111話 名前を書く1枚の紙




 こんなに大勢の署名を極秘に集めるなんて、それだけでも大変だったはず。


 しかも珠実園で私のいる時間には出来ないだろうから、学校に行っている間に預けてあったのだろうけど、あの先生たちを納得させる高いハードルを乗り越えてのことだ。


「見つかったり悟られないように、これだけ集めるのは大変だったよ。みんな是非書かせてくれと言ってくれた。花菜、おまえはもうひとりじゃない。これだけの人たちが背中を押してくれてるんだ」


「うん……」


 今にも泣き出したいくらいだよ……。


 私が抱えていた封筒を先生に渡して、代わりにペンを握った。


「花菜……。がんばれ……」


「何を頑張るのぉ?」


 緊張で震えそうになる手をこらえて、松本花菜……。名前を書いた。


 長谷川先生が「ほぅ」と小さく呟いて、私の印鑑に朱肉をつけて渡してくれる。名前の横にぐっと紅い『花菜』の印を捺した。


「実印を持ってくるって、計画バレバレだったか?」


「持ち物見れば分かりますよ。戸籍全部事項証明書なんて、他に何に使うんですかぁ」


 ここは認印でも構わないのだけど、高校に入るとき「大人になる準備だから」とお母さんが作ってくれた、印鑑登録もしてある私の実印を持ってきたからね。


「花菜、おめでと」


「まだ役所に出してないよ?」


「そっか」


 もちろん、これをどこかの役所に正式に受理してもらってはじめて夫婦と認めてもらえる。


「こんな大切なもの、どこで出すんですか?」


 千景ちゃんの問いかけに、先生は明日の行程の中に鉛筆で昼食と書き足した。


「昼食は各班自由だし。その時間ならどこにいても不思議には思われないでしょう?」


「でも、明日は日曜日ですよ? 窓口開いてないじゃないですか?」


「別にその場で戸籍の証明が必要なわけじゃありません。受理してもらうだけなら時間外の警備員室でも構わないんです」


「なるほどー!」


 千景ちゃんの方が聞き入っている。


 そうだよね。別にそこですぐ何かが必要とはならない。旅行先での入籍というのは決して珍しい話じゃない。


 私たちの場合はそれがたまたま「修学旅行中」の「長崎市役所」だというだけ……。


 あとで横浜の方に手続き完了の通知が届いたら、そこで初めて書類などの手続きを地元で始めればいい。


「これは預かっておくよ」


「はい。じゃあ、明日はお願いします」


 あまり長くいるとまた怪しむ子も出てしまうだろうから、先生の部屋にいたのは10分くらいだったかな。それでも凄く緊張した時間だった。


「花菜には、明日は記念の日になるんだね」


「なんか、どうなっちゃうのか自分でもわからないんだけど……。でも、迷惑をかけないように頑張るよ」


「そんなところに、一緒に行っていいの?」


「どうせ私たちと先生の三人だけだから、一緒に見届けてくれるかな?」


 事実、明日は私の人生の中の大きなターニングポイントになるのだろう。


 その夜の二人だけの部屋では、さっきのイベントを目の当たりにして、それまでの平静を装うブレーキが外れたように興奮している千景ちゃんの事情聴取は遅い時間まで続いたんだ。


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