第86話 スリーピー・ホローの怪異 その五



 人魚の指が示すさきを、じっと見つめる。かぎ爪はまっすぐ、フレデリック神父をさしていた。


「……フレデリックさん?」


 見つめていると、なぜか、ゾワリと背筋に悪寒が走った。

 龍郎は冷や汗がにじんでくるのを感じ、そっと手を伸ばす。青蘭の手をにぎりしめる。青蘭の手もかすかにふるえていた。わかるのだ。匂いが変わった。


「おまえ……フレデリックさんじゃないな?」


 問いつめると、彼は笑った。

 その姿がぼんやりと崩れていく。一瞬、狂気のすきまに陥りそうな虚無のはざまで、多くの触手のからみあった歪んだ姿がかいま見えた。しかし、次の瞬間には人型をとり、龍郎も見知った形になる。


「……ナイアルラトホテップ。おまえか。また奉仕種族を作ってるのか?」


 ゆらゆらと海中でゆれる海藻のような長い黒髪と、端正な白皙。長身の白人の男だ。瞳のなかの虹彩が人のそれではなく、グルグルと渦を巻いている。


「私ではないな。奉仕種族を造るのは、何も私だけの特権というわけではない」


 たしかに、そうだ。

 以前、人魚の村へ侵入したときは別の邪神がいた。

 だからと言って、ナイアルラトホテップの言葉を信用できるわけではないが。


「おまえはおれたちの前にしばしば現れる。何が目的だ? 敵なんだろ?」

「ふむ。敵と言えば敵、味方と言えば味方。宇宙の真理とはそうしたもの」


 いやいや、味方なわけがないじゃないかと反論したいところだが、そんな禅問答をしているヒマはない。


「なんの目的があって、おれたちの前に現れるんだ! 答えろッ! おまえも快楽の玉が狙いだろ?」


 すると、ついさっきまで紳士的だった男の双眸が、とつぜん、ビカビカ光りだす。長い髪が空中に舞いあがり、蛇のように、のたうった。


「はあッ? 快楽の玉? あんなもんいらねぇし! つうか、むしろ、すべての宇宙から抹消してぇよ。未練たらしいんだよな! わかれちまったもんをいつまでもグダグダグダグダグダグダグダグダ——」


 龍郎は呆然と男の姿をした邪神を見つめた。

 いったい、急にどうしたのだろうか? いわゆる地雷をふんだのか?

 邪神の沸点がわからない。


 すると、そうなったとき同様、ナイアルラトホテップはとうとつに我に返った。はためでわかるくらい、ハッとする。


「……失礼。わが王と意識の一部を共有していると、どうしても狂気に縛られてしまうのだ。私自身は理性的なのだよ?」


 ちょっと媚びるようにさえ言ってから、彼の姿は薄らいでいく。


「龍郎。君は早く苦痛の玉を完璧にしろ。それしか対抗するすべはない」


 ナイアルラトホテップは消えていった。

 以前、東京で遭遇したときにも、彼は同じことを言った。あのときは龍郎に変な幻を見せて、そして、苦痛の玉の欠損を早く埋めるようにと。

 なぜ、そんなにせかすのだろう?

 邪神にとって、苦痛の玉と快楽の玉が一つになることは、脅威のはずなのだが……。


 だが、ゆっくり考えているいとまはなかった。

 ナイアルラトホテップが消えるかどうかに、激しく床が上下した。ドンドンとものすごい轟音がとどろく。


「なんだ? 地震?」

「ち……がう。匂いが強くなった!」


 たしかに、青蘭の言うとおりだ。すさまじい臭気が充満した。生臭い。

 同時に足元を何かが百本もの腕で叩いているかのような鳴動が、龍郎たちを襲う。それが最初は地球の裏側からゆっくりやってくるようだったのに、急速に近づいてきた。


 逃げだそうにも縦揺れが強すぎて立っていられない。ドン、ドンと下からつきあげられて、紙相撲の人形のように二、三度よろめいたあと、龍郎は青蘭を抱きかかえたまま床をころがった。


 そのときだ。さっきまで龍郎たちの立っていた場所の床に大きな亀裂が走り、次の瞬間、コンクリを割って何かがとびだしてきた。天井スレスレまで鎌首をもたげる大蛇だと最初は思った。ころがりながらを見あげた龍郎は、ゾッとした。


 触手だ。

 吸盤のついた巨大な触手が、床から天井にまで伸びている。それも一本ではない。視覚に入るだけでも四、五本。おそらく部屋全体なら、その十数倍……。


「——クトゥルフだ!」


 工場に人魚が出てきたときに、そうではないかと思わないではなかった。

 やはり、まちがいない。

 この工場にひそんでいるという何者か。それは邪神のなかでも、もっとも有名な邪神。クトゥルフだ。


 大ダコのようなその触手は、サッといっせいにしなり、それぞれに獲物を捕まえた。あたふたしていた人魚たちはあっけなく触手に巻きつかれ、そのまま地面の底にひきずりこまれる。


 龍郎たちの頭上にも、何度も触手が迫った。そのたびにゴロゴロと左右にころがり、どうにかよける。いつしか壁ぎわまで追いつめられていた。


「龍郎さん! やっつけよう! アンドロマリウスを呼ぶよ」

「ダメだ。青蘭。やるんなら、おれがやる」


 ここは逃げていてもしかたない。

 青蘭にアンドロマリウスの力を使わせたくない。クトゥルフとはこれまでにも幾度か対峙した。体はデカイが、意外と倒すのは容易だった。今の龍郎なら一人でもやれる。


 龍郎は覚悟を決めて立ちあがった。右手に力をこめると、青く澄んだ炎をまとう刀身が形をとる。


「青蘭。待ってて」

「うん……」


 以前の青蘭なら、快楽の玉との共鳴があった。体の一部がふれあっているだけで、退魔の力が数倍にも増幅した。だが、今、その共鳴は絶たれている。龍郎のそばにいれば、それだけ攻撃を受ける確率が上がるだけだ。


 龍郎は青蘭の手を放すと、両手で剣をにぎりこんだ。

 やあッとかけ声を放ち、高大な敵へ突進する。

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