4. 賭け
アリシアはリュシイがいる部屋の前に立つと、息を整えるため、一つ大きく深呼吸した。
手に持った衣装が少し乱れて畳まれていたのが目に入ったので、それを直す。
大丈夫よ。
自分自身にそう言い聞かせる。
いつものように笑えるはず。
大丈夫。
アリシアは覚悟を決めると、扉をそっと開けた。室内を見渡せば、かの客人は窓際に立って外を眺めていた。
「よろしくて?」
「あ、はい」
リュシイはアリシアの声に気付くと、振り向いて弱々しく微笑んだ。
本当に雨が降ったわね。
そう言いたい衝動が彼女を訪れたが、それをぐっとこらえると言った。
「そろそろ夕食の準備をさせていただきたいのだけど、運んでもよろしくて?」
「ええ、申し訳ありません。いつでもそちらの都合のよろしいときにお願い致します」
「それから、これ」
「え?」
アリシアは腕の中に畳まれていた、ドレスを差し出して言った。
「最初に着ていらしたものは、落馬の際に汚れたり、破れたりしていたみたいなの。あまり良いものではないけれど、どうぞこれを着ていらして。いつまでも寝衣のままではいけないでしょう」
リュシイは差し出された衣装を手に取り、まじまじと見つめていた。
「でも、これ……」
「なに?」
「こんな高価なものを……」
確かに、リュシイが城に運ばれてきたときに着ていたものは、とてもみすぼらしいものだったと聞く。最初に濡れた衣服を脱がせた侍女は、惜しげもなくそれを捨てたということだった。
けれど、彼女に手渡したものは決して高価な部類に入るものではない。現に、アリシアが今着ているドレスで、彼女に手渡したものを三着は買える。
「城からの支給だから、遠慮することはないわ」
リュシイは、そっとドレスに手を当てていた。縫い込まれた刺繍を、指先で楽しんでいるようだった。
「ありがとうございます。何から何までお世話になってしまって……」
彼女はそう言って、深く頭を下げた。
「いいのよ、気を使うことはないわ」
こうして改めて見ても、とても悪い人には見えない。
なのになぜ彼女はあんな予言めいたことを言うのだろう? いったい何が目的なのだろう?
そんなことを考えたが、極力顔に出ないよう笑顔を作ると、アリシアはじゃあ、と言って扉を閉めようとした。
「あの」
しかしそれをリュシイの声が遮る。
「申し訳ないのですが、私、エグリーズさまにお別れのご挨拶をしたいのですが」
「……お別れ?」
「はい」
村に帰るつもりなのだろうかと思った。そう訊くと、彼女は首を横に振った。
「いえ、エグリーズさまが今日にもご帰国されると思うのですが」
「帰国?」
アリシアは何も聞かされてはいなかった。なぜそんなことを知っているのだろう。この部屋から一歩も出ていないはずなのに。
いや。もしかしたら誰かおせっかいな侍女が彼女に知らせたのかもしれない。彼女がエグリーズの恩人であることは周知の事実だ。
「わかりました。ではエグリーズさまにお伝えしておきますね」
そう言うと、リュシイは深く一礼してきたのだった。
◇
アリシアが王室に行くと、エグリーズはレディオスと歓談しながら寛いでいた。
リュシイがお別れの挨拶を望んでいると伝えると、アリシアに返ってきたのは、
「え? 帰国?」
そんな腑抜けた返事だった。
「予定はないが」
「え、だって……」
確かにリュシイはそう言ったはずだった。
なにか思い違いでもしたのかと戸惑っていると、レディオスが眉をひそめて低い声で言った。
「誰から聞いた?」
「あの」
「リュシイ殿か?」
エグリーズが能天気な声で代わりに言ってくれたので、アリシアはその言葉にうなずいた。
「そうか」
エグリーズは、そう事もなげに言うと、一つ大きく伸びをした。
「長居しすぎたか。そろそろ迎えが来るのではないかとは思っていたが」
言いながら、腰を浮かせる。
「ちょっと待て」
レディオスが慌ててそれを制するように言った。
「おまえに迎えが来たと、誰か伝えたのか?」
「いや? 私は聞いていないが」
「だったら」
「しかし姫がそう言ったのだろう? ではじきに迎えが来るはずだ」
レディオスはその言葉を聞くと深くため息をついて、どっとソファに埋もれた。
「馬鹿なことを」
「馬鹿? それは聞き捨てならないな。いくら旧知の間柄とはいえ」
心底怒っている訳ではないようだが、多少ふてくされた様子でそう言う。
アリシアはどうしていいかわからず、その場で立ち尽くしたまま、二人の顔をきょろきょろと見比べることしかできなかった。
「なにが予言だ。迎えなど、いつかは来る。つじつま合わせのくだらない戯言だ」
「あのう」
アリシアはおずおずと口を挟んだ。
「なんだ?」
眉根を寄せたままレディオスが低い声でそう言うので、アリシアは少し身を引いた。
「今日にも、と仰っていましたけど」
「ではもう迎えが来なければならないな。あと数刻で今日は終わる。まだ迎えは来ていない。彼女の予言が外れたということかな」
「まだわからない」
まるで子ども同士の喧嘩だ。
エグリーズは立ち上がり、腰に手を当てて言い放つ。
「では、賭けをしようじゃないか」
「賭け?」
エグリーズはゆっくりとうなずいた。自信満々、といった感じで口元に笑みを浮かべる。
「もし今日中に迎えが来たら、私の勝ち。来なければおまえの勝ちだ。簡単だろう?」
「何を賭ける?」
「そうだな……」
エグリーズは腕を組んでしばらく視線を彷徨わせたあと、うんうん、と何度もうなずいた。
「なんだ、決まったか」
「もし私が勝ったら、リュシイ殿の願いを聞いて欲しい。彼女は謁見を望んでいるのだろう? 姫の望みは私の望みだ」
その言葉には特には応えず、レディオスはため息まじりに言った。
「で、私が勝ったら」
「明日のダンスの授業を、私が代わりに受けて差し上げよう」
「のった」
「えっ!」
エグリーズの申し出に即答したレディオスに向けて、アリシアが慌てて声を掛ける。
「そんな、まずいですよ。そんなことをジャンティさまのお許しもなく決めてしまわれては」
「どうせ私が勝つんだ。構うまい。ダンスのほうは、母君になにか聞かれても知らぬ存ぜぬで通してくれ」
「そんな」
この部屋の中でおろおろしているのはアリシア一人だった。残る二人は自分の勝利を信じて悠然と構えている。
そのときだ。部屋の扉を誰かがノックした。
「どうぞ」
レディオスが心持ち明るい声でそう答えると、扉がゆっくりと開き、一人の侍女が顔を覗かせた。
「お客さまですが、お通ししてもよろしいでしょうか」
「客? 誰だ」
「クラッセ王国のオラール外務卿でございます」
その言葉に王室の中が凍りついた。その様子を見て、侍女が身を引く。
「あの、あとにしていただいたほうがよろしいでしょうか?」
三人が顔を見合わせる。レディオスは観念したように言った。
「……いや、通してくれ」
「かしこまりました」
侍女が頭を下げ、扉を閉める。どこかに控えている大臣とやらを呼びに向かったのだろう。
「勝ったな」
嬉々とした声が静寂を破る。
「アリシア、ちゃんと陛下を見張っていてくれよ。私が帰国しても約束を違えないように」
「はあ……」
「まだわからない」
レディオスが食い下がる。
「だいたい迎えに来るとしたら、いつも従者じゃないか。オラール殿がわざわざ出向かれることなどないだろう。他の用件かもしれない」
「さあ、どうかな」
エグリーズのほうは楽しくてたまらない、といった風情だ。一方レディオスのほうは、多少気弱な感じの声を出している。
再び、扉をノックする音がした。
「アリシア、悪いがそなたも控えていてくれ。証人だ」
レディオスの言葉にアリシアは素直にうなずいた。自分自身もこの結末を見てみたい、という好奇心もあった。
いや、それは好奇心と言っていいものだろうか。
もしも……予言が当たってしまったら。
これ以上の奇跡を目の当たりにするのは、恐怖さえ感じられることではないだろうか。
「入ってくれ」
レディオスの言葉に反応して、侍女が扉を開く。そのあとから入ってきたのは、間違いなくクラッセの外務卿だった。
外務卿はソファに腰掛けるエグリーズをちらりと見たあと、レディオスに仰々しく頭を下げた。
「国王陛下におかれましてはご機嫌麗しくと存じ上げます。此度は我が国の王子が長の滞在を致しまして申し訳ありませぬ。何とお礼を申し上げていいものか」
「いや、堅苦しい挨拶は抜きにしてくれ」
いいながら、向かいのソファを指す。
それに従って外務卿はエグリーズの隣に座った。そのときにちらりと、エグリーズを意味ありげな視線で眺めた。
「して、いったいどのようなご用件で参られたのかな?」
悠然と構えているようには見えるが、アリシアには彼の心の中が見えるようだった。
「いやいや、我が国の第四王子は、どうも王子としての自覚に欠ける方でしてな。こうも度々隣国にお邪魔してはご迷惑になるというもの。即刻連れ戻せと我が国王陛下の仰せでして」
「陛下のお心遣いには感謝する。しかし、そんな遠慮は無用だ。私とエグリーズは旧友であるのだから」
「ご寛大なお言葉、痛み入ります」
まどろっこしい遣り取りが続く。
その間、レディオスの顔に張り付いた笑みは崩されることはなかったが、かたくなに譲ろうとしない。
「どうだろう。せっかく大臣殿自らいらしてくださったのだから、二、三日滞在していかれては」
「それは有り難い申し出ではございますが、我が国王陛下が即刻、と申しておりますから。いや、残念です」
「なにやら、ずいぶん急いでおられますね?」
極上の笑顔でそう問われると、大臣は隣に座るエグリーズに視線をやってから、正面に向き直った。
エグリーズはつまらなそうに頭の後ろで手を組んでゆったりと座っている。
「お恥ずかしいことではあります。さきほども申しましたが、エグリーズさまは王子としての自覚に欠けるお方。こう度々城を抜け出されては、受けねばならぬ授業も滞ってしまいます。来訪された方々の接待などもさせたいのに、任せるものも任せられません。いや、身内の欲目と笑っていただいても構いませんが、エグリーズさまは要領の良い方ですから、それでも人並み以上にはこなしてしまわれますが、それでは王子として立つ瀬がないというもの。我が国王陛下もそれを心配しているのでございます」
そう言われては、これ以上無理を言うことはできなかったのだろう。かえって不審に思われるだけだ。
「そういうことでしたら、仕方ありません」
「陛下にはいつもお世話を掛けてしまって申し訳なく思っております。何ぶん、私の身一つでこちらに来させていただきましたので、手土産一つございません。後日改めてご挨拶をと我が国王陛下が申しております」
「いや、そんな気遣いは」
「いや、それではこちらの気が」
上の空のはずのレディオスはこの言葉の遣り取りも何も考えていないに違いない。ただ形式上のことであるから口から言葉が滑り落ちているだけだろう。
レディオスが、ちらりとエグリーズのほうを盗み見た。対するエグリーズは口元に微笑を浮かべている。レディオスが、舌打ちしたくなるのをぐっとこらえているのがわかった。
「では、王子の用意が済み次第、帰国させていただきます。お世話になりました」
「あ……っと」
エグリーズがふいに声を上げる。
「挨拶をしていきたい女性がいるのだが」
「女性?」
大臣が眉根を寄せる。エグリーズは構わず言った。
「以前、私の命を救ってくれた少女がいる、と言ったと思う。かの女性が今、城内にいるんだ」
「……ああ! 聞き及んでおりますが……。え? ここにいるのですか?」
「ああ、まあ、いろいろあって」
「……いろいろ……ですか」
「なんだ?」
「いえ、別に……」
大臣は気まずげに一つ咳払いをすると言った。
「では私もご挨拶を。よろしいですかな?」
後半はレディオスのほうに向かって首を傾げた。
レディオスは無理しているのか、落ち着いた様子でアリシアに言った。
「お二人を案内してくれ」
「かしこまりました」
アリシアはそういって頭を下げると、二人の前に立ち、言った。
「ではご案内致します。どうぞこちらに」
吹き出してしまいそうな自分を必死で隠して、二人を連れて退室する。
二人を案内し終わって再び部屋に戻ってくると、レディオスは苦々しげな表情をして、ソファに座ったままだった。
アリシアはため息を一つついて、言った。
「陛下、私が言うのもなんなのですが」
「……なんだ」
憮然とした表情を浮かべたまま、振り向きもしない。
「もう少し、大人になられたほうがよろしいですよ」
大きなお世話だ、とレディオスの顔には書いてあった。
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