瀬尾 三葉

第1話

  丘


 彼が鳴らすのは終わりの鐘である。

 小さな町の、小さな墓地にただ一人で彼を訪ねてくる人を待っている。人々はみな、彼に鐘を鳴らしてもらうために彼を訪ねるのだ。母が、父が、伯父が、妹が、時には飼っていた犬が、その生涯に静かに幕を下ろしたとき、彼の鐘は永遠の別れを告げる合図となる。それは終わりであり、また始まりでもある。故人が激動の人生に終止符を打ち、誰にも邪魔されることのない安らかな眠りにつく合図。だから人々は彼の音を聞くと、誰もが涙と共に微笑を頬にたたえている。そうして悲しみは、風に乗って空の彼方へ薄らいでいく。

 もう何人の旅立ちを告げたかわからない。

 彼は、今日も鐘を鳴らす。

 あたたかな光が降り注ぐなだらかな丘のてっぺんに、彼は腰かけてぼんやりと墓を眺めていた。眠気を誘う春の風が、彼を撫でた。

 ふと、丘の下から小さな人影が近づいてくるのが見えた。

「おーい」

 人影は、彼が自身に気が付いたのがわかると嬉しそうに手を振った。

 さあっと吹いた風に思わず閉じた瞼を開けると、目の前に一人の少年が立っていた。

 まるで、風に運ばれてきたかのようだった。

「こんにちは」

 少年は無邪気に笑った。

「こんにちは」

 彼が同じ言葉を返すと、少年はにっこり笑った。

「おじいさん、何してるの」

「何もしてないさ」

「ふうん」

「きみは?」

「ぼく?」

 少年は少し考えてから、

「わからない」

と言った。

「そう」

 少年は丘をぐるっと見回して、感心したように

「すごいねえ。このお墓の数」

と言った。

「これ全部おじいさんの?」

「おれの?」

「おじいさんがつくったの?」

「いや、違う」

「ちがうの」

「ああ」

 少し首をかしげて、困ったような顔で少年が問う。

「じゃあだれがつくったの?」

 彼は考えた。

 誰がつくったの、か…。

「誰が作ったと思う?」

 その答えはずるい、とでも言うように、少年は口をとがらせた。それから頭を片手で抑えて、うーんとうなった。

「あ、わかった!」

 とん、と両手を合わせて少年が目を輝かせた。

「きっと、みんなでつくったんだね!」

「みんな?」

「うん。家族とか、ともだちとか」

「そう思うか」

「そう思うよ」

 彼の言葉を繰り返して、にっと笑った。

 そして少年は、彼の隣にすっと腰を下ろした。

「ぼくね、もうすぐいもうとができるんだよ」

 楽しみで仕方がないという風に声をうわずらせて、少年が喋る。

「それはいいな」

「でしょう?ぼくおにいさんになるんだよ。そしたらね、いろんなこといっしょにしたいな」

「ああ」

 少年の言葉は未来への希望にあふれ、目は光を帯びている。

 まだ、こんなにも幼い。

 彼はすっと目を細めて、話し続ける少年を見た。

「おじいさんは、いもうといる?」

 少年の興味が彼へとうつった。

「いないよ」

「じゃあだれがいるの?ひとり?」

「いるじゃないか」

 えっ、と少年の目が丸くなった。

「どこに?」

 彼の目は濡れたように柔らかな光を放って少年をとらえた。

「ここに、たくさん」

「ここに…」

 少年の髪が風になびいて揺れた。

「おれはな、ずっとみんなと一緒にいるんだ」

 彼はあたり一面に広がる白い魂に語るように言った。

「ずっとずっとここにいるんだ。忘れたりなんかしないさ。おれが鐘を鳴らすのは、別れのためなんかじゃない。みんなを一人にしないためなんだよ。誰にも覚えてられなくったて、おれが覚えているさ。だから」

 彼は口をつぐんで少年を見た。

 少年は泣いていた。

「安心して行っておいで。さみしくなったらここに来ればいいさ」

 少年の涙を、風がさらった。

「ほんとに?」

「ああ」

「ほんとにぼくのこと、ひとりにしない?」

「しないよ」

「やくそくして…」

「もちろん」

「ぼくのいもうと、ぼくのかわりにちゃんと見てね」

「わかった」

「それからね」

「なんだい」

「ありがとう…」

 消えてしまいそうなほど儚い笑顔だった。

 そして少年は風に乗った。

 陽の光が、彼を包んで離さなかった。

 しばらくして、彼は丘を降りた。

 教会の前には、若い男女が立っていた。女性のお腹は膨らんでいた。

「鐘を、鳴らしてもらえませんか」

 男性が彼に告げると、女性が顔を覆って泣き始めた。

「いいですとも」

 肩を抱かれたまま、女性が必死に言葉をつなげる。

「ありがとうございます。まだ…小さいのに…体が弱くて…」

「そうだったんですか」

「とてもいい子だったんですよ。こんど生まれてくる妹に会うのを、とても楽しみにしていて…」

 そこまで言ってから、女性は腹をさすりながらぼろぼろ涙をこぼした。男性も、つられるようにして鼻をすすって下唇をかんだ。

「魂を、送りましょう」

 彼は空を見つめて言った。

「悲しみもすべて越え、永遠の安らかさの中で眠りにつく、その地まで」

 丘のてっぺんには、まだ光が差していた。

「いつまでも、忘れないでいてあげてくださいね」

「もちろんですとも」

 力強い返答に、彼は安堵した。

 きみはひとりなんかじゃないさ。

「ぜひ、妹を見せにいらしてください」

「ええ、いいですよ」

 彼が鳴らすのは終わりの鐘である。しかしそれは、始まりでもある。別れを越えたその先の、新たなる出会い。

 いつまでも彼は鐘を鳴らし続ける。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

瀬尾 三葉 @seosanpa

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ