鶯と枇杷 4



 電車の座席に腰を掛けるときは必ず、ちらりとさりげなく横目で座面を確認する。ひと目で分かる汚れならまだしも、見えない何かが付いてしまいそうで出来れば座りたくないのだが、長い移動時間ともなるとそうも言ってはいられない。

 座った後もなんとなく居心地が悪く、もぞもぞと尻を動かしてみたりする。

 そんな僕の様子など目に入らない糸は、澄ました顔で隣に座ると、早くもすっかり寛いだ様子で車窓を眺めていた。


「ところでソレ、毎日着てるけどちゃんと洗濯とかしてるんだよね?」

 そうこうしているうちに、電車は走り出したのだが、いつまでも尻の下が気になって仕方がないので、糸に話しかけて気を紛らわすことにする。


「シキさんって、いい加減なようで意外と潔癖なところがありますよね?」大丈夫ですよ。わたしの家の近くにクリーニング屋さんがあるんです。


「……何か答えになってないような気がするんだけど」

 

 ふふっと笑う糸からは、良い香りがする。優雅なフレグランスの奥から時折り感じるホワイトムスクが、僕をどぎまぎさせた。


「冬服も、夏服も、二着ずつあるんですよ」


「え? なんで?」


 秘密です。と言いながら唇の前に人差し指を立てて見せた。そうして僕に向き直った糸は「海都くんですけど……」と心配そうに眉を顰める。


 ――あの後、事務所の雰囲気を一新するべく階下したの喫茶店からホットドッグを取り寄せると、素直に、そして美味しそうに齧り付く海都の様子に安堵したものの、それを見ながら果たしてこれは、自分の心証を貶めない為の依頼人への賄賂なのか、はたまた傷付けてしまった小さな子供に対するご機嫌取りなのか、もしかして飼い慣らそうとするための餌付けなのかとひとり悶々としていたことを、糸は知らない。

 食べ終えて腹を満たした海都と正式な契約を交わし、サインを貰った書類をファイルに仕舞う一方で、僕は彼に宿題を出した。

 事務所の扉の前で黙ったままその宿題を受け取り、神妙な顔をして頷いた海都が振り返ることなく帰って行く、その肩の荷を半分ほど下ろした後ろ姿に、彼のいまの家族との良い関係を見ることが出来たようで僕は少しほっとしたのである。

 彼を待つ帰る家があるということは、それだけで幸せなことだ。

 それでなくとも些細な幸せとは、当たり前にある空気のように普段は気づかない。それを求めるようになって初めて、自分がいかに幸せだったのか、分かるのだ。


「あの日、口に出来なかっただけで本当は、もっと覚えているんでしょうか?」


 線路を走る電車の振動の音に紛れて、そうだなぁ、と僕は言葉を濁す。

 また次に来る時まで、その他の思い出や覚えていることを何でも書いておくようにと、海都に手渡したあのノートに、何が書かれることになるのだろう。


「ところで、君も一緒に行くとは思ってなかったんだけどね?」


 僕と糸がこうして電車に揺られているのは、海都の記憶にあったというK鉄道の始発駅に向かっている為である。


「海都くんの代わり、ですよ」


 オレ、ひとりで遠くまでは行けないし、だからって一緒に行くってなると親に嘘つかなくちゃいけなくなるから、それは最後の最後までとっとく。


 そう言って、唇を真一文字に結んだ海都を思い出した。


「ああ、まあね。……うん。それにしても」今日は平日なんだけどなぁと、良く晴れて気持ちの良い窓の外を眺める。

 そのまま隣に視線をずらせば、整った糸の横顔が機嫌良さそうに窓へと向けられていたので、しばらく見惚れてしまった。


「……人が、少ないですね」

「うん」


 それからは二人で黙ったまま、流れる窓の外の景色が段々と鄙びてゆくを見ていた。

 こうしている沈黙の時間が、厭わしくないのは二人でいるのにひとりのようで、とても居心地が良い。

 糸は、何を思うのだろう。


「……わたし、ひとりでいるの、好きなんです。だけど春の季節は、それもなかなか思うようにいかなくて」

「……?」


 まるで僕の心の声が聞こえたように突然、糸が話し始めた。

 長く黙っていたせいで少し掠れ気味のその声に、変に意識をしてしまった僕の方が思わず咳払いをしてしまう。


「ホント言うとこの時期は特に、ひとりで外を歩くのも、怖いんです。人が多いのは苦手なんですが、こうも人が少ないのも怖くて……でもどうして、でしょう? 不思議なんですけど、シキさんと一緒だと大丈夫みたい」これも不思議な話ですね? と可愛らしく笑う糸の目が、黒く陰って見えるのは気の所為ではないみたいだった。


「春が、怖いの?」

「春は怖いんです」


 ともすれば、いつでも怖いらしい。

 だが、なぜ春ばかりが、そんなに怖いのだろう。

 電車が駅に停車する。

 ドアの閉まる直前に、ゆっくりとした動作で一人の老婆が乗り込んで来た。

 背負い篭を腰の曲がる背の上に、姉さん被りの手縫いでその顔は見えない。それでも足腰はしっかりとして、綿入りの梨地かすり柄のモンペを穿いたその姿で、動き始めた車内を何かを探すように歩いていると思ったら、目の前でおもむろに篭を下ろす。

 そうして僕たちと向かい合うその席に腰を落ち着けると、顔を上げて、にんまりと笑って見せた。

 篭の中には、桜色の風呂敷に包まれたひと抱えするくらいの物が入っている。

 お土産だろうか。

 誰かにあげるものなのか、誰かから貰ったものなのか。


「お前さんにゃ、ヤラナイよ」

 

 突然、老婆が皺だらけの顔を歪ませて、大きく開けた歯の無い赤黒い口の中を見せながら「ダメダヨ。ヤラナイったら!」とその足元に唾を飛ばし……。


 篭の中に向かって怒鳴り声をあげた――。

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