君と嘘つき 6
「……ああ、まさか」
事務所に駆け込んだ僕の目に映るのは――。
……糸?
走って走って走った。
苦しい。
苦しくて堪らない。
こんなのは、初めてだ。
……糸。
最後に会ったのは、いつだったろう。
前ほど頻繁には事務所に顔を出さなくなった糸は、今どこで何をしているのだろう。
それは、電車内で突如として込み上げた恐怖だった。
宗田くんにばかり気を取られていたけれど、稜は糸のことを何も言わなかった。
あの日、顔を直接確かめにまで来ておきながら、何も。
駅に飛び降りるようにして降り立った。
もしかしたら、以前のように事務所に顔を出しているんじゃないかと思う一方で、ひょっとして宗田くんもまた囮で、糸に電話をしたらザマアみろと楽しそうに笑う稜が出るんじゃないかと、その不安に怯え繋ぐことの出来ないスマホを握りしめ、電車を降りてから脇目も振らずに事務所までのかなりの距離を走って走って走った。
電話を掛ける?
もし、稜が出たら?
怖い。怖くて堪らない。
糸もまた捕らえられたのでは?
そうだとしたら?
電話をしたら分かる?
声を聞いたら安心する?
どんな誤魔化しだって出来るのに?
いや、そんなことじゃない。
事務所に居なければ、糸の祖母の家に行こう。糸の居そうなところを探す。電話をするのはその後だって良い。姿をこの目で確かめられることが出来なかった時になってからだ。
居なかったら?
姿がなかったら?
糸はもう何処にもいないのだとしたら。
だから稜は何も言わなかったんじゃ?
そしたらどうする?
僕はまた、失ってしまうのだろうか?
様々な考えに翻弄されたまま開けた事務所の扉の向こうに糸の姿を見た途端、怖がらずに電話をすれば足りた話じゃないのか、なんて安堵と同時に拍子抜けした自分に覆い被さるのは、いやもしかしたら都合の良い幻を見ているのではないかと一瞬にして再び背筋が凍るような疑心暗鬼に捉われ、さっきまでの迷いの全てが凄い勢いで自分を包み込んだことに驚く。すぐにでも確かめたくて、息を切らせ事務所に飛び込んで来た僕に驚いて、椅子から立ち上がり掛けた糸の手を引き寄せると、有無を言う暇を与えずにそのまま抱き寄せていた。
……糸。
糸、だった。
本当に?
そしてそのまま、僕の荒い息遣いと凄い速さの心臓の音に糸が怯んだのも構わずに、両腕に力を込めた。
「……った……良かった。ああ……まさかとは、思って……いたんだ」
苦しい。
苦しくて堪らない
きれぎれに囁く僕の声が、糸に言葉として届くまでのそのもどかしさを、何と表したらよいのだろうか。
こんなに走ったことは、これまでの人生にだって一度としてなかった。おそらくこの先も、こんなに誰かを思って感情を揺さぶられるままに身体が動くことは、ないだろう。
がくがくと震えている両脚は、走った所為だけじゃないと分かっていた。
怖かった。
恐ろしかった。
「……シキさん?」
戸惑う糸の声が、柔らかな糸の身体が、甘い匂いが、その全てが……僕の両腕の中に確かにあるのを感じられるまで、そして僕の呼吸が整うまで、糸は身動ぎもせずに、また何も言わずに、じっと抱き締められるままその場に立ち尽くしてくれていた。
やがて、おずおずと伸ばされた糸の手が僕の背中を宥めるように軽く触れた時、ようやく両腕の力を緩めて僕は、はっとその身体を離したのだった。
「ごめん。……取り乱した」
「何か、あったんですか?」
「……宗田くんが」
僕は、糸に話し始める。
宗田くんのこと、稜のこと、僕の過去を。
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