鶯と枇杷 3




 「なるほど、不思議な話ですね?」


 わあ、びっくり。

 普通に不思議な話だったよ、なんて言って悲壮感の漂うこの場を茶化す度胸もない僕は、至極真面目な顔でもって「そうだね」と言った。……言ってみた。

 軽く無視されているようなのは、気のせいだと思いたいが、それは僕の願望だろうか。


海都かいとくんは、そのはじめの記憶で他に覚えていることはありますか?」


「……枇杷ビワ? って言うの? オレンジ色の実がなるヤツ。その枇杷の木が庭にあった……と思う。……庭、かな? よく分かんない」


 頭を抱えるようにした海都は、苦しそうに言った。


「今の家族には、こんなこと言えないんだ。どうやっても、悲しませちゃうんじゃないかとか思うし、頭が変になったと思われるのも嫌だ。……分かってくれる?」


 分かりますよ。


 糸がそう言ったのが、どこか遠くから聞こえた。ちょうどその時、糸の声を掻き消すように窓の外を賑やかな話し声の一団が通り過ぎたからだ。そのせいもあって部屋は急に、静かになってしまったように感じる。

 


「……ところで北村さんはオニイサンなの? オジサンなの?」

 糸に勧められ、レモンソーダ水をストローで吸い上げて気を取り直した海都が、そのストローでもってグラスの中を掻き回しながら、僕を見て言った。


「え? ……お、お兄さんでしょう?」

 小学生から見れば大人の歳なんて分かりにくいのかもしれないけれど、この歳でオジサンと言われるのは、さすがに辛いところでありマス。


「ふーん。あんま似てないんだね。例えるなら白猫と黒猫、みたいな、さ」


 アレ? そっち?

 まさか糸と兄妹きょうだいだと思われているとは、考えてもいなかったので少し驚いた。それに、その例えもなんだか曖昧すぎて微妙である。

  

「お兄さんって、いくつなの?」

 ストローを歯で咥えてぶらぶらと動かす海都は、糸に向かって尋ねた。

 何を遠慮したのか、目の前の僕に直接聞くのを躊躇うその訳は、何だろう。この短い時間に、海都からは遠慮のカケラも、そんな素振りも見えなかったことを思えば、それこそ今更のような気がしないでもない。


「さあ? 分かりません。いくつですか?」

「お兄さんなのに知らないの?」

 眉を顰めた海都と、首を傾げた糸が揃って僕を振り返り、じっと見るその視線目ヂカラに思わず逃げ腰になるが……ちょっとキミ、兄妹を否定しないの? ねぇボク、僕の歳は、そんなに気になるものなのかね?

 答えを待つ無言の二人に負け、渋々ながら口を開いた。

 

「……今年、二十六歳に、ナリマス」

「なんか、老けてんね」

 う、うるさい。そんなことないから。


「老成している、って言うんですよ?」

 間違いなくそれは、良い意味でだよね?


 言いたい放題の彼らに、僕は心の中でツッコミを入れながら小さな溜め息を吐く。

 まったく。これだから若い子は。

 ……ん?


「だけどさ、オレ、ちゃんと話を聞いて貰えて少し嬉しかった」

 ストローを振り回しながら、照れたように笑う海都の、まだすべすべの左頬に僕は笑窪を見つける。


「うん。まぁ……でも海都くんの期待どおりにいくとは、限らないかもしれないよ?」それは分かっているよね?

 まだ小さな子供に、酷なことを言っているかもしれない。だが、子供だって当たり前のひとりの人間である。任せとけ、なんて口先だけの言葉で、誤魔化すようなことはしたくなかった。

 

「……分かってる。でも、希望を持つくらいは良いでしょう?」

「幸せな結末とは、ならないかも」

「それも分かってる……と思う。何しろ十歳までの記憶しかないんだし」

 まあ、それもあるけれど。それだけじゃないんだよ、と言うことが出来ない。

 誰かに話を聞いて貰えた海都は、ひどく満足気な様子で飲み物を吸い上げている。


「じゃあ、何でも良いから他に、手掛かりになりそうなものはあるかい?」


 僕の問いかけに、だらんと口元にストローをぶら下げた海都は、眉根に皺を寄せ両腕を組み目を瞑る。

「ようちゃん……そのお母さんからは、オレ『ようちゃん』って呼ばれてた」


「ランドセルを背負っていたんだよね? テレビの画面に映る文字も、読めていた。住所や、電話番号、学校の名前とか、それらの一部分でも良い。何か少しでも覚えていたら教えて欲しいんだ」


「そんなの……そんなの分かってたらとっくに言ってるし、オレ、もっと自分でも調べられたよ! ……分かんない! 分かんないんだって言ってるだろ!?」

 突然、激情に任せて立ち上がった海都は、膝をテーブルに打ち、レモンソーダ水の入ったグラスを横倒しにする。テーブルの上に派手な音と共に広がるソーダ水は波打ち際に寄せる潮水似て、滑るように躍り出た氷は遠くまで転がって行ってしまった。

 それを見下ろす海都の目の奥に、どこか怯えた表情が覗くのは僕の見間違えだろうか。

 

「……後からまた、思い出すこともあるかもしれませんね?」

 糸が鞄から取り出したタオルで、素早くテーブルの上を拭きながら続けて「海都くんは、濡れませんでしたか?」と尋ねるのを僕は、ぼんやりと聞いていた。

 こくりと頷く海都の唇には、ストローが張り付いたままだ。


「……ごめん……なさ、い」


「良いんだよ。僕が、悪かった」

「大丈夫ですよ」


 思い出せない記憶の中には、幸せなものばかりとは限らない。閉じ込めてある記憶の中には、思い出したくもないことだって、あるだろう。

 海都から覗き見える怯えは、やがてその姿を現すことと、なるのだろうか。

 俯き立ったまま、海都は小さな声で言う。


「それに……これは言わなかったけど、このもうひとつの記憶。……なんでか分かんないけど、白黒の世界なんだ……」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る