マイレイディ

如月麻乃

第1話

 操舵室から出て、居室スペースに向かっていると、いつものことながらカチャン、カチャンと艇内の廊下に靴音が響く。やはりどうにも不愉快な音だ。――頭の中に直接響いてくるような。

 顔をしかめていると、マイレイディ・ヨキアが振り向き「ふふん」と小馬鹿にした表情を、僕にわざと見せた。僕が床に足をつけているのに反し、ヨキアはというと、金の髪をなびかせて、ふわりふわりと浮いている。いかにも無重力状態を楽しんでいるかのようだ。そして時々方向修正のため壁に手をつく。身につけているローズピンクのドレスの裾が、動きに応じてひらりひらりと波打ち、そこからのぞいたほっそりとした白い素足は、かかととつま先がほんのりピンクに染まって、若さを誇っているかのようだ。

「レノもそーんなマグネットシューズ、脱げばいいじゃない」

 歌うように囀るように、美しい(そう聞こえると世の男性はおっしゃる)声を、やはり艇内の廊下に響かせて、ヨキアは楽しげにそう僕に言う。

「いえ、マイレイディ、仕事に支障をきたしますので」

「仕事って、今のところは自動操縦だからたいした仕事なんかないじゃない」

「あなたのお守りだけでもたいした仕事ですよ」

 にやり

 顔面の括約筋を動かしてそういう表情をつくり、彼女に言ってやると、マイレイディ・ヨキアは「ぷう」と大きく頬をふくらませた。彼女の得意な表情だ。人形のように整った顔立ちをもってしてヨキアがこの表情を見せると、彼女の父親を含め、いったい何人の男がおたおたしたことだろう。

 しかし僕にはそんなもの効かない。感情というものが疑似のそれだから。

 そう、僕はアンドロイド。――そして、僕は彼女の持ち物なのである。

「かわいくなーい」

 僕が知らん顔をしているので、ヨキアは廊下の天井に手をついて、くるりと一回転してこちらを向き、舌を出してそう言った。

「可愛くなくて結構ですよ。僕は愛玩用には作られてませんのでね。そういうのがお好みなら、セクサロイドでもお買いになったら?可愛げのあることを言ったり、甘い言葉をささやくそうですよ。――注文しておきましょうか?」

「冗談!なんであたしがセクサロイドなんか買わなきゃいけないのよ!」

 ヨキアはぷんぷんと怒っている。そう、そんな態度と表情で、彼女はどれほどのわがままを思い通りにしてきたことか…。

 ピシュッ

 僕がスイッチを押して居室への扉を開けてやると、ヨキアは廊下の壁をトンと蹴って、ふわりと部屋の中へと入っていき、部屋の片隅クッションをたくさん積み重ねてあるところへ頭からつっこんだ。

 あーあ、せっかく朝から丁寧にセットした――いや、僕がさせられた――髪がくしゃくしゃだ。僕がまたまた顔をしかめていると、何よ、文句でもあるの?と言いたげな顔をする。

 いえいえ、女王様、文句なんかないですよ。髪をセットしたのだって、単にあなたの気まぐれなんですし。どうせ見る人も他にいないですからね。たった二人、いや、厳密にはヨキア一人だが――の自家用宇宙艇だ。

「だいたいこれからウィシュに会いに行くってのに、あたしにセクサロイドなんか必要だと思ってんの!?」

 はいはい、女王様、そうでございますね。

 声には出さず多少うんざりしていると、女王様は今度はお腹がすいたとの仰せだ。――どうもマイレイディは怒るとお腹がすく傾向にある。

 僕は壁のスイッチを押してメインコンピューターに接続すると、食料を食料庫から送らせた。ほどなくカコンと音がして、壁の取り出し口に金属製の筒状のものがあらわれる。それをヨキアに渡してやる。

「またこれなのぉ」

 ……まったく、不満の多いお嬢様だ。

「申し上げたはずですよ。艇内に、いや、宇宙港管理センターからは、あなたがたソーテリア人種は」

「わかってるわよ、食料はこれしか持ち出しちゃダメなんでしょ」

「わかってるなら文句を言わないでくださいね」

 ヨキアは「ふん」と鼻を鳴らして食料が入っているその筒の先の突起物に口を付けた。それを吸い取るように飲み干していく。とたんにヨキアの頬が薔薇色に染まる。エネルギーが満ちてきた証拠だろう。

「あー、まずかった」

 エネルギーを摂取できたのだから、味など二の次でいいではないか。僕はそう思うのだが、彼らソーテリア人種はそうは思わないらしい。

「やっぱ合成のものはまずいわね。…誰か一人カインを連れてくればよかった」

「それは違法ですって言ったでしょう?宇宙船や宇宙艇のような密閉された空間で、ましてやこの自家用の宇宙艇はなおさらだ、ソーテリア人種とカイン人種は一緒にしちゃいけないんですよ」

「あー、もー、うるさいっわねえ。しばらく休むから一人にしておいて!」

 ヨキアは僕にそう命じると、床を蹴って、部屋の片隅にある、一抱え以上ある大きな鳥籠に向かいふわふわ飛んでいった。鳥籠の中は疑似重力装置が働いているため、中の鳥――黄色い小鳥だが――は地上にいるときと同じように飛び回っている。

「ねー、ピー、ひどいよね、レノってば。アンドロイドであたしの持ち物のくせにあたしにお説教ばっかりするんだよ」

 わざと僕に聞かせるように、ヨキアは小鳥にそう話しかけた。

 ――元々あなたの持ち物ではなく、あなたのお父様、アルテナでも屈指の大企業のオーナー社長でいらした方の持ち物だったんですがね。僕はそう言ってやりたかった。

 しかも僕は彼に非常に信頼されていた社長秘書だった。完璧な仕事ぶりだと、いつもそう仰せだった。

 その彼が病には勝てずに亡くなった。全財産を一人娘のヨキアに残して。特に僕に「ヨキアのことはくれぐれも頼む」そう言い置いたのだ。

 ――面倒見なきゃしょうがないじゃないか。

 かくして僕は、彼の会社で仕事をしていたときの膨大なデータや、そつのない丁寧な仕事ぶり、さすがは超一級のアンドロイドだという評判を捨てて、このわがままなお嬢様のお守りになったのだ。

「ピーはあたしの味方よね。可愛いピー」

 小鳥はピーピチュと鳴いて、ヨキアに呼応した。

 僕はかぶりを振って溜息をつく。プログラミングされたものとはいえ、アンドロイドにだって感情はあるのだ。

 母星であるアルテナを出航してから、まだ三日目だ。目的地惑星セルツまであと……三十五日もかかる!

 その間、いつもより数段はひどい、このお嬢様の我が儘・不満を聞き続けろってか!?

 ――いったいどうなるんだ…。

 それがその時の僕の、紛う事なき『感情』だった。




 そもそも、惑星セルツに行きたいとヨキアが言い出したのは、一人の男のせいなのだ。 ――父親を亡くし孤独で、しかも大金持ちであるヨキアに、ウィシュという男が言葉巧みに言い寄ってきたのが発端。

 金髪碧眼。背が高く上品な物腰。ウィットに富んだ会話。まだ十七歳だった世間知らずのヨキアはたちまち彼にぽーっとなった。彼と結婚できるなら何でもするとまで言い切ったのだ。

 しかし彼との結婚は、当然といえば当然だが、ヨキアの親族が許さなかった。なぜなら彼はソーテリア人種ではなくカイン人種だからだ。確かにソーテリア人種とカイン人種が結婚している例があるにはある。だがそれが巧くいっているのは希有な例だと言わねばなるまい。ソーテリアとカイン、それぞれの根元的な役割――いや体質と言うべきか?――を考えれば。

 ソーテリアとカインは、元はと言えば同じ星系の同じ惑星の出身らしい。が、今やカインは、よく言えばソーテリアに養われている身、悪く言えば飼われている身だ。だからカイン人種には遊び人が多い。――カインというだけで働かなくても済むからだ。

 その上、誰が見ても彼は財産目当ての男だった。何かにつけてヨキアから金を引き出しにかかっているところを見れば一目瞭然だ。

 だがヨキアは周りのいうことに耳を貸さない。

 曰く、「愛し合っているなら助け合うのが当たり前じゃない!あたしは彼を助けてあげたいのよ!」

 ――やれやれ。

 とは言え、未成年であるヨキアの結婚には後見人である親族の承諾が必要だ。財産もある程度までしか自由には出来ない。

 埒があかないと見たウィシュは彼女に言った。

「君が大人に、二十一歳にまなるまでに、カインとかソーテリアとか、そんなこと関係なく、君にふさわしい男になって帰ってくるよ。その時には、君が大人になった暁にはきっと結婚しようね!どうかそれまで待っていておくれ!」…と。

 そして「まだ未開ではあるけど前途有望な惑星セルツに行って、一旗揚げてくる。ついてはその資金を援助してくれないか」…とも。

 まったく見え透いた言葉だが、ヨキアはころっと騙された。彼に大金をつぎ込んだのだ。

 彼は旅立つとき、ヨキアに「これを僕だと思って大切にしておくれ」と、一羽の小鳥をプレゼントした。それが今のこの鳥籠の中のそれだ。

「まあ、ウィシュ…、こんな高価なものを…」

 ヨキアはいたく感激していたものだ。もちろんヨキアの持っている財力からすれば、小鳥だろうがマントヒヒだろうが、安いものだ。だが一般庶民の経済感覚から言えば、およそ生き物という生き物はとてつもなく高価なのだ。金のないウィシュにしてみれば、けっこう張り込んだものだと、僕は思った。どうせセルツで一旗揚げると言ってヨキアから巻き上げた金から買ったんだろうが。それに小鳥をプレゼントするくらいは安い投資だったろう。それから先もセルツから通信をよこして、何かにつけて送金をねだったウィシュなのだから。


 ――今でウィシュが旅立ってから一年と少し。

 一年の間はヨキアも我慢していた。だが根がわがままなお嬢様だ。とうとう我慢できなくなって、「ウィシュに会いたい、会いたい、会いたいーッ!!」と言い出すのに時間はかからなかった。

「ですが、マイレイディ、惑星外へ出るにはとても制約が多いんですよ?このアルテナにいれば通る我が儘や、あなたの持っている財力から何とかなることも、どうにもならなくなるんですよ」

 僕はそう言って諫めたのだが、聞くわけがない。

 ――で、僕もお供の宇宙旅行だ。

 まったく、やれやれだ。

 しかし結局のところ僕は彼女の持ち物なのだ。――命令は聞かねばならない立場なのだ…。




 こうして制約だらけの宇宙艇内での生活が始まったわけだが、ヨキアは相変わらずだ。僕は宇宙艇の管理、運行状況の把握と修正演算、そしてこのお姫様のお守りと、目の回る忙しさなのに、ヨキアは毎日不満をぶちまけてばかりいる。

 最も大きい不満はやはり食料がまずいってことらしい。

「毎日毎日合成食料なんてうんざりよーッ」そう言って当たり散らす。

「毎日毎日、どうして同じことばかり言わせるんですか。アルテナの惑星外にはこれしか持ち出せないと」

「そこを何とかするのがレノの役目でしょっ」

「むちゃくちゃ言わないでください。第一、この艇内には合成食料しか積んでないんですから」

「そんなの聞いてなかったぁ!」

「……言いましたよ。何度もね。あなたがウィシュに会うことばかり夢見て聞いてなかっただけです」

「んもーっ!!レノなんか嫌い嫌い、大っ嫌いっ!!」

 毎日がこんな繰り返しだった。

 ひどいときにはどこかの惑星に立ち寄って、そこで食事をとりたいとまで言い出したのには閉口したものだ。そんなことをすれば、ヨキアは、よくて強制送還、悪ければ傷害罪でぶちこまれるところだ。合成じゃない、生の食事を取るのを合法化しているのは、アルテナだけなんだから…。




 そして事故が起こった。

 アルテナの宇宙港を出発してから二十八日目、つまりあと十日で惑星セルツに着くという頃、僕たちが乗っているこの宇宙艇に隕石がかすめるようにしてぶつかっていったのだ。

 すぐさま安全装置が働いて、中の人間――ヨキアだが――に怪我や、酸素を主とした空気不足ということはなく、事なきを得た。また大きく軌道を外れることもなく、運行の修正もすぐさまなされ、ほぼ予定通りセルツに着けそうなのも幸いだった。

 被害といえば艇の外壁の一部が破損して、そこに積み込まれてあった荷物が宇宙の暗闇に吸い込まれていったことだけだった。

 しかしその荷物が大問題だったのだが――。

「えーっ!うそっ!」

「嘘を言ってもしょうがありません」

「じゃ、どーすんのよっ」

「……どうしようもないというのが現状ですね」

 ぱふっ!

 クッションが投げつけられ、僕の顔に命中した。

「よくそんな涼しい顔をしてられるわね!あたしがどうなってもいの!?飢え死にしてもいいっての!?」

 ヨキアは怒りのあまりぶるぶると震えている。破損したのは運の悪いことに食料庫の外壁で、ヨキアの合成食料がすべて流れてなくなってしまったのだ。

 …しかし、気持ちはわからないでもないが、僕に当たり散らしてもしょうがないのではないか?それより無駄なエネルギーを使うことはさけた方が賢明だと、ぼくは思うのだが。

「大丈夫です。あと十日の我慢です。水さえあればあなた方ソーテリア人種はひと月は保つはずですし。たった十日じゃありませんか。幸いにして、あなたのお好きな薔薇の紅茶はこの部屋にも多少ストックがありますし」

「冗談じゃないわよ!あたしに十日も水と紅茶だけで我慢しろっての!?」

「この際しょうがないでしょう。とにかく、なんと言ったって食料はないんです」

 そうきっぱり言い切る僕の言葉に、ヨキアはその美しい金色の髪をくしゃくしゃに振り乱し、クッションに突っ伏して泣き出した。

「ひどいひどい!どうして隕石を避けられなかったのよ!レノのせいなんだから!レノの馬鹿ーッ!」

 ――不慮の事故まで僕のせいにされちゃたまったもんじゃない。隕石に気づいたときにはすでに不可避だったのだから。

 もう十八だろう。いい加減現状と折り合いをつけるとか、我慢するとか覚えた方がいい。

 …まったく社長はヨキアに甘かったからなぁ。父一人子一人のせいか、社長はヨキアの欲しがるものは何でも買い与えた。その結果がこの我慢知らずの我が儘お嬢様だ。

「ほら、マイレイディ、泣いていてもしょうがありませんよ。紅茶を入れましたからこれでも飲んで落ち着いてください」

 けれどヨキアは僕の差し出した無重力用カップを手で払いのけた。コロンとカップは転がったが、中身が飛び出ることはなかった。出ていたら大変なことになるところだ。少なくともこの居住区の機器は水分でパーになるところだった。

 僕はわざとらしく溜息をついて、「ご自分の行動をもっとわきまえてくださいね」と多少きつく言い置いて、カップを片づけるとヨキアの部屋から出ていった。

 ドアの中からは相変わらずひーんひーんと泣く声が聞こえたけれど。




 二、三日はおとなしかった。

 僕がきつめに言ったのがこたえたらしい。それでも不満たらたらの顔をしていたが。

 けれど四日目には言葉に出して不満と空腹を訴えだした。ま、ヨキアにしてはよく三日間ももったもんだ。

「お腹がすいた!すいた、すいたすいたーッ」

「マイレイディ」

 目でたしなめてはみたが、効果はなかった。

「あの合成食料でもいいから食べたい、飲みたいーッ」

 あれだけ不満を言っておいて…。

 僕はあきれたが、それだけ空腹に耐えかねているのだろう。

 しかし、「ないものはありません」冷たくそう言ってやると、ヨキアは恨みがましく僕を見る。

「ふんだ。レノはいいわよね。永久バッテリー内蔵だから、エネルギーが切れることもないし、第一お腹がすくってことと無縁なんだもん。…レノに、レノにあたしの気持ちなんかわかんないのよッ」

 確かに空腹というものはプログラミングされてませんがね、あなたにもアンドロイドの気持ちなんか、ましてや我が儘なお嬢様のお守りをさせられている、僕の気持ちなんかわかりゃしないでしょう。僕はどれほどそう言ってやりたかったことか。

 しかし僕がしたことと言えば彼女をなだめることだった。

「ねえ、マイレイディ、あと六日の我慢じゃないですか。がんばりましょう。向こうに着いたらさっそく食料を買い求めて」

「ホント?生のじゃなくちゃイヤよ!?」

 キッと上目遣いににらみつけるヨキアに、僕は一瞬見とれた。困らされるのには閉口だが、可愛いことは可愛いんだ、このマイレイディは。つい、「ええ、最上級の生を用意します」と言いそうになったではないか。

「マイレイディ、アルテナ星以外でのソーテリア人種用の生の食料は、違法です。禁止されています。合成のもので我慢していただかなくては」

「んもーっ、我慢我慢我慢、そればっかり!」

「…セルツに行きたいと言い出したのはあなたなんですよ」

「いやっ、もう帰りたいッ」

 ヨキアは早くもホームシックのようだ。食欲がなさしめたせいではあったが。


 七日目。

 いよいよもってヨキアは空腹に耐えかねて、艇内のあちこちを食料を探して回る有様だった。美しい髪はここ数日櫛を通されたこともなく、ドレスはかろうじて身体に巻き付いているだけで、さしずめ幽鬼のような青白い顔で艇内をふらふらと飛び回っていた。

 そして、ついに怖れていたことを言い出した。

 そう、いつ言い出すだろうと、僕は怖れていたのだ。確かにあれなら所有はヨキアに帰すのだから、違法ではない。しかしそこまではしないのではないか、と思っていたのだが。

「…ね、これ、食べる。もうお腹がすいて我慢できない…」

 ――誰よりも愛するウィシュからもらった、何よりも可愛がっていた小鳥のピー。それを食べると言い出したのだ。

「いいでしょう?」

 それは僕に許可を求めるというものではなく、僕に一種の共犯としての意識を抱かせたかったものと僕は解釈する。何となれば、彼女の手はすでに鳥籠の扉を開け、中の小鳥をむんずと掴んでいたからだ。

「ピー、あたしのために犠牲になってね」

 かわいらしい声でそう言うが早いか、ヨキアはその淡い薔薇色の唇を小鳥の腹に吸い付かせた。

 しかし。

 ガキッ

「…な、何これーッ」

 腹をかまれたというのに、ピーは相変わらずピチュピチュと鳴いている。――楽しげに歌うように。

 一方、ヨキアは口から血を滴らせている。そして口の中に入ったもの――金属片と羽毛状の繊維をぺっぺっと吐き出した。

「見せてください」

 僕はヨキアの手から小鳥を奪い取り、子細に眺めた。

「ははあ、よくできたオモチャ…ですね、これは」

「えっ!?小鳥じゃないの!?生き物じゃないの!?」

 ヨキアは愕然としている。そりゃあそうだろう、愛する人から小鳥だと言ってもらったものが、まがい物だったのだから。

 本物の小鳥など滅多に目にする機会のない昨今、騙されても不思議はない。それに反し精巧なおもちゃはたくさん出回っているのだ。ましてや世間知らずのお嬢様なら、騙すのはわけないだろう。ただ、僕がちゃんと見ていればこれがおもちゃだとすぐ気がついただろうが。しかしピーの世話は自分がするのだと、言い張り、近寄らせてもくれなかったのはヨキアだ。

「僕たちアンドロイドがあなたがたのレプリカのように、最近では色々な生き物のレプリカも出回っていますからね。――本物の小鳥であれば八万ルーツはくだらなかったでしょうが、このおもちゃじゃ二百五十ルーツがいいところですね。まったくこれを本物の小鳥だと言って渡すとは、ウィシュ殿も人が悪いことだ」

 僕はやれやれといった風に手を広げてみせた。

「じゃ…あたし…ウィシュに…ウィシュに騙されたっての…?」

 どこか呆然として、ヨキアはつぶやくようにそう聞いた。それを見て、――ヨキアの様子が変だ――僕はうろたえた。

「……と、…言わざるを得ない…かも…しれません…が」

 返答は何とも歯切れの悪いものになった。アンドロイドとして、不的確な答えだ。

「ウィシュは…騙すような人だったの…?」

 ぽろぽろと涙をこぼすヨキアに、僕はいっそうあわてた。今まで泣く・わめくは日常茶飯事だったが、こんな風に涙をこぼしているのは見たことがなかったからだ。

「ねえ、レノ、…親族のおじさまやおばさまが言うとおり、…ウィシュは…ウィシュは…あたしの持ってるお金だけが目当てだったの…?」

 何とも返答できずに、僕はひたすら困っていた。だってその通りだからだ。だけど僕にそんなこと言えるだろうか?

 誰よりも何よりも守らなければならないマイレイディ。その心を壊すようなこと、僕には言えない。

「――ごめんなさい、……一人にして、レノ」

 小さな声でそう言うと、ヨキアは目から透明なしずくをしたたらせた顔を背けた。

 ――ごめんなさいだって!?ヨキアがごめんなさい!?

 青天の霹靂とはこのことだろう。ヨキアが僕に謝るなんて。僕を慮った言葉を出すなんて!

 ああ、マイレイディ。かわいそうな打ちひしがれたマイレイディ――。

 僕はこのとき決心した。

 セルツに着いたら、マイレイディのために最高級の生の食事を用意して差し上げようと。

 それしか彼女を癒すことは出来ないと。

 そしてセルツにはあるのだから。ソーテリア人種にとって最高のご馳走となる食材が。



 アルテナを発ってから三十八日目、事故が起こってから十日目。僕たちが乗った宇宙艇はようやくセルツの宇宙港に入った。

 しかしヨキアはウィシュに会う目的など、もうどうでもいいと言い出していた。騙されていたことがわかって、たいそう堪えたらしい。――この宇宙艇からは出ないと言ったのだ。

「…では、僕は艇の修理の依頼と食料の調達をしてきますから、おとなしく待っていてくださいね?」

 この間までのヨキアなら、一人ほうっておくなんて怖くて出来ないところだが、今の彼女は素直にコクンと頷くだけで、それがまた痛ましく僕の心に映る。

 空になった鳥籠のそばで、ヨキアはうずくまっていた。

 僕は宇宙港管理センターに向かい、入国手続きをすると、早速修理の依頼と合成食料の買い付けに走った。そして食料をヨキアの元に届けると、まだ用があるからと、また艇を後にして出かけていった。

 僕の目的は、何とも古典的な方法だが、アドレスと写真を頼りにウィシュを探すことだった。マイレイディ・ヨキアは彼には会いたくないと仰っていたけれど、是非ともウィシュを彼女の元に連れて行かねばならない。

 ウィシュの現在のアドレスはセルツの歓楽都市だった。――どうせそんなことだろうと思っていたから、驚くには値しなかったが…。

 けばけばしいネオン、あふれる歓声と嬌声。アルコールの匂い。薬でふらふらになった男たち。必要以上に肌を露出した女たち。僕はそんな中をウィシュを探して歩いた。

「にーさん、いい娘、いるよぉ?三百五十ペリネで一晩中満足させちゃうよぉ」

 客引きが僕の腕を掴む。これで何人目だ?しかし僕はその男にも聞いてみることにした。

「残念だが、人を捜しているんだ」

 僕は懐からプリントされた一枚の写真と百ペリネ紙幣を差し出す。

「この男を知らないか?」

 男はちらっと写真を見ただけで、目がきろっ動いた。どうやら知っている様子だ。

「お、ウィシュお大尽じゃないか。あんたあいつの知り合い?道理でいい身なりしてると思ったよ。いいよなあ、あいつ、大金使って遊んで暮らせる身分だなんてさぁ」

「ふん、そうだねぇ。で、どこにいる?」

 へへへ、と客引きの男は口元をにやつかせ、手を差し出した。

「あと百ペリネ」

 ちっ

 僕は舌打ちしてもう百ペリネ、男に渡す。

「あのピンクのネオンの『スザリン』って店に行ってみな。この時間ならたいがいあそこに仲間とたむろってるからさ」

 唇をぺろりと舐めて言う男の頬に、僕はガキッと手をかけた。

「嘘ならもっとうまくつくんだな」

 親指が男の頬にぎりぎりと食い込む。

「はひっっ、はへろっ!」

 手足をばたばたさせて男はもがいた。人間がうそをついているときは、唇を舐めたりどこかあらぬ方を一瞬眺めたりするものだ。鼻がひくつくのも特徴の一つだ。この男はおおかた僕からもっと金をせしめようと企んだに違いない。

「本当のことを言うなら放してやる」

「ひふっ、ひふはらっ」

 これだけ脅せば言うだろう。僕は手を放してやった。男はぜいぜいと肩で息をしてから、「ちくしょう、アンドロイドのくせに人間様を痛めようなんて」と毒づいた。男を掴む手の力で、僕がアンドロイドだとようよう気づいた模様だ。

「で、二百ペリネにふさわしい情報を早くくれたまえ」

「…ちっ、ウィシュなら『カノミーラ』って女郎屋に行けば会えるよ。そこの子といい仲だからな」

 そう言うが早いか、男はそそくさと雑踏に紛れていった。

 『カノミーラ』は大通りに建つ、この歓楽都市の中でも割合大きい女郎屋…いや、サービススポットだった。まあ、中でやっていることは店の名称がどろうだろうと一緒だが。

 店に一歩足を踏み入れると、正面には大きなカウンター。女の子の縮小立体ホログラフをたくさん飾ってあり、黒い服の男が一人こちらをちらっと見ている。どうやら受付だろう。右手を見ればその一角に小さなバーがある。

 受付で聞いてもどうせろくな答えは返ってこないだろう。海千山千の店の支配人にいいように扱われ、僕はまた少々乱暴な手を使うか、金を使うしかない。あまり騒動は起こしたくない。僕はそう思い、バーで張り込むことにした。ここにいればウィシュは来るだろう。

 …しかしちょっと作戦失敗だったかもしれない。僕はすぐに後悔することになった。

「おにーさん、いい男ねぇ。ほれぼれしちゃう…」

「ね、あたしと今夜遊ばない?」

「私と遊びましょうよぉ。おにーさんならお金いらないわ。腰が抜けるほどサービスしちゃうからん」

 たちまち複数の女性に囲まれてしまった。

 僕は大昔のなにがしという俳優に似せられて作られたそうで、社長だったヨキアの父上の元で働いているときも、女性にはなぜかもてた。

「いや、人を捜しているんで、また今度ね」

 僕は出来もしない約束を、にっこりと笑いながら口にする。

 そこへバーの入り口に「んもぉ、ウィシュのエッチぃ」という女性の歓声とともに現れた一人の男の姿があった。

 金髪碧眼で長身、甘いマスク。間違いない、ウィシュだ。――連れの女性の腰の辺りを抱いて、胸元に手を突っ込もうとしている。

 僕はすっと立っていくと、彼の前にひざまずいた。

「ウィシュ殿、お久しぶりです」

「…え、…君は…」

 彼は困惑気味だ。僕を覚えていないのも無理はないかもしれない。アンドロイドに性別はないが、一見男の僕は、女好きの彼の眼中になかったのだろう。

「お忘れですか。ヨキア様の元で働くレノでございます。マイレイディ・ヨキアの使いで参りました」

「ヨ、ヨキアの…?いったい何の用で…」

 ヨキアの名前を聞くやいなや、彼は発汗し、声がうわずっている。体温が0.2度上昇したのがわかる。

「はい、このたび、マイレイディはあなた様との結婚を正式に決められ、私がお迎えに参った次第です。もちろんマイレイディはその持てる財産はすべてあなたにお譲りするとのことも言明なさっていらっしゃいます」

 すらすらと口からでまかせが出る。アンドロイドは一般的に嘘はつかないというのが定説だが、それはあくまでも一般的にであって、今の僕ならヨキアのためにどんな嘘もつける。しかも表情が変わることがないから、おそらく詐欺師に転向すれば、超一級になれる自信はある。

 ウィシュは僕の言葉にぱっと目を輝かせた。

「おい、それホントか!?…ふふん、あのお嬢様、ついに我慢できなくなったか。焦らせた甲斐があったぜ。へへへ、これでオレも大金持ちだぜ。ヨキアの持つ財力なら小さな惑星を丸ごと一つ買うくらい、訳はない。…おい、お前ら!しばらく待っていたら、オレが家でも車でも何でも買ってやるぞ!」

 ウィシュは捕らぬ狸の皮算用で、そんなことを大きな声で口に乗せた。周りから歓声が上がる。

「きゃーっ、あたし、大きな宝石も欲しい!」

 ウィシュの腕にからみついていた女性が、今度は彼の首にかじりついた。

「はっはっは、オレがセルツに戻ってくるまでいい子にしてろよ、仔猫ちゃん。アルテナなんて、あんな星、財産を手に入れたらすぐにとんずらしてくるからよ!」

 んーっ、と唇を寄せて、ウィシュはその女性にキスをした。

 僕がその言葉を聞いているのを知っていて、まだそんなことを言う。よほど自分に自信があるのだろう。

 ……腐れ外道めが。

 しかしそんな思いを顔に出すことなど、僕はしない。

 ウィシュを連れて、僕は宇宙港管理センターに向かった。にこにこと笑いながら。



 宇宙港管理センターで彼の出国手続きを済ませると、僕はセンターの惑星間通信で婚姻届の書式を取り寄せた。同時に離婚届のも。ウィシュは足の長い女性に見とれていて、気づかなかったようだが。

「さ、ヨキア様の自家用宇宙艇はこちらですよ」

 やっぱり僕はにこにことウィシュを案内する。

「うむ」

 早くもウィシュは主人気取りだ。

 タラップの階段を登り、ウィーンと音のする扉を開いて、僕らは宇宙艇に乗り込んだ。居住スペースの客室用に彼を案内すると、僕は早速さっき取り寄せた婚姻届を差し出した。

「どうぞこちらにサインを」

「…ここでかい?…ヨキアは?」

「すぐにお連れいたしますよ。しかし女性が愛しい方の前に出るには、それなりの身支度が必要だと、ウィシュ様もご存じでいらっしゃいますでしょう?」

「それもそうか」

 ウィシュは僕の言葉にそれ以上疑問を持たず、ペンを持つとさらさらっと婚姻届にサインをした。

「おめでとうございます。これであとはヨキア様のサインをいただけば、晴れてご夫婦でござますね。アルテナに帰ったら政財界の方々をお招きして、盛大な結婚式を催しましょう。そしてその暁には、ヨキア様のお持ちの複数の会社のオーナー社長として、いよいよアルテナ経済界に君臨していただくことになりましょう」

 僕は甘い言葉を次から次へと口に乗せた。にやつかせたウィシュの顔が、僕には馬鹿面にしか見えなくて、笑いをかみ殺していた。

「では、申し訳ありませんが、しばらくお待ちくださいませ。あ、離着陸シートに腰掛け、シートベルトを着用なさってくださいね」

 軽く一礼すると、僕はカチャンカチャンとマグネットシューズを響かせて部屋から出ていった。まだここは重力圏内だが、まもなく出発する。彼に逃げる暇を与えずに。



 操舵室でアルテナまでの運行軌道を演算して、僕はメインコンピューターに打ち込んだ。そしてマイクに向かいまもなく出発すると居住区に伝える。程なく管制塔から出発の許可が出たので、僕はシートベルトを着用し宇宙艇のエンジンに着火した。

 ゴーッと音がした後、身体にGがかかる。ぐいぐいとシートに押しつけられる。スクリーンに映る外の様子が青から藍、そして紺色へと変化していき、やがて漆黒の闇へと艇は上昇していった。

 エンジン音が静まるのを待って、僕はシートベルトをはずした。ここまで来れば後はオートでいい。再びマイクでシートベルトをはずしてもよいと二人に伝えた。

「さて、と。次はマイレイディの番だな」

 僕はひとりごちると、カチャンカチャン、またマグネットシューズを響かせて廊下を歩き、ヨキアの居室のドアをノックした。

 返事はない。

 まだふさぎ込んでいるのだろうか、マイレイディは。

 返事を待たずに僕はドアを開けた。

「マイレイディ、出発しましたよ。アルテナまでまた三十八日間の旅です。…で、空腹の方は落ち着かれましたか」

「……」

 やっぱり返事はない。クッションを抱きかかえたまま、ヨキアはふわふわと浮かんでいた。目尻に涙の跡がある。

 それを見て僕は心臓がきゅんと痛んだような気がした。…心臓はないけれど。ただの比喩的表現だ。

 しかしあちこちに合成食料の容器がいくつか、ふわふわと浮いているところを見ると、ヨキアは食事したらしい。とりあえずほっとした。食べるということは生きる気力の証だからだ。

「合成食料は不味いと仰っていたので、帰路は生をご用意いたしましたよ」

 散らばっているものを片づけながら、僕はヨキアの顔をのぞき込んだ。

「…え、うそ、だって、生はアルテナの惑星外では違法だって…レノが言ったんじゃない…」

 うつろだった目にやっと少し生気が戻った。しかも『こく』とヨキアの喉が小さく鳴ったのも、僕は見逃さなかった。

「違法じゃなくなるんですよ、あなたがこの書類にサインをすれば…ね」

 僕は懐から折り畳んだ書類を出し、ヨキアの前で広げて見せた。

「何、これ…、婚姻届!?ウィシュの名前がどうして!?」

「僕がウィシュ殿をこの艇にお連れしました。この婚姻届にサインしてくださり、通信で出せば、あなた方はご夫婦。そしてご夫婦ならば与えあうのが認められておりますからね。――なんと言っても彼はカイン人種ですし、あなた方ソーテリア人種の最上の食物でしょう?だからウィシュ殿とご夫婦になれば完全に合法なんですよ。…あ、ただし殺さないようにお願いしますよ。あとがやっかいだ」

 僕はにっこりと笑った。

 しばらく呆然として考え込んでいたヨキアだが、やがて彼女もにっこりと顔をほころばせた。…なんて美しい笑顔だろう。僕はつい見とれてしまった。

「レノ、レノ、ありがとう!ああ、早く彼の血を飲みたいわ!」

「ではここにサインを」

 差し出した書類に、ヨキアは流れるような筆致でサインを記す。

「ではさっそく通信で届け出ましょう。その後ウィシュ殿をお連れしますね。あぁ、そうだ、その後の処理ですが、アルテナに着くまでに離婚なさってもよろしいし、そのまま結婚生活を続けて邸宅内で飼い殺しになさるのもよろしいですし。どちらでもあなたの思うとおりに」

「アルテナに着いたらもう不要よ」

 ふふふっ。ヨキアは笑った。

「ひとつ大人におなりですね」

 僕はそう言い置いて、ヨキアの居住スペースを後にして通信のため、操舵室に向かった。



 ソーテリア人種とカイン人種。

 彼らははるか遠い昔、地球という星から移住してきたそうだ。その頃はソーテリア人種はおのれの素性を隠し、大多数のカイン人種に紛れるようにしていたと聞く。なんとなればそれは忌まわしい本能を持っていたからだ。カイン人種の血を飲まねば生きていけぬという忌避されるべき性質を。

 ――ソーテリア人種は地球ではヴァンパイヤと呼ばれていた――。

 やがてカインに比べすさまじいまでの生命力を持つソーテリアは、子孫を増やし、長い年月の後、今やアルテナ星に君臨するまでになった。

 そしてカインは、人権はソーテリアと同じく認められてはいるものの、彼らのために血を供給するため飼われている身分となったのだ。故にカインは存在するだけで、週に一度血を少々抜かれるだけで、働くこともなく、贅沢さえしなければ遊んで暮らせる。…だからこそウィシュのようなつまらない男も出来上がったというわけだ。



 さて。

 通信で婚姻届を出した後、僕はウィシュを連れてヨキアの居室に向かった。もちろん彼にも婚姻届を出したことを伝えておいた。彼はたいそう嬉しそうだった。これで贅沢三昧の生活が送れる――と。

 ピシュッ

 ヨキアの部屋のドアを開けると、喜色満面のヨキアが待ちかまえていた。

「ああ、ヨキア!会いたかったよ!」

 ウィシュは彼女の元にふわりと飛んでいき、彼女の細い身体を抱きしめた。

「僕たちはこれで夫婦なんだね」

 嬉しそうなウィシュに、彼女は「そうね」と言いにっこり笑った。そして彼の首筋に、つ…、と指を這わせる。

「夫婦の間では持てるものを分け与えるというのがアルテナのみならず、宇宙連合上のきまり…だそうね」

「ああ、そうらしいね」

 ウィシュの目が輝いている。もちろんヨキアの持つ財産だ。けれどヨキアの目も爛々と輝いていた。――違うものを欲して。

「…だから、あたしを愛しているなら分け与えて頂戴?」

 そう言うと、軽く小首を傾げて、ヨキアはウィシュの首筋に噛みついた。

「う、うわっ、ちょっ、ちょっと、ヨキア!」

 もちろん僕は、暴れ出したウィシュの身体を背後からがっしりと捕まえておくことを忘れなかった。

 こくんこくんこくん。ヨキアの喉が鳴る。そしてその表情は、恍惚のさなかにいるようにうっとりとしている。

「ああ、美味しい!生は生でも、とびきり新鮮な生だもの!いつもは容器に入った血ばかりだったもの。こんな美味しい血は初めてよ!」

 ヨキアの、それまで抑圧されてきた食欲は止まらなかった。頬がみるみる薔薇色に染まり、目は生き生きとしてきていた。

 ああ、それでこそ、マイレイディ。



 椅子に縛り付けられ増血剤を点滴され、ウィシュはうめいている。金髪碧眼のハンサムも、今じゃ頬がこけ、髪はぱさぱさ、目がうつろになり、見る影もない。

 セルツを出発してから三十五日、彼はただ食料となるためこの艇内にいたに過ぎない。

 僕は点滴をつけ変えようと、彼を閉じこめてある客用居室に入ったところで、しばらく彼を眺めていた。

「…ちっくしょう…オレを騙しやがって」

 僕に気づき、そんな言葉をはく。まだ悪態をつくくらいの元気はあるらしい。

「ふふ、騙したのはお互い様じゃないですか?あなたもセルツでは、ヨキア様から騙し取った金でしたい放題して、いいご身分だったんでしょう。…さて、点滴を入れる前にこの書類にサインをしていただきましょうか」

 僕はひらりと彼の前に書類を差し出す。

「…な、なんだよ、これはっ」

「見てわかりませんか、離婚届ですよ。すでにヨキア様のサインは頂戴しております」

 くすり、と小さく笑って、僕は彼の手にペンを握らせた。だが彼はそのペンを投げ捨てる。

「冗談じゃねえ!何のためにここまで我慢したと思ってるんだ!財産を手に入れられると思ったからこそ…!」

「…そうですか。しょうがありませんね。ご本人がサインをなさらない限りどうしようもないですからね。…ただ…」

 僕は思案顔で彼を見つめた。

 そんな僕にウィシュは不安感を煽られたようだ。

「た、ただ、…なんだよっ」

「そうですねぇ、僕はこの先、あなたに増血剤、栄養剤の点滴をし忘れるかもしれませんねぇ」

「………」

 ウィシュは顔を引きつらせている。

「けれどヨキア様は食事の時間を忘れることはないでしょうね」

 にっこり。僕は最上の笑顔を見せてやる。

「そっ、そんなことをしてオレが死んだらヨキアは殺人で…アルテナで裁かれることになるんだぞっ」

 ウィシュは必死になって訴える。

 まだ脅かしが足らないか。

「…ですが、死体さえなければ、わかりませんしねぇ。私どもが、あなたはハッチを開けて勝手に宇宙空間に飛び出ていってしまったと、そう報告・証言しますしね。そう、幸いなことにアンドロイドは嘘をつかないと思われておりますので、露見することはないでしょうし。…僕はね、マイレイディのためなら何でもするんですよ。…どうやらマイレイディの涙を見たときから、僕の思考回路は異常をきたしているようですし…ね…」

 ウィシュは椅子の肘掛けを強く掴んでぶるぶると震えだした。

「サイン…なさいますか?」

 僕の言葉に、ウィシュはぶんぶんと何度も首を縦に振ったのだった。

 そして、もちろん、慰謝料や財産の分与請求などしないという誓約書にもサインさせることを、僕は忘れなかった。



 惑星アルテナがスクリーンに映る。美しいエメラルド色の星。もうまもなく着陸だ。

 僕はこのときになってやっと、先日ウィシュにサインさせた離婚届を、通信でアルテナに送った。

 ――これで二人は夫婦じゃなくなったわけだ。

「いいですか、これ以降ウィシュの血を飲むのは厳禁ですよ」

 僕の横でふわふわ浮かびスクリーンを眺めるヨキアに、僕は話しかける。

「わかってるわよ。もう、レノってば口うるさいんだからッ」

 ぷう、と頬をふくらませ、ヨキアはそっぽ向く。

 ああ、元の通りのマイレイディだ。やはりマイレイディはこうでなくては。 またレイディの我が儘が聞ける。

 僕はなんだか嬉しかった。

 しかし、こうなってみてふと思ったんだが、僕をプログラミングしたヤツは、ひょっとしてマゾっ気があったんじゃないか…?



 けれど。

 もうそんなことはどうだっていい。

 マイレイディ、僕はずっと、あなたの命ある限り、あなたをお守りしていきます。

 マイレイディ。

 マイレイディ・ヨキア。



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