一 春の終わりを告げる音/02
***
配達を終え、バイクを返した後、俺は自分の自転車を押しながら町をのんびり歩いていた。
時刻は午前四時半。この時間こそが一日のうちでもっとも自由な時間だ。
だからバイト先から自宅までの道中は大きく遠回りをして、鴨川の河川敷を歩くことにしている。
労働後の心地よい疲労感と解放感に浸りながら、鴨川の流れに沿うようにして歩くのは気分がいい。あえて自転車に乗らないのはこの時間を長く楽しむためだ。
この遠回りには、気分転換以外の目的もある。
河川敷といえば大きな音を出してもあまり気にならない場所だから、楽器の練習をするのに定番の場所の一つだ。
まだ日の昇らない河川敷では川の流れる音と共に『きらきら星』が聞こえる。トランペットの音色だ。俺は邪魔をしないようにそろりと近づき、様子をうかがう。
トランペットを手にしているのは同い年くらいの女の子だ。
真っ黒な前髪が目元を隠すように伸びている。かなりの厚みがあり、そのせいで視線がわかりにくい。さらに長袖の制服を身に着け、足は真っ黒なタイツに覆われているため、肌の露出もほぼない状態だ。
ちなみに制服は俺が通っている高校のものだが、今のところ学校で彼女を見かけたことはない。多分これからもないはずだ。
「おはよう」
音が途切れるのを待って声をかけると、銀色のトランペットを構えていた少女が振り返る。
「おはようございます」
出会った頃は声をかけるたびに驚かれていたが、今はもうすっかり向こうも慣れた様子だ。
彼女と出会ったのはバイトを始めてすぐの頃だった。鴨川の河川敷を歩いて帰る道中、不意に聞こえたトランペットの音に俺が吸い寄せられたことがきっかけだ。
彼女の演奏は正直に言うとさほど上手ではなかった。
音の出し方も指の運び方も、まるで楽器を始めた頃の自分を見るかのような拙さだ。出す音を間違えたり、つっかえてしまうことも度々あった。
だからこそ、ここでこっそり自主練をしてうまくなりたいという気持ちはよくわかる。俺も昔は河川敷でトランペットを吹いていた。夏は大量の虫に阻まれ、冬は寒さで指先が動かなくなるのですぐに挫折したんだけど。
その点、彼女は暑い日も寒い日も天気が悪い日もここで練習を続けている。
練習の邪魔をしちゃ悪いと、以前はそれとなく離れたところで演奏を聴いているだけの不審者となっていたが、あるとき向こうから声をかけてきた。
「私の演奏、どうでしたか?」
初めて話をしたときと同じ質問を彼女は久しぶりに口にする。かつてはオドオドと、今はそれに比べるとだいぶ落ち着いた様子で。
誰かに感想を伝える、というのは意外と答えに困るものだ。言葉が少ないと雑に答えているみたいだし、多いとなんだか偉そうに聞こえる。ちょうどいい感想というのは難しい。
「俺は好きだよ」
迷った挙げ句、こちらも以前と同じように答えた。実際、彼女の演奏は今でも音が切なくよれてしまうことがあるし、ロングトーンは苦しげだ。
でも楽譜を丁寧に読み解くような穏やかな演奏は、聴いている人の気持ちを解きほぐす優しさが感じられる。
食べものにたとえるなら、遠足のときに母が作ってくれたお弁当のようなものだ。うまいとかまずいとか、そういうことの関係ない位置にある。ただひたすらにステキなものだ。
俺の答えに対して、彼女は口元に薄く笑みを浮かべた。
「なら今日も聴いてください」
彼女は再びトランペットを構えると『きらきら星』を演奏し始める。
出会ってから二年以上が経つ今でも、俺と彼女は互いに自己紹介すらしていない。名前も素性もまったく知らないままだ。そのせいか、ここにいる間はなんだか自分が別人になった気分でいられる。それが好きだった。
彼女と過ごすのはいつもたった三十分ほどだ。
それでもバイトや学校と同じくらい、俺にとっては重要な日常の一部だった。
「吹奏楽部に入ってください」
朝、いきなりの勧誘だった。始業前の教室で突きつけられた言葉には既視感しかない。
昨日と違うのは俺の机に手をついているのが、同級生の大石ではなく新入生の中井妹であるという点だけだろう。反対の手には膨らんだ紙袋を持っている。
教室に大石がいないのが俺にとってはせめてもの救いだろう。猪突猛進な大石のことだから、おそらく今も他の場所で勧誘活動をしているはずだ。
問題は中井妹である。俺が新入生の頃は上級生の教室ってだけで近寄りがたい雰囲気を感じたものだけれど、中井妹には物怖じする様子がない。
「吹奏楽部で兄さんの曲を演奏するためには相馬さんの力が必要なんです」
「今朝もそんなこと言ってたな」
大石からの勧誘であれば何度だって断ることもできるが、相手が中井妹となるとそうもいかない。小学生だった頃の中井妹を知っているせいだろう。そのときの感覚が抜けなくて、どうも無下にはできない。できる範囲でなら要望を叶えてやりたいとさえ思ってしまう。
もしかしたら中井妹はそれを計算したうえで頼んでるのかもしれないけど。
「もう何年も楽器にさわってないから演奏はできないけど、それでもいいのか?」
「それは……」
中井妹はどこか不満そうに黙り込んだが、やがて気持ちを切り替えるようにゆっくりとうなずいた。
「協力してくれると約束していただけるなら、今はそれでも構いません」
今は、か。少し気になる表現だけど、とりあえず一旦話をまとめることを優先する。
「わかった。なら入部して、雑用くらいはお手伝いするよ。人手不足みたいだからな」
バイトと部活の両立は大変そうだ。想像するだけでめまいがする。
だけどこれで丸くおさまるというのなら、やむをえない。
中井妹が俺になにをさせるつもりかは知らないが、演奏をしなくていいなら気楽なものだ。楽器の運搬を手伝うくらいだろう。
「ありがとうございます。では早速、具体的な話に移りたいのですが」
「その前に確認したいんだけど、恭介が合奏曲を作ったことなんてないよな?」
俺の知るかぎり恭介は独奏曲しか作らなかったし、そもそも合奏が好きではなかった。およそ吹奏楽部とは相性の悪い作曲者である。少なくともあいつの楽譜をそのまま吹奏楽部で演奏することはできないはずだ。
「その点はこちらの楽譜を見ていただければわかります。どうぞ、ご確認ください」
中井妹は持参してきた紙袋を机に載せるとズンと重い音がした。
「それ、やっぱり楽譜だったのか」
教室に現れたときから気になっていたが、さすがに準備がいい。俺を説得する自信があったのか、それとも断らないとわかっていたのか。どちらにしても同じことだ。
紙袋の中にはぎっちりと楽譜が詰まっている。ものすごい枚数で数える気にもなれない。
「枚数、多くない?」
「ですが、これでもほんの一部分です。楽譜のすべては持ってこれませんでした」
淡々と話す中井妹は冗談を言っている様子には見えない。本気でこれが一曲の楽譜の、しかも一部分だと言うつもりだろうか。仕方なく適当に何枚かを取り出して確認する。
楽譜はたしかに吹奏楽形式で書かれた合奏曲のようで、癖のある形の音符は恭介の書いたものだ。あいつの音符には丸みが少なくて、どの演奏記号もカクカクとしている。
信じがたいが恭介が合奏曲を作ったのは本当なのだろう。だけど。
「俺はこんな曲知らないぞ」
恭介の作った曲はもれなく演奏してきたつもりだ。数が多いためその全てを覚えているとは言えないが、これが見たことのない楽譜だということはわかる。
「そうでしょうね。これは兄の遺作ですから」
「ああ……たしかにそれは知らないな」
部屋を訪ねると、恭介はいつも背中を丸めて五線譜に向かっていたし、最後に会ったときもそれは同じだった。
あのとき書いていた曲を俺は演奏していない。
「相馬さん」
紙袋越しに真剣な顔をした中井妹の顔が見える。不思議と息が詰まった。
「これが兄の作った最後の曲『真空で聞こえる音』です。それと補足情報なのですが、この曲の演奏時間はおよそ三十六時間です」
「え?」
変な数字が聞こえた気がした。
「ごめん、もう一回言ってくれる? 演奏時間がなんだって?」
「およそ三十六時間です。なので演奏には単純計算で一日半かかることになります」
聞き間違いじゃなかった。
「へー、そうなんだ。そりゃすごい曲が残ってたもんだ、感心するよ。で、吹奏楽部で演奏しようとしてる曲っていうのはどれなんだ?」
「ですから、これですよ。『真空で聞こえる音』を最初から最後まで途切れることなく演奏します。タイミングとしては文化祭が適切でしょうか」
「いやいや、さすがに無茶だろ」
「しかし、すでに相馬さんは協力すると約束してくださいましたよね」
「こんな規格外の曲だとは知らなかったんだよ。俺はてっきり三分くらいの曲を演奏するのかと思ってたんだ」
恭介の作った曲は大体どれもそれくらいの長さだし、文化祭で吹奏楽部が演奏する時間だって一時間くらいだろう。その時間でいくつか演奏する中の一曲に恭介のものを組み込むための相談、という話になると思っていた。
だから中井妹の頼みを断るよりも、さっさと受け入れて片付けてしまったほうが楽だと判断したのに、これでは話が違う。
「ですが約束は約束ですから、これから三十六時間の演奏実現に向けてご協力をお願いいたします」
詐欺みたいな話だ。俺は背もたれに身をあずけて、天井を見上げる。
三十六時間の合奏曲。
しかもそれを人数不足の吹奏楽部で演奏する?
中井妹の要求は無茶苦茶だ。なにより恭介の作った曲が破茶滅茶だ。俺には理解の及ばない世界を感じる。
そんな中であいつの楽譜に苦労させられる感覚だけは懐かしくて、うんざりした。
普段どおりではないということはそれだけで調子が乱れる原因になる。
ペースを乱されたままでは良くない。俺はつとめていつもどおりに過ごすことで調子を取り戻すことにした。
精神的に疲れてはいたが、ちゃんと元気に授業を受けたし、寝坊することなく早朝のバイトも無事にこなした。そして帰り道は遠回りをして鴨川の河川敷を通る。いつもどおりだ。
しかしやはり中井妹の要求が響いていたのだろう。
配達のリズムが狂ってしまい、余計な時間がかかってしまった。そのせいで河川敷に立ち寄る時間もいつもより遅くなってしまったのだが、さいわいにもトランペットの音はまだ聞こえた。音色でいつもの彼女だとわかる。
中井妹と話したせいか、トランペットの音でどうしても昔の記憶を刺激されてしまう。
恭介は俺の演奏を一度も褒めることがなかった。かといって不満や文句を口にしたこともない。どんな風に演奏しても、あいつはまるで確認作業をするかのようにうなずくだけだった。
こんなことを今さら思い出すなんて、よほど恭介の遺作は俺にとっても衝撃的なものだったらしい。それが今でもまだ響いている。
ちょうど演奏を終えたトランペットの残響と同じように、まだ頭の中に残り続けていた。
「あ、おはようございます」
知らぬ間に立ち止まっていたせいで、今日は向こうが先に挨拶をしてくれる。
「おはよう。突然だけど『きらきら星』って演奏時間は何分くらいあるんだろう」
「えっと、二分くらいだと思います」
「そうだよね」
大抵の曲は数分で終わるものが多い。あの有名なベートーヴェンの第九だって最初から最後まで演奏しても一時間程度だ。そもそもなにをするにしても、三十六時間連続でとなると苦行になってしまうだろう。
「ところで演奏時間が三十六時間もある曲って、どう思う?」
「三十六分じゃなくて、三十六時間ですか? えぇっと……なんていうか、どうやっても一日では演奏できないっていうのは、すさまじいですね」
河川敷の彼女もすっかり驚いた様子だ。この常識的な反応が嬉しい。
「しかも合奏曲なんだ」
「あの、それって演奏できるんですか?」
至極まっとうな意見だ。俺もまったく同じことが知りたい。
「どうなんだろう。ちなみにこれくらい長い曲って、他にもあるのかな」
「私が知ってる範囲だと、エリック・サティの『ヴェクサシオン』という曲は演奏するのにおよそ十八時間かかるそうです。他にも楽譜だけなら何百年もかかる曲や、そもそも永遠に繰り返し続ける曲もあるって、前になにかで読んだことがありますね」
「作曲家っていうのはすごいなぁ」
呆れや恐怖を通り越して、もう感心することしかできない。恭介もかなり変なやつだったと思っていたが、歴史上にはもっとすさまじい曲を作った人がいるらしい。
「そういうのを聞くと、三十六時間っていうのも短く感じるよ」
「いえ、生身の人間が演奏するという点ではかなり難しいと思います。演奏時間が規格外に長い曲は大抵一度も演奏されていないか、コンピューターが処理しているものがほとんどですから」
「じゃあさっきの『ヴェクサシオン』っていうのは?」
「複数の演奏者が交代して演奏したことがあるそうです。でもこれは合奏曲ではありません」
独奏曲ならば十人もいれば、交代で演奏を続けることができるのかもしれない。
それでも十分大変だろうが、恭介の遺した曲はあいにく合奏曲なのだ。必要になる人数は膨れ上がる。
「ところで、その三十六時間ある合奏曲がどうしたんですか」
「ああ、実はさ――」
あくまで笑い話として『真空で聞こえる音』について話そうとする。
しかし時間が遅かったようだ。
まばたきをした一瞬で、少女も、彼女の持っていたトランペットも、なにもかもが俺の前から消えていた。まるで夢のように、と形容するしかない。
東の空からはかすかに朝日がさしている。原因はこれだ。
俺はこれまでに何度か似たようなことを経験している。
夜明けと共に消えるのは彼女だけではない。バイト中に見かけた様々な服装の人たちは、大半が朝日によって見えなくなる。
いわゆる幽霊みたいなものなんだと、俺は勝手に思っている。あるいは妄想や幻覚か。たとえどれだったとしても、それほど違いはないだろう。
この四年で俺の世界は変わった。
恭介が死んで、トランペットをやめて、高校に進学して、バイトを始めて、そして暗い間にだけ見えるものが増えた。
その日々が成長なのか、退化なのかはわからない。だけど少しずつこの生活リズムが身体に馴染んできていた。
俺はまだ夜が明けきらない間にしか見えない景色が好きだ。
この河川敷でトランペットの音に耳を傾ける時間も好きだ。
だけどもし恭介の作った『真空で聞こえる音』を本気で演奏するつもりならば、その実現のために忙しくなる。この河川敷で過ごせる時間も短くなるかもしれない。
それは少し困る。
恨みがましく東の空を見上げながら、俺は一人でそんなことを考えていた。
第27回電撃小説大賞《メディアワークス文庫賞》受賞作/『君と、眠らないまま夢をみる』試し読み メディアワークス文庫 @mwbunko
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