セーラー服と菜の花 9



 「……あ、……あ、あ」


 がくがくと小刻みに身体を揺らす辰巳くんの目には、何が映っているのだろう。


 僕に見えるのは……。

 奇妙で真っ黒な人型の、おぞましいばかりに目の部分が血錆のように赤く滲んでぽっかりと穿つ、異形の怨霊――。


「どうやら、いらしたようですね」


 落ち着いた柔らかい声のした方を見る。 

「お知り合いのようですから、ご紹介いただけますか?」

 形の良い唇に笑みを浮かべた彼女は、扉の前にいる異形の塊と辰巳くんを交互に見て言った。

 この店は、こんなに暗かっただろうか。

 それまで気にしていなかったダウンライトの影が、急に濃くなったように感じる。

 

「あ、あ、……」


「どうしたんですか? おかしな方ですね」

 そう言って微笑む美しい顔というのが、こんなにも恐ろしいものに見えたことは今までに一度もなかった。

 ふっとあの夢を思い出す。

 ……艶かしいツノのある額。

 あの女の白い顔は、彼女に似てやしなかっただろうか?

 

 その時、ゴウッと耳の奥に風が吹いた。

 争う男女の声を聞いたような気がする。

 いさかう女の、悲鳴に似た泣き声。


「……な、何だよコレ。こんなんで騙そうって言うのか? ふ、ふざけるなよッ」

 

 その彼の声に寄せられたようだった。

 異形の下半身は扉の前にあるというのに炭を指でこすったように引き伸ばされたその上半身は黒く、歪な頭に暗く穿つ血錆の眼でもって、ぬうと彼に近づくと触れんばかりの位置で、じッと彼の顔を覗き込んでいる。

 

「騙す? 何を言っているんですか?」


「そ、そ、そうだろう? じゃなければ、い、いまさらが何をするっていうんだ? 何の用があるんだよ!?」


 真っ黒な異形のモノが、唐突に伸びた。

 ぐにゃり、と真ん中辺りで折れ曲がる。

 それはまるで辰巳くんを包み込むように。


「……どうやら貴方に、聞きたいことがあるそうですよ? ……か、ばん……鞄。大切にしていたものが入っている鞄を、探しているそうです。あの土手で揉み合いになった後、貴方はそれを、どうしたのですか?」


「くッ……来るなよ。……こっちに来ないでくれ!! う、ううぅ……ぁあ……」


「それ、を貴方はどうしたんです?」


「捨てたよ!! あんなもの、あんな、あ、あ、あ……うわ、あ、あぁぁァァ!!!」

 

 彼のその、暗い喉の奥、叫び声を発する口の中に真っ黒なモノが、ずスずスと音を立て吸い込まれるように入って行くのを、僕は為す術なく見ていた。

 彼が見ていたのは、何だろう?

 テーブルや椅子にぶつかりながら、辰巳くんはどうにか扉まで辿り着くと、振り返ることなく外へ飛び出して行く。


「……どうやら、あの女性は彼について行くようですね」

 彼女もまた、僕と見ているモノは違うようだ。なぜなら「寂しげな美しい人でしたね?」と、悲しそうに言ったから。 


「これから彼、どうなるんでしょう?」

 彼女の言葉に僕は、さアねと首を傾げる。多分、彼をもう二度と見ることはないような気がした。


「それにしても探し物とか、鞄のアドリブとか凄かったよ。良く思い付いてくれたね」


「え? まさか女性の話、聞こえてなかったんですか? その鞄の中に、お守りのようにしていつも持ち歩いていた、上京する時に貰った、ご両親からの手紙が入っていたって……それをあの女性は」


「……そう、なんだ」


 マスターがサーバーにたっぷりと淹れた温かいコーヒーと、ホットサンドを乗せた皿、二枚の取り皿を持って僕たちのテーブルまで歩いて来た。

 途端に、その香りが空腹を刺激する。


「さ、君たちも随分と長い時間コーヒーばかりでは身体に悪い。お腹も空いただろうから食べなさい」


「……マスターは」何が見えたんです? それとも何も見えなかったんですか? と聞こうとして僕はやめた。

 他人ヒトの目に映るものを尋ねたところで、その人ではない僕に何が分かるというのだろう。


「さあ、食べなさい。ゆっくりして行くと良い。洗い物はしなくて大丈夫。だが、戸締まりは、しっかり頼んだからね。先に帰らせて貰うよ家で猫が待っているから」

 僕と彼女に優しく笑うマスターは「帰り道は送り狼にならないようにね」と僕に向かって余計なひと言を残して帰ってゆく。


 僕たちは銘々めいめいにホットサンドに手を伸ばす。

 コーヒーを注ぐ。

 食器の触れ合う音が心地良い。


「北村さん……北村センセイ?」


「や、やだな。セーラー服姿のJKにそんな風に呼ばれると、思わずよからぬことを考え……や、違った。何かイケナイことをしているような気になるんだよね。……ん? 

 ……あ、いやいやいや。ホラ、それに、あの、世間の目が……さ」


「……今どきJKって」

 ふふっと綻ぶ口元に視線がゆく。

 柔らかそうな唇が白い陶器に良く映える。

 上目遣いで僕を見る彼女は「じゃあ名前……名前を教えて下さい」と言った。


「四季、北村シキ……です」


「ふーん。じゃあシキさん」


「はい、何でしょう」

 なんとなく二人で笑い合う。


「でもアレだね? 君も」


「糸。いと、です。高桜たかざくらいと


「……君も、お母さんのセーラー服を着てるなんて、亡くなったお母さんが知ったら」

 僕は思わず、ちょっと涙ぐんでしまう。


「生きてますけど?」


「そう……生きて……生きてって?! 何? えっ? なんなの? 死んでない?」


「勝手に殺さないで下さいね」


「えっ。じゃあ、なんでそれ着てんの? 写真でしか見た事ないとか言ってたよね?」


「可愛いし、毎日何着てくか悩まないで済むじゃないですか。それにあの母が、いい歳してセーラー服なんて着るわけないですから、昔の写真でしか見たことがないのは、そのためです」


「言いたいことは色々あるけど……それって、ミニマリストとは言わないよね」無精者ってやつじゃないのかなと言いかけて口を閉じた。


 糸の笑顔が、可愛かったからだ。





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