鶯と枇杷 10



「……電車で、って言いましたよね?」


 車の窓の外を、軽く睨むように見ている糸の横顔をちらりと見る。

 え? 何か怒ってる?


『東京湾アクアラインから国道409号線を通るルートです。案内を開始します』

 ナビの音声が車内に響き渡る。


『ポーン!

 まもなく左方向、木更津方面です』

 

 走り出して暫くの後、僕に言われた住所を目的地として打ち終えて助手席に背をつけた海都が、満足気なにこにこ顔で後部座席に座る糸を振り返る。


「学校サボるのってオレ初めてで、ちょー嬉しいんだけど」

 目を輝かせ窓を全開にしようとする海都を、慌てて止めた。

 どうしようもなく浮かれているのは、分かる。いや、不安と期待が海都を興奮状態にしていることも、分かっている。

 だが高速道路で、しかも大型トラックも走っているんだから開けたところで排気ガスが臭いだけだ。


「頼むからちゃんと座っててくれよ。車の運転は久しぶりなんだ。……それも、ものすごーく、ね」


「やっぱり電車の方が、良かったじゃないですか。なんだか不安しかないです……」


「だ、大丈夫だよ。レンタカーは、ばっちり保険に入ってる」それに車の方が便利だと思うんだよね。時刻表に左右されることも、待つ時間もないし、何より平日だから子供を連れて歩くとなると人目もあるし。

 ……聞いてる?


「あ、見て見て。ホラあそこ」

「海都くん、それは何の罠なの……やめてほしい。つい見ちゃうから」

 がっちりとハンドルを握る手に汗が滲む。


「運転は、いつぶりなんですか?」

「……大学生の時が最後、かな」

「どのくらい、ですか?」

「……よ、四年くらい……か、な?」あははと笑いながらバックミラーに目をやったことを後悔する。

 海都は海都で、そんなことは全く耳に入ららない様子なのは「海ほたるで何か食べようよ、ねぇ」と話しかけてくることからも、手に取るようによく分かった。


「海都くんも後ろに仲良く座れば、良かったんじゃない?」お願いだから僕の邪魔だけはしないでよ、と小さな声で付け加える。


「だけどさ。……先生、仕事中のお母さんに電話したりしないよね?」

 急に不安になった海都が言う。

「大丈夫ですよ。ちゃんと違う携帯番号を二つ教えておきましたから。海都くんは祖母に預けるので、用があるときは携帯かの携帯にお願いしますと言ってあります。今日は緊急連絡先とは違うときちんと言っておくのも大事です。要は、堂々としていれば疑われないものなんですよ」


「……まさか、君も同じこと言って休んだの?」

「早退、ですよ」

「早退だよ」

 そこに大した違いがあるように思えないのは、僕だけなんだろうか。

 

 ――『ようちゃん』のお母さんに会えるまで、あと少し。


 なんとなく高揚した車内に、僕は小さく溜め息を吐いた。



「……こ、こ?」

「ここじゃないよ。ここから歩いて行くんだ。その間に、海都くんがもっと思い出すんじゃないかってね」

 車を止めたのは、駅の近くの駐車場だ。


 辺りを見回しながら歩く海都が、普段のお喋りは鳴りを潜め、全くの無言であることに不安を覚える。

 僕と糸は海都が先を歩くのに任せ、少し後をゆっくりと追った。


「……知ってる。ここ、知ってる。オレ……この道歩いたことあるよ」

 この言葉を皮切りに、海都は夢中になって喋り始める。

 


 ねえ、見て。


 あの田んぼ、全然変わらない。

 あっちの先に踏切があるんだ。

 ……ホラ、ね?

 ここに電車を見に来たこともあるよ。


 こっちだ。

 この道を曲がるはず。

 あ、アレ……あれを見て。

 犬がいる家。

 ……いないね。

 もう、ずっといないみたいだ。

 そっか、そうだよね。


 枇杷の木だ。

 ……あ。


「……? ああ、そっか……。そうかもとは思っていたんだ……」

 海都が僕を振り返って言った。

 血の気のないその顔は、ここに来たことを既に後悔している。


「オレ、ひょっとして殺された? 違うよね? でも……オレが……オレが、あの水の中から見上げた人影、あれはきっと」


 ……お母さん、だ。


 その瞬間、玄関の開く音が聞こえた。

 


 『じゃあ、あの子。

 あたしのこと、怨んでいるんですね。


 ……そりゃ、そうですよね?』



 あの日に聞いた声が、僕の耳に蘇る。

 目の前では玄関から現れた人物に、海都が身体を固まらせていた。

 

「……誰? このお婆さん」

「誰だい? この子供は?」

 もしかして……。


「海都くん、こちらが『ようちゃん』のお母さんです。

 お母さん、こちらがの生まれ変わりの、海都くんです」





 

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