。

シーラは無言だった。

ひたすら動かなかった。

動けなかったのかもしれない。

マークはシーラの肩を抱き、私にも手を回した。

「置きなさい」

村長は優しい声で言った。

仕方が無いことなんだ、とシーラに諭すように。


シーラはようやく、ノロノロと『世界樹』根本にかがみ込んだ。

その表情は諦めの気持ちに満ちていた。

子を産んでたった3日間で、我が子を神に差し出さなければならない理不尽に、シーラは何らかの原因を求め続けたのだろう。

なぜ我が子は白く産まれてきたのか……。

普段の行いが悪いのか、神への祈りが足りないのか、それとも神に祈りすぎたのか。

そんなことを考えて『世界樹』まで3日間歩き続け、そして答えは出ず、今後もずっと考え続けるが、きっと答えは出ないのだろう。

そんな諦念の表情であった。


シーラは私を白い布にくるんだまま、そっと『世界樹』の黒い透明な幹の側、白く半透明な落葉の上に置いた。

七色に乱反射する光が私を照らした。

キラキラと光る反射光に照らされるシーラとマーク、そして村長の姿が見えた。

3人とも立ち上がり、両手を組んで目を閉じた。


村長が祈りの言葉を、私にとっては呪いに等しい言葉を呟いた。

天神てんじんファスティア様、及び、地神ちしんラスティア様

御身の名において、天地の狭間に暮らす我らが奴婢ぬひ

天神てんじん神子みこが、今生まれん

天柱たる世界樹にこの使徒を差し遣わし

我らが奴婢に長久とこしえの安寧を」


3人はゆっくりと目を開けた。

そうして、村長はくるりと半回転し、私から離れて行った。

マークも躊躇いがちに反対方向を向くと、振り返りつつも離れて行った。

シーラも最後まで両手を合わせながら、私の方を向いていたが、目をぎゅっと瞑ると両手で顔を覆った。

嗚咽混じりの声で「ごめんなさい……」とつぶやくと、反対を向いた。

そうして、何かを振り切るように、走り去った。


私は泣いた。

手足をバタつかせながら、泣き叫んだ。

それしか私には出来なかったから。

ひたすらに手を曲げ伸ばし、足をバタバタと上下させ、あらん限りの声をもって泣き叫んだ。

小さな肺と小さな声帯を振り絞って、ただひたすらに泣き叫んだ。

そうして泣き叫ぶうちに――


――意識が途切れた。


起きたら……、別の世界に……。

――そんなことは無かった。

さっきと同じ光景が目の前に広がっていた。

単に赤ん坊だから泣き疲れて眠っただけである。


それにしても、今度こそお腹が空いている。

さっきはまだ、おっぱいの直後だったから良かったものの、もう空腹が我慢ならない。

次に眠ったら、多分もう目覚めることはないと思う。


――あぁ……、せっかく転生したのに……、またしても何も成し遂げられなかったなぁ……。

そう思うと、泣きたくなってきた。

心の底から泣き叫んだ。

誰か助けて。

誰か。

手足をジタバタさせてひたすらに泣き叫んだ。

うわんうわんと力いっぱい泣き叫んだ。

泣き叫ぶと同時に、下半身にも水分が垂れ流しになってしまっていた。


「うるっさいのー、何じゃ」

唐突にぬっと私の前に顔が現れた。

黒い三角帽子に鉤鼻、小さい鼻眼鏡をした老婆という、いかにもな魔女が現れた。

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