前編
「……お忘れ物のないようにお気をつけください。」
電車から一人の男が降りる。ごつい革ジャケットを着ているが胸元は開いておりこの寒空では防寒力に不安が残る出で立ちだ。
しかし男はそんな事を意に介さず真っ直ぐに改札へと進んでいく。サングラスの奥では鋭い眼光が先程まで自身が乗っていた電車を見送る。
「ふむ、寒い地方では自分でボタンを押してドアを開けねばならんのだな。おかげで一度通り過ぎてしまった。」
この時点で既に三十分は遅刻しているのだが男に焦る様子はない。我が道を行く、男にはその才能があった。……いや、それしかなかった。
改札を抜けた男が何かに気付く。目的とするモノを見つけたらしい。おもむろに飲料自販機の前に立つ眼鏡の青年に話しかける。
「失礼、こちらの支部の方だな?B.I.N.D.S.から派遣された只野だ。こちらで正義が足りぬと聞いてやってきた。よろしく頼む。」
トータル三十八分にも及ぶ遅刻を一切詫びることなく只野が微妙にずれた挨拶をする。その顔の各所には力が入り、本人はキメ顔を作っているつもりであることが察せられる。
「お待ちしておりました。僕はこのT市支部で渉外、購買などを担当している中立です。只野さんがこちらにおられる間はまぁ基本的に同行させて頂く事になるかなぁと思いますので、えっと、よろしくお願いします。」
中立と名乗った青年は遅刻を詰るでもなく用件を伝える。しかしなんとも頼りない物言いである。腰も引けた感じで目線も低い。只野が(これでは正義の執行には力不足だな)と思ったのも無理はない。なおそんな事を考えるのはUGN広しと言えども他にはいない。
「ところで君一人かね?話では支部長とも顔を合わせる事になっていたように思うが。」
只野は目の前の青年に力を期待するのは諦めて話の本筋を進める。弱いことは正義には満たないが、悪というわけではない。
「ああーえーっと……ほ、ほら予定の時間より遅かったので支部長は帰っちゃったんですよ。時間に厳しい方なので!」
目線を左右に漂わせた後、時計を見つけて閃いたとばかりに理由を告げる。中立が何かを誤魔化そうとしているのは明らかだったが只野は小さく頷いて話を続ける。遅刻したのは事実なので責められないというのもあった。
「では早速支部へ案内してくれ。そこで改めて話をしよう。」
再び中立の目が泳ぎだす。只野に真っ直ぐその目を見つめられるが視線を返せない。コートのポケットの中では車のキーをカチャカチャいわせている。
「いやぁ、この時間はちょっと支部にいるか分かんないので……ま、まずはホテルに案内しますよ。」
方針が決まったためかポケットからキーを取り出して駐車場へと歩いていく。おかしな男だ、と思いながら只野が後ろを歩いていくと、中立はさっと車まで走ってドアを開ける。
「ささ、どうぞどうぞ。」
開けられたドアから車に乗り込んだ只野は(なんだかやりづらいところに来てしまったぞ)と思いながらシートに体を預ける事となった。
「そもそも何故このT市に来ていただいたかというとですね……」
車を走らせながら中立が喋りだす。その運転は教習所のようで、制限速度はきっちり守り、歩行者には道を譲る、誰も居ない横断歩道でも一時停止するほどであった。そのため只野は安心して運転を任せることができた。
「分かっている。正義が必要なのだろう。」
皆まで言わずとも分かるとでも言いたげに片手を上げるが、それに気付いてか気付かずか中立は話を続ける。
「ここT市は元々武闘派のFHセルの影響力が強く、我々UGNの行動がかなり制限されていました。さらに最近セルの内部抗争があり組織が二つに分裂したようで、たびたびワーディングおよび戦闘行為が起きています。」
そもそも支部が置かれている状況が難しいということはわかった。しかしそれだけでわざわざ対BiSUDs集団であるB.I.N.D.S.に声をかける理由にはならない。
「それだけでも大変なんですが、さらに付近で獣にかじられたようなボロボロの状態の死体がみつかりまして。そこで高い戦闘能力を持ち、食人オーヴァードBiSUDsについても詳しいB.I.N.D.S.に救援を求めたわけです。……って何してるんですか!?」
この辺りの話は救援を要請するための報告書にも書いた内容ではあるため聞き流してもらう程度でもよかったのだが、気付けば只野はドアを開けて車外に出ようとしていた。ちなみに現在の車の時速は40キロメートルである。制限速度だけは必ず守るようにと謎の厳命が下っているため中立はしっかりそれを守っていた。
「見逃せぬ悪があったのでな。しばし待たれよ。」
「ちょっと、ちょっと只野さん!」
中立の呼びかけもむなしく只野は車外へと颯爽と飛び降りる。
ドサッ。
着地に失敗して両膝と両手を地面についている。颯爽としていたのは飛び出しから着地までのわずかな瞬間だけだったようだ。中立も仕方がなく車を路肩に止めて外に出る。
「貴様ァ!ナンバープレートを折り曲げて見えなくした上で煽り運転とは完全なる悪!断罪!」
只野の大声が響き、軽自動車のバンパーを掴んだかと思いきや、その車体が持ち上げられていく。運転席の男は目を白黒させるばかりで全く現状が理解できていない様子だ。
さらに只野はナンバープレートを素手で引きちぎるとバリボリと喰らい始めた。常軌を逸した光景に脳が耐えらなかったのか、運転手はハンドルを握ったまま失神してしまう。
「ちょ、ちょっと、何やってるんですか!」
中立が驚愕を顔に貼り付けて駆け寄ってくる。と、同時に目撃者排除のためワーディングを展開。どうやら運転手の失神も彼のワーディングの影響のようだった。
「悪を断罪するのが私の使命だ。それはなにもオーヴァードに限った話ではない。」
中立がポカンとしたのも無理はない。普段UGNは日常を守るという名目のもとできるだけ表立って活動はしないことを原則としている。そのためレネゲイド絡みでない事件は、たとえそれが人命に関わるものであっても、ノータッチを貫くことを当然のものとして受け入れている。それを目の前の男は「煽り運転が許せん」という理由だけで曲げたのだ。それもベッキベキに。
「と、とにかくこの人は僕が記憶を操作して警察に連れてきますのでしばらく時間潰しててください」
車から手を離させ、さりげなくできるだけ人がいなさそうな方向に誘導する。その場を収めるために手と口を動かしながら、もしかしてとんでもない奴が来てしまったんじゃないか、と内心で頭を抱える中立であった。
「むう、時間ができてしまったな。」
実際には遅刻によってただでさえ減っていた時間がトラブルでさらに吹き飛んだのだが只野はこれをチャンスと捉えた。この時間を利用して付近を歩き回り、少しでも土地勘を得る事が今後役に立つであろうことに気付いたのだ。
「地図を見ただけではわからないことも多いからな。」
言っていることは正しいが、只野は既に後から中立と合流しなければならない事を忘れている。しかし彼は早くも大胆な一歩を踏み出していた。しかも裏通りへ。
「このような人通りの少ないところは悪がはびこりがちであるからな。」
自動車一台がなんとか通れるような細い道を歩く。すれ違うのは猫ばかり。首輪がないので野良猫なのだろう。辺りを見回し誰も居ないことを確認する。
「チッチッチッチ。」
距離をおいたところにしゃがみこみ、舌を鳴らして呼んでみる。しかし猫たちは一瞥しただけでその場から動かない。あくびをはじめるものもいる。
「動物にはこのあふれる正義パワーが伝わらないのが残念だな。」
猫との触れ合いを諦めて立ち上がり、歩みを再開する。しばらく行くとT字路の突き当りにぶつかり左右を見る。左は行き止まりのようで突き当りには大きな一軒家がある。どうやら誰かが庭木に水をやっているようで枝や葉の間から時折水が外に飛び出ている。
取り立ててその家に用事があるわけでもないため、踵を返し右の道を行く。すると、何歩も行かぬ内に塀の上に一匹、足元の草むらに二匹、猫が現れる。それらは皆、只野の正面から現れ、すれ違うように走っていく。
おや、と思い突き当りの家の方を振り向くと、なんと庭に水をやっていたと思しき初老の男性が、家の前に餌らしきものを撒いている。そこに近所の猫たちが集まってきているようだ。首輪をしているものは少なく、ほとんどが野良猫と思われる。
「つかぬことをお伺いするが、これらはあなたの飼い猫か?」
駆け足で老人のもとに来た只野は努めて冷静に話しかける。飼い猫にしても一人で管理しきれる数とは思えぬが、確認せずに実力を行使するほど真っ黒な悪とも言い切れない。
「いえ、皆野良猫ですがわしは猫に餌をやるのが趣味でね。人間などよりよほど愛着がある。」
悪だ。少なくとも只野の正義センサーはそう判断した。
「野良猫に餌を与え無秩序に増やすのは街に対する悪!許されぬ!」
只野の小範囲のワーディングが猫たちを次々と気絶させていく。最後の一匹が遅れて倒れ伏し、野良猫の制圧は完了する。さらにその拳が
「新手か!こんな堂々と正面から!」
そう叫んだ老人の動きが急に俊敏になり、残像を残して只野の拳を回避する。その動きの見えなさから
「貴様、
炎の出力を上げ、左手を前に出し右手を後方に下げて構えを取る只野。
「ちょっと!何やってるんですかまた!それに支部長も!」
情けない声が聞こえてきたかと思えば中立が走ってくるのが見える。
「なんだと!」
「え、じゃあ人食いの?ひええ。」
只野と支部長と呼ばれた男が顔を見合わせ互いに声を上げる。その両者を見て、中立は頭に手を当てて言うべき台詞を考えてはみたが、その口からこぼれたのは溜息だけだった。
「いやぁこれは失礼した。まさかこちらの支部長殿であったとは。」
大きな口を開けて笑う只野。その目に先程までの殺気はない。
「ここは我々の支部のセーフハウスの一つです。最近じゃ支部長が猫に餌やってるだけの家になってますが。」
すっかり前頭部が右手の定位置と化した中立が説明する。右手をこめかみを揉むモードに移行しながら本来なら説明すべき人間を覗き見る。その人物は彼の背中の後ろで縮こまっていた。
「ね、猫を食おうとしたら容赦せんぞ!」
部下の後ろに隠れて言われても全く説得力がない。そもそも猫のような動物は只野の捕食対象ではないが、その辺りのことをこの老人はよく分かっていないようだ。
そうこうしている内にワーディングが解けたのか猫たちがまた動き出す。野生のカンで危険が分かるのか一匹また一匹と去っていき、その場には三人と逃げ遅れた一匹の三毛猫だけが残された。
「仕方ないのでここで現状把握のための説明をしていきましょう。支部長も捕まったことですし。」
ジト目で支部長を睨む中立と露骨に目を逸らす支部長。どうやら駅にいなかったのも
「んーごめんねーおじさんはお仕事が入っちゃったから。ここ置いとくからみんなで食べてねー。」
当の支部長はといえば未だに猫にご飯をあげるのを諦めていないようで、唯一残っていた三毛猫の前に手に残っていた餌を置く。
「ほら、行きますよ。渋長さん。」
引きずられるように家の中に入っていく渋長を見て、頼りにならん支部長もいるのだなと永山と比較してしまう只野であつた。
「というのが今までの経緯です。」
イマイチ要領を得ない支部長に代わって内容の大半を中立が説明することとなっていた。まとめると、この支部のエージェントは三人だけで支部長、中立、そしてもう一人戦闘担当がいるがここ数日連絡が取れていない。その失踪と時を同じくしてこの街を根城にしていたFHのセルにて戦闘行為が発生。その付近から獣にかじられたような、部位の足りない一般人の死体が発見。食人衝動を持つオーヴァードの関与が疑われたためB.I.N.D.S.に調査員の派遣を頼んだという次第らしい。
「つまり、そのバイサズも含め仲間割れしたとかいう悪党どもを全て成敗し、失踪した仲間を探し出して正義を注入し直すというのが私に課せられた任務だな。」
正義フィルターによって単純化された任務を確認する只野。巨悪の話を聞かされ渋長の小さい悪のことはすっかり忘れてしまったようだ。
「そうだ。理解したならすぐさま任務にあたってくれ!」
こいつ本当にわかってるのか?という気持ちを包むオブラートを中立が探している間に、先程までもにょもにょするだけだった渋長が口をはさむ。
「この私が来たからにはすぐにこの街に正義を取り戻してみせようぞ!」
只野は颯爽と部屋を出ていく。結局オブラートが見つけられなかった中立は素直な気持ちを渋長にぶつけることとなる。
「あの人、本当にわかってるんですかね?」
恐怖が去って気の抜けた渋長は既に戸棚の猫の餌の整理に移っており、中立は今日一番のため息が漏らすほかなかった。
勢いよく家を飛び出した只野が最初に見たのは、家に入る前にも見た三毛猫だった。渋長が出てくるのを待っていたのだろうか。
「おお、にゃんこよ。お前に罪はないが餌をやることはできぬ。立ち去るのだ。」
手を振って猫を追い払おうとするが、猫は構わず只野の足元を歩き回る。
「人の社会は悪に満ちている。自然に帰るのだ。」
さらなる説得を重ねるが猫は首をかしげるだけでまるで効果はない。動物虐待などという悪事に走るわけにもいかないので無視して歩き出す。
さて、調査といえばまずは情報収集。戦闘があった場所を順に回ってなんらかの共通点や法則性を見つけ出せれば今後起こりうる戦闘に先回りできるかもしれない。最も近い現場はどこだったか、中立に確認しておくべきだった。
「
エージェントとしての只野の勘が背後の存在に警鐘を鳴らしている。背中に肉食獣のような鋭い視線を感じる。おそらくこちらが気付いた事に向こうも気付いたのだろう。獣の息遣いが止まる。瞬時に振り返りその存在を目で捉える。
「にゃーん。」
猫だった。その恥ずかしい勘違いから目を逸らして再び正面を向いた時、それは起こった。
一方その頃中立も家を出ていたが、時既に遅く只野を見失っていた。玄関前に残されていたのは餌が山盛りになったお皿だけで人も猫も見当たらない。
「あれぇー、猫ちゃん《あの子》たちもう帰っちゃったのか。」
横から出てきた渋長が悲しそうな顔でお皿を片付ける。餌を残されたのがショックだったのだろう。
「最近よく残されるなぁ。次は違う味を買ってみるか。」
どうでもいい独り言は無視。中立は只野の思考を推測、彼が最も手がかりとして重要視しそうな戦闘の痕跡を中心に探していく事とする。彼が方針を決めて動き出そうとした瞬間に、それは起こった。
その音を捉えた耳から順に皮膚を伝って全身を走り回る怖気。
「ワーディングです!支部長も準備を!」
一気に中立の顔に緊張が走る。少し遅れて渋長の顔も少しだけ真面目なものに切り替わる。
「このワーディングの気配はもしや……」
二人はほとんど同時に発生源と考えられる方向に走り出した。
只野が正面を向いた瞬間、すさまじい勢いのつむじ風が起こり、ちょうど只野と猫の間の地面を抉り取った。その風の進行方向を逆にたどるとがっしりとした体格の女が立っている。その服はあちこちに破れた跡があり、表情は明らかに怒りが大半を占めている。
ただ偶然その場に居合わせただけ、という可能性は排除していいだろう。なにより女が一歩近づくたびに濃くなるワーディングの気配がその正体を物語っていた。女は只野の間合いに入る一歩前で立ち止まり、まっすぐ正面を指差し宣言する。
「やっと見つけたわ……覚悟しなさい!」
「正義の使者として受けて立とう!」
只野が威勢よく応え、戦闘が開始される。女は腰だめに拳を構え、只野に突進してくる。……かと思いきや只野を無視してその斜め後ろへと向かっていく。その目が捉えているのは先程まで只野を尾けていた三毛猫だ。
「あんたに用はないから邪魔しないで!」
女は通り過ぎざまに只野に言い捨てると、猫に向かって拳を振り上げ、そして叩きつけるように下ろす。リーチが足りず届かないかに見えたその腕は見る間に長さと太さを増し、さらには鋭い鉤爪までもが現れる。その爪が猫の胴体を刻むのは避けられないかのように見えた。しかしその肉食獣の如き豪腕は突如として現れた砂の壁により遮られる。
「ししし。」
崩れていく砂の向こうで猫は明らかに知能を持った軽薄な笑みを浮かべ、女と只野を見比べる。只野がどう動こうか思案している間に猫の周囲の砂の一部が女と只野に飛びかかる。二人はほぼ同時に腕を上げ、襲いくる砂を振り払う。
「こんな目くらましにひっかかるとでも?」
女は今度は脚を大型肉食獣のそれに変え、すぐに追撃に移ろうとしたが、その足は微動だにしない。さらには止めに入ろうとした只野もその場から動けない。見れば振り払ったはずの砂が足下で固まり、地面に固定されている。その足下に目を移した一瞬の隙に、猫はブロック塀を向こうへと降り見えなくなってしまう。
「只野さん、大丈夫ですか!あ、犬飼さんじゃないですか!この数日何してたんですか!」
それと入れ替わるように中立が慌てた様子で走ってくる。どうやらこの猫を追い回していた女とも知り合いのようだ。よく見れば少し向こうに渋長もいる。ワーディングの気配を察知して二人でかけつけたのだろう。
「げ、支部長。今はあんたと話すことはない。」
足下の砂を振り払った女は背を向けると脱兎の如く逃げ出す。両足を獣に変換したその脚力であっという間に消え去ってしまう。
「待て、まだ貴様が正義か悪かの判別がついてない!」
只野を中心とした半径五メートルの円状に炎の壁が現れるがもう遅い。その壁は後ろから来た中立と渋長の足を止めるだけで、肝心の犬飼を閉じ込めることはできなかった。
「これでは追うのは難しいな……一旦戻って立て直そう」
渋長の判断で三人はさっき出たばかりのセーフハウスに戻り、情報を整理することにした。
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