猫と鯖雲 5


 どういう意味だろう?

 真っ黒で、どろどろしていて、苦しい?


 僕がみつるを見つめていると、今度はニャアと普通に鳴いて、再び抱き上げられた宮藤氏の膝の上に戻って丸くなった。


「そう……みつるは、最近に頻繁に言うんだよ『真っ黒で、どろどろで、苦しい』……病気かと思って慌てて連れて行った、かかりつけの獣医さんからは健康だとお墨付きを貰ってね。まさかそこで、みつるが喋ったからだとは言えないから」ハハハ、と宮藤氏は苦い顔で笑いながら、みつるを優しく撫でた。


「……真っ黒、どろどろ、苦しい……か」


 ……まさかね。


 あるひとつの感情を思い浮かべながら、僕はそっと首を横に振る。

 そうでなければ、もしかして宮藤氏に誰かが悪意を向けているというのだろうか。それを感じとって、真っ黒で苦しいとか?


「最近、物騒なことや、変わったことはありませんでしたか?」

 糸が僕の心を読んだかのように、宮藤氏に向かって話しかけた。


「物騒なこと? そうだな……特には、これといって……」

 目をきつく瞑り眉間に皺を寄せ、懸命に何かを思い出そうとしている様子を見れば、何も無いのだということが分かる。


「お祖父さまに、何かあるかもしれないって言うの? みつるは、そのことを知らせているってことなのかしら?」

 そう言って首を傾げる友花に、糸はちらりと視線を送ったものの、顔を背けるようにまた庭の方へ戻す。


「さあ、どうでしょう。ただ……ひとつ、わたしが友花さんにお尋ねしたいのは、貴女は猫が喋ると聞いた時には何の疑問も、不審に思うことも、なかったのですか? そちらの……猫、みつるさんとは疎遠なのに?」


 ふふッと可愛らしく笑った友花さんは、糸のその質問に迷うことなくきっぱりと「お祖父さまは、嘘を吐いたりしないと思って」と答えた。

 それに対し、虚をつかれたような顔をした糸は、再び友花さんをちらり見た後「そうですか」と短く言う。

 宮藤氏の歳からすれば、もしやと思うこともあるだろう。だが、そんな不安も押しやる無邪気なまでの友花さんが宮藤氏祖父に寄せる無条件の信頼というものを、見たような気がした。


「みつるさんが喋るというのを、僕たちの他に、誰か知る人はいませんか?」


 それまで何の気なしに猫の背を撫でていた宮藤氏の手の動きが、ぴたり、と止んだ。

「さあ、どうだろうな……日中、みつるの面倒を見ているのは志乃さん、お手伝いさんだったんだが」


「その方に、お話を聞くことは出来るでしょうか?」


「いや、生憎なことについ最近、彼女は辞めてしまったんだ」

 止んでいた手が、また優しく動き出す。

「……?」

 では、インターホン越しに声を聞いたあの人は『志乃さん』ではないということか。


「お手伝いさんは……」

 

「今は通いの方がいらしてるんだけど……ずっと、志乃さんだったの。私がまだ幼い頃から、このおうちに住み込みで働いてくださって。お祖母さまとも、とても気が合って仲が良くて……。お祖母さまが亡くなって志乃さんが、いちばんがっくり来ていたんじゃないかしら? みつるも良く懐いていたわよね、お祖父さま?」

 それから友花さんは、小さな焼き菓子を一つ手に取ると「お菓子作りも、とてもお上手で……お祖母さまに、お祖父さま、志乃さんと一緒だったあの頃は、お茶の時間が楽しみだったわ」と言い終えた後に、おもむろにそれを口に入れた。


「住み込み……今はどちらに居るのか、分かりますか?」

「お祖父さまは? ご存知?」

 お菓子を飲み込むと紅茶を口に含み、友花さんは宮藤氏に尋ねる。


 しばらく黙り込んでいた宮藤氏は口を開きかけたが、そのまま直ぐにまた唇を結び、首を横に振っただけだった。

 そんな宮藤氏と、その膝で眠る猫を見ながら僕はあるひとつの考えが浮かび上がる。


「そう……ですか。みつるさんが『真っ黒』と言い始めたのはひょっとして、その志乃さんが辞められてから……いや、辞める少し前からではないですか?」

 

「……それは、どういう?」

 

 僕の言葉を受け、顔を上げた宮藤氏を見た途端に『誰』が真っ黒で、どろどろで、苦しいのか……僕は、分かってしまったのだった。


 

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