2. 悪友
「陛下、それにエグリーズさま、よろしいでしょうか?」
二人は王室でとりとめもない話をしていたが、耳慣れた声が会話を途切れさせた。
ジャンティが侍女に導かれて入室してくる。
「かの客人のことですが」
「ああ、あの少女か。リュシイと言ったか」
「そうです。実は」
言いながら、エグリーズの横に腰掛ける。
「あの方は、やはりエグリーズさまが仰ったように本当に身寄りもないようです。できれば良くなるまでここでお世話して差し上げたいのですが」
「そうだな」
「落馬による怪我だけではありません。おそらく、ひどい疲労と、栄養失調」
「栄養失調?」
レディオスは思わずジャンティの言葉をおうむ返しにする。彼にとって、それは遠い世界の言葉のように思えた。
「貧しい暮らしであることは予想できます。しかし、村にいればここまでにはならなかったでしょう。かの客人は、なにか目的があって王都に来られたようです。おそらく、陛下に謁見を求めるために」
「謁見……私に?」
その言葉に、初めて少女を見たときのことを思い出した。『陛下』と、言った。確かにそう言ったのだ。自分を見て。
「なぜ私の顔を見知っているのだろう?」
「さあ、そこまでは……」
ジャンティがそう首を捻ると、エグリーズは声をあげた。
「夢で見たのだろう」
その言葉に二人は振り向く。
「また、そのようなことを……」
「いや、そうだろう。他に何がある? 村におまえの肖像画が飾ってある家などなかった。そもそも、セオ村の存在を王城は知っていたのか?」
レディオスは一瞬言葉に詰まったが、ジャンティがすかさず答える。
「知っておりましたとも。辺境にある村ではありますが、我が国王陛下は国のすべてを把握しておられます」
これまた芝居掛かったように大袈裟に言う。エグリーズは「ふうん」と気のない返事を返しただけだった。
それからジャンティは、エグリーズのほうに向けていた身体を今度はレディオスのほうに向け直すと、言った。
「謁見云々はともかく、かの客人の身体が良くなるまでは王城で面倒はみましょう。世話係にはアリシアを当てております。ご心配なきよう」
「……ああ、あの娘か」
レディオスの声の調子が少し下がったのをジャンティが聞き逃すわけもなく、眉をひそめて訊いてきた。
「アリシアになにか不都合が?」
「いや、なにも。彼女ならば安心だ」
慌てて手を振ってそう答える。それをどう受け取ったかは知らないが、ジャンティは不承不承うなずいた。
それから、一瞬の静寂。嫌な予感が胸を通り過ぎた。
「陛下、それはいいのですが」
短く低い声音で言って、ジャンティはレディオスを睨みつける。来た。
「国王たるものが供もつけずに勝手に王城を抜け出すとは、自覚の足りない証拠です。そもそも陛下にはお世継ぎがいらっしゃらない。なにかあったらいかがなさるおつもりですか。国の中から争いを起こすつもりですか。いいですか、王たる者は自分の勝手に動くことなど許されるものではないのです。陛下のお父上などは……」
なにも言わずにいるが、侍女たちも控えている。説教される姿を見られるのは、もちろん、いい気分ではない。どうせならついでに、王者の威厳というものも考えて欲しい、と心の中でごちる。
ふいに、エグリーズが会話に割り込んできた。
「ジャンティ殿。どうかその辺にしていただけないだろうか。私が無理に陛下をお誘い致しました故。陛下を付き合わせた上、まさか雨に濡らしてしまうとは……いや、面目ない」
そう言って頭を下げる。
しかし、この男が真実、心の底からの謝意を述べていると感じるのは、この場には誰一人としていないだろう。
なにせ彼は今回エイゼン城に入城する際、開口一番『退屈だったから遊びに来た』と言い放ったのだ。その言葉を聞いたときには、レディオスもジャンティも頭を抱えたものだ。
「エグリーズさま、どうぞお顔をお上げになってください。出掛けるときには晴天でしたから、誰であろうと雨が降り出すことなど予測できませんでした」
ジャンティが慌てて弁解するのを聞くと、エグリーズは顔を上げ、にっこりと微笑んだ。
「そう言ってもらえるとありがたい」
レディオスも、もちろんジャンティも、エグリーズが皮肉からレディオスを遠ざけるために会話に割り込んだのはわかっていた。
わかってはいたが、反論するべきところでもないのだろう。
「まあ確かに、ここ最近、働かせすぎましたかな。今回のところは、たまの息抜きということで納得しておきましょう」
結局、そのまま席を立つ。
ぱたん、と扉が閉まると同時にレディオスは口を開く。
「我が悪友殿は、本当によく気の付く御仁で助かるな」
苦笑しながらレディオスがそう言うと、エグリーズはにやりと笑う。
「なんのなんの」
悪友、という言葉がここまでぴったりくる関係もあるまい。
以前ジャンティが彼をこう評していた事を思い出す。
「あの御方だけは、どうにも憎めませんな」
レディオスは、その言葉に激しく同意したものだ。
「ともかく、助かった。やれやれ、だ」
そうしてほっと一息ついた。
「陛下!」
そのときだ。いきなり王室の扉がバタンという大きな音をたてて内側に開く。何事かと部屋にいた者すべてがそちらを振り返った。
多少年を重ねてはいるが、背筋がピンと伸びていて姿勢が良いせいか、若々しさを感じさせる女性が憤怒の形相でそこに立っていた。ダンス教師のアイルだった。
しかも、先ほど退室していったばかりのジャンティの腕を掴んでいる。ジャンティは少しばかり肩をすくめた。
アイルは荒々しい足取りで二人の座っている席に近付いた。レディオスの身体が思わず少し引いた。
「ジャンティさまもお座りになって」
「いやはや、掴まってしまいました」
そうは言うが、ジャンティは愉快そうに笑って、エグリーズの隣に腰掛ける。その様子に頭を抱えたくなった。
「陛下、いったいこれはどういうことですの?」
「どういう、とは」
「私の授業をほっぽりだして、お遊びですか。いいご身分ですこと!」
その言葉を聞いたエグリーズが、悪戯好きな子供のような顔をして、ジャンティに耳打ちしていた。
「いいご身分もなにも、国の頂点に立つ王なのだが」
どうせそんなくだらないことを言っているのだろう。
ジャンティは慌てて人差し指を口元に当てる。「しっ」という声が耳に入ったのか、彼女は険しい表情のまま、今度はジャンティに向かって叫ぶように言う。
「陛下も陛下なら、ジャンティさまもジャンティさまですわ! どうしてなんとしてでも陛下を留めてくださらなかったのです。今日は私の授業があるとご存知でしたでしょう」
「もちろん、存じ上げておりましたとも」
大きく手を広げて、そう言う。彼女が次の言葉を紡ぎだすより先に、素早く口を出す。
「しかし、残念ながら賓客のお相手をしておりました。これは外交の一環と思っていただければ」
「賓客?」
眉をひそめてそう言ってから、はたとエグリーズを見る。彼のことは彼女もよく知っている。もちろん、彼の身分も。しかし彼女の態度を見るに、そのことをすっかり失念していたのだろう。
アイルは一つ、こほんと咳払いをすると、口調を整えてから言った。
「エグリーズさまはいつまででもいらっしゃるのでしょう? いつも私の授業のときを狙っては、理由をつけておさぼりになって」
レディオスが即位してから、従者や侍女、大臣から教師まで、すべての人員が再編成された。もちろんジャンティ主導でだ。
どうにも動かせない人事もあっただろうが、極力、歯に衣着せぬ物言いをするものばかりで固められた……ような気がする。
アイルがまさにその筆頭で、外交だの賓客だのという言葉はあまり通用しないのはいつものことだった。相手が誰であろうと自分の意思は決して曲げることはない。しかし私益からそう言っているのではない。あくまで国王陛下のためを思って言っているのだ。
アイルは腰に手を当てたまま、動こうとはしなかった。彼女にジャンティが声をかける。
「お怒りはごもっとも。幸か不幸か、遠出は雨のため中断されました。どうでしょう、このあといつもの倍のお時間を差し上げますから、どうぞ陛下に授業をしていただけませんか」
「ば……」
「まあ、それはありがたいこと。そんなことなら、手伝いとして弟子の一人でも連れてくればよかったわ」
倍の時間、と言われ、アイルの表情が一転して明るくなった。
反論しようとするレディオスを置いて、二人の話がどんどん進んでいく。
「ちょ、ちょっと待ってくれ」
「いいえ、陛下の言い訳は聞きません。さあ、早速参りましょう」
そう言うや否や、レディオスの手首を掴んで引っ張る。本気で振り払うこともできず、それに引かれて立ち上がった。
「ああ、そうですわ」
今度はエグリーズを振り返り、アイルは言った。
「よろしければ、ご一緒にいかがです」
その申し出にエグリーズは、急に向けられた矛先を払うように、慌てて右手を何度も振った。
「いや、私は遠慮しておこう。陛下の授業を邪魔してはならないから」
「あら、そうですか」
彼女はさして未練もないようにそう言うと、力を込めて握ったままのレディオスの手首を引っ張った。
「では参りましょう、陛下。遅れておりますから、本当は倍でも足りないくらいですのよ」
彼女は、ほほ、と優雅に笑うと「失礼」と言い置いて退室していく。
引き摺られるようにそれについて行くレディオスは最後に一度、恨みがましくジャンティとエグリーズを振り返った。が、二人は見て見ぬ振りで卓上に置かれたお茶を手に取ったりしていた。侍女たちが呆気にとられて、退室していく二人を見送っている。
「やはり逃げられなかった……か」
扉が目の前で閉まる直前に、エグリーズがぼそりとつぶやいたのが聞こえた。
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