第2章 春ふたつ目

鶯と枇杷 1



 九時十五分。


 北村ふしぎ事務所にある時計は、正確な時刻を刻まない。

 それでもすぐそばに掛けてあると、そうと知っているのに何故か見てしまうのだから不思議である。


「……ねぇ。友達は、まだ出来ないの?」


 応接セットのソファで横になって本を読んでいた僕に、階下したの喫茶店で淹れて貰ったコーヒーの入ったタンブラーを差し出してくる高桜たかざくらいとのセーラー服姿の良く似合う綺麗な顔を見上げながら言ったそのひと言は、このひと月、学校から帰ると毎日事務所に顔を出す彼女に、何度となく繰り返しているものだった。


「……友達? それってどういうものでしょうね? シキさんは知っていますか?」


「あ、うん。聞いた僕が、悪かった」


「そう言われるシキさんの、友人らしい方にだって、これまでお会いしたことがないのですが」


「……だから、悪かったって」

 起き上がりタンブラーを受け取ると、糸はくすぐったそうな笑顔を見せた。

 ひと口飲んで、ありがとうとお礼を言う。


「どういたしまして。……マスターが、バイト募集の張り紙をしていましたよ」


「……ああ、うん」


 あれからしばらく後、あの川の下流で辰巳くんの遺体が発見された。

 苦悶に歪む彼のその口の中、喉の奥には黒く長い髪の毛が束になって詰まっていたのだという。

 だがそれもまた、噂のひとつに過ぎない。


「いつ来ても、誰もいませんね」

 

 糸は鞄を抱き抱えると、センターテーブルを挟み僕と向い合う一人掛けの椅子に行儀よく座る。


「不思議なことは身近にあるけれど、それに気づくかどうかはまた、別の話だからね」

 というか君、毎日来てるよね? 

 流石に土日は姿を見せないだろうと高を括っていたのは、僕だ。

 ……それも制服で、とは。


「セーラー服、いつまで着るの?」


「? 高校を卒業するまで着ますよ?」


 きっと私服姿も可愛いのに、と言おうとして口をつぐむ。それに近寄り難くしているその制服姿をやめたら、友達だって出来るんじゃないんだろうか? そうしたら、ここに来ることだって……。

 そんな僕の気持ちを知ってか知らでか、さらさらの長い髪を耳に掛けながら「だって夏服もあるんですよ」と嬉しそうに言って首を傾げる糸から、そっと目を逸らした。


「そういえば北村ふしぎ探偵事務所のホームページには、住所と電話番号しか書かれていませんよね?」


「そうだね」


「もっと宣伝したりしないんですか?」


「うーん。本当にその不思議を知りたければ、どうしたって向こうから連絡が来るだろうから、かな。それに」忙しいのは好きじゃないんだよね、と言って誤魔化す。

 僕のことをじっと見る糸から逃れようとソファから立ち上がった時、事務所の入り口にランドセルを背負った男の子が佇んでいることに気づいた。


「ホラ、ね?」

 いつからいたんだろう? 全然気づいていなかった。

 軽く首を竦めるようにして言った僕の言葉を受けて、糸が振り返る。


「……そうですね」

 続けて、笑顔を見せながら、こんにちはと男の子に声を掛けた。

「良かったら、座りますか?」

 ソファの方へ指を差しながら糸が優しく尋ねるも、男の子は扉の前から動くつもりはないようだった。


「ここ、ふしぎ探偵事務所だよね?」

 

 小さな身体に少し不釣り合いなそのハスキーボイスは、最初に聞いた時には驚いたが落ち着いた佇まいの、この子に良く似合う。


「何年生ですか?」


 じろり、と糸を睨みつけた後、ぶっきらぼうに「四年」と答える。

 なるほど。

 四年生になったばかりとはいえ、その小柄な身長と優し気な顔つきは、黙っていれば歳より幼く見えるものだ。

 だがそのギャップのあるハスキーな声が、かえって魅力的に映る。


「そんな所に立っていないで、入ったらどうだい? 見たところ、ここは別に怪しい所じゃなかっただろう?」


 それでもその場を動かないこの子は、事務所の中をじっくりと眺め回しながら何かを探しているようだった。


「……探偵は……ふしぎ探偵さんは、どこにいるの?」


 ああ、そうね。

 うん。


「はじめまして。僕がこの事務所のいわゆる探偵ってやつかな」

 常に入れたままにしている尻のポケットの名刺を取り出して、その皺くちゃになったものを男の子に手渡す。


「北村……四季シキ? ふーん。ふしぎさんじゃないんだ」

 僕を遠慮なく上から下まで見るその視線の厳しいことに、思わずたじろいでしまう。

 この男の子の言わんとすることが、手に取るように分かる。


 頼りなさそうだけど、大丈夫なの?


「うん。……だね」


「……お金、掛かるんだよね?」


 男の子はおもむろにランドセルを床に下ろすと、べろんと蓋を開けて中から円筒形の郵便ポストの形をした貯金箱を取り出した。


「ん、コレ……これで足りないのは分かるけど……でも、コレ」

 僕に向かって突き出したその真っ赤な貯金箱は、音があまり鳴らないところをみると、ぎっしりと小銭が入っているようだった。


「うん。足りないかな」

 そう言って受け取る僕に、刺さる冷たい視線を目の前と別方向から感じる。


「受け取ったからには、君は依頼人だよ。中に入って話を聞かせて貰えるかな?」


 それならば仕方がないと言わんばかりに、男の子は扉から離れるとソファに向かって歩き出した。

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