一通じゃない

金子ふみよ

第1話

 ある辻に、古めかしい小さな石が立てられていました。そこにはぽつりと幽霊がおり、人や車の往来をじっと見つめていました。

 雨上がりの日。制服姿の少女が一人その黒ずんだ石の前で止まりました。しゃがみこむと、いそいそとカバンから出したコッペパンを置きました。短い時間手を合わせ、帰って行きました。幽霊は珍しいこともあるものだと思いました。それが碑だと知る人は少なくなり、こうしたお供え物をするなどは年に一度もあるかないかだったからです。

 少女は時折やって来ては、ペットボトルの水をかけたり、数本の花を手向けたり、不格好なおにぎりを置いたりしては、手を合わせて帰って行きました。

 幽霊はお礼の一つもしたくなりました。けれども幽霊がどんなに言葉を発しても、身振りをしても人間には感じ取れません。それでも幽霊は何とかしての気持ちで、少女が手を合わせると、「こちらこそ」と言いながら頭を垂れるようになりました。

 そんなことを繰り返していた時、幽霊が頭を上げると、少女の目がしっかりと見つめていました。幽霊は思いがけないことにドキリと身が跳ね上がりました。少女は小首を傾げてからすっと立ち上がると、いつも違って何度か振りむいて帰って行きました。

 少女が手を合わせ、幽霊が頭を下げる。人気のなかった碑の風景になりつつありました。

 ある日、少女は原稿用紙を置いて行きました。そこにはこんなことが書かれていました。

「私はしゃべれません。学校は好きです。クラスのみんなが楽しそうににぎやかにしているのを見るのも好きです。でも私はしゃべれません。心臓がバクバクして声が出なくなるんです。引っ越してくる前はそんなことはなかったのに。だけどこうして書くことはできます。あなたがお礼?をしてくれているのは何となくわかります。ここに来たのは話を聞いたからです。ずっと前にここで飼い主をかばって自動車にひかれた犬がいると。最初はただ通り過ぎただけでした。遠目に見ると何となくつまらなそうな、さみしそうな感じがしたんです。だから、給食で食べられなかったパンやお小遣いで買える花やジャーに残ったご飯をおにぎりにして持って来たんです。いつからだったか、手を合わせていると耳がキーンとしたり、甘いにおいがしたり、指先がピリピリ感じたりが始まりました。なんだかわからなかったけど、手を合わせている時にだけ起こるから、きっと返事をしてくれているのだと思うことにしました。違っていたら、今度手を合わせる時には何も起こらないと思います。また来ます」

 思いつくままに書き綴られた言葉に、辻の交通安全を願って見守るようになった犬の幽霊はコクコクと頷きました。

 犬の幽霊は思いました。少女はきっと楽しくしゃべれる子なのだろうと。でなければ、この文章が生き生きと書かれているはずがなかったからです。しかし、少女はしゃべることを怖がっている。それを無理強いさせてはいけないことも幽霊はわかっていました。犬の幽霊は少女に何ができるか考えてみることにしました。

 翌日、少女が碑の前に来ました。少女はコッペパンを置きながら、そこにまだある真新しい原稿用紙にキョトンとしました。それは少女が書いた手紙でした。晩には雨が降ったというのに濡れて文字が見えなくなるということもありませんし、昼の陽に焼けたところもありませんでした。

「あ、におい」

 少女が声を出しました。まだ手を合わせていないのに甘いにおいがしました。耳鳴りがして、指先がピリピリしました。

「あ、ありがとう」

 少女は手を合わせました。手紙が差し出された時のまま風にも飛ばされずに、誰にも持っていかれずにあることに不思議を思いつつ、目を開けました。瞬間、手紙が風で飛びあがっていきました。何度か瞬くと、もう見えなくなりました。ぼうっとしていた少女は

「ありがとう」

 ハキハキと言って走って行きました。

 その次の日。少女は息を切らして、碑の前に立ちました。スケッチブックを一枚めくると、こう書いてありました。

「あなたに教えてもらったように、しばらくは文字で気持ちを伝えるよ」

 幽霊が見終わるのを待ったように、

「です」

 と小さな声を出してから、スケッチブックを閉じました。

「大丈夫。その気持ちがあればいつかきっと」

 犬の幽霊の声は少女には聞こえませんでしたが、ちょうど吹いた風が少女にはそんな言葉に聞こえ、にっこりと笑ったのでした。

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一通じゃない 金子ふみよ @fmy-knk_03_21

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