第80話 潜入 その四



 日が暮れてまもないというのに、光矢製薬のビルには、ほとんど照明がついていない。無人のように黒い窓がつらなっている。社員全員が定時で帰ったとでもいうのだろうか。


 神父が指定したコンビニに入ったとたん、龍郎は空腹を感じた。

 そう言えば、今日は昼食を食べていない。青蘭がいなくなってから、そのあとずっと探していた。

 急いで食べれるサンドイッチとおにぎりを買って空腹を満たした。これから敵地に乗りこむのに、まともに戦えないんじゃ困る。


 トイレを借りて手を洗って出てくると、神父が来ていた。


「あいかわらず諜報活動がうまいですね」と、龍郎が言っても、神父は小難しい顔のまま、それには応えない。

 実務的なことを端的に告げる。

「セキュリティに細工しておいた。裏から入ろう」


 神父についていくと、ビルとビルのあいだのスキマへと入っていった。そこから雨どいを足場にしてあがっていく。


「何してる。早く来い」

 神父にうながされ、龍郎も泥棒のマネをした。雨どいをのぼるなんて生まれて初めてだが、意外とできる。


「どこから侵入するんですか?」

「こっちだ。窓の鍵をあけておいた。防犯カメラも切ってある」


 三階の窓まで来ると、神父は手を伸ばし、長身をいかして、建物のなかへ移動する。


 下を見ると、かなり高い。

 青蘭のためだと思い、龍郎もがむしゃらについていく。

 ようやくビルに入った。


「暗いですね。誰もいないのかな」

「油断するな。この建物のなか、何かおかしいぞ」


 それは神父に言われなくても肌で感じる。昼間にはなかった気配がある。それも、ちょっと数えきれないほど。


「急ぎましょう。怪しい場所っていうのはどこですか?」

「こっちだ」


 低くささやきかわし、忍び足で廊下へふみだす。

 廊下も真っ暗だ。非常出口を示す緑色の表示だけが、ぼんやり光をなげている。


 神父は暗闇のなかでも目的地の方角を理解しているようで、迷うことなくスイスイと進んでいく。

 階段にたどりつくと、上へ上へとむかう。大きな建物によくあるジグザグに進むやつだ。折り返しながら進んでいくうちに、何階を歩いているのか、龍郎にはわからなくなった。


「エレベーターは使わないんですか?」

「そっちは防犯カメラが生きてる」

「なるほど」


 フレデリック神父の潜入の腕でも、できることとできないことがあるらしい。


「何階まで行くんです?」

「最上階だ。セキュリティの厳重な部屋があり、なかから強い悪魔の匂いがした」


 ナイアルラトホテップがそこにいるのかもしれない。少なくとも、このビルにひそむ悪魔の総大将だ。


 どこまで続くかわからない暗い階段をあがっていると、はるか下方から妙な気配が近づいてくるのを感じた。

 見おろすが暗くて何も見えない。しかし、ずっと下のほうに何者かがいる。


「フレデリックさん。何か来る」

「ああ。悪魔……でもないな」

「そうですね」


 ペースを早めて階段をあがりながら、龍郎はふと聞いてみた。


「佐竹法律事務所でナイアルラトホテップが現れたとき、おれはヤツに幻覚を見せられました。フレデリックさん。あなたも何か見たんじゃないですか?」

「…………」


 神父はさきに歩きながら沈黙している。その背中に再度、話しかけようとしたときだ。


「私が見たのは、おそらく青蘭の兄についてだ。だから、彼の本籍などを調べていたんだが……」

「青蘭の兄がどこにいるのかわかったんですか?」

「どこにというか、誰がそうなのかというか」

「誰なんです?」


 神父がチラリと龍郎をふりかえる。

 口をひらきかけた神父が、ハッと息を呑んだ。


「龍郎、うしろを見ろ」

「えっ?」


 あわてて、かえりみる。

 最初はわからなかったが、注視すると、床が波打っていることに気づいた。いや、床じたいが動いているわけじゃない。階段のいたるところに、何十匹もの生き物がうごめいている。体をくねらせながら近づいてくる。虫にしては大きいし、動物にしては小さい。


 いやに静かだ。ふつうこれだけの数の生き物が集まれば、なんらかの音が聞こえる。たとえ虫ですら、羽音や、脚で壁や床ををこする音がする。獣なら息づかいが。


(いったい、何が……)


 龍郎はを刺激しないよう、緩慢かんまんな動作でポケットに手をつっこんだ。スマホをとりだし、光を足元へむける。

 そして、悟った。それがなんなのか。


「うわッ。蛇だ!」


 無数の蛇だ。山育ちだから、種類もわかる。ほとんどは青大将やシマヘビと言った無毒の蛇だ。が、なかにはマムシやヤマカガシなど猛毒を持った蛇もいる。命をおびやかす毒蛇だ。


 なぜ、この都会のまんなかで、とつぜんこれだけの数の蛇がビルのなかを這いまわっているのだろうか?


「龍郎。さきへ進むぞ」

「そうですね」


 マズイことに、まごうかたなきただの蛇だ。悪魔なわけじゃない。悪魔なら退魔の剣で千匹でも一万匹でもやっつけることができる。だが、たとえ毒を持っていても、通常の生物にすぎない蛇を退けるすべが、龍郎にはなかった。退魔の剣は物質としての形態ではない。


 神父にうながされ、龍郎は二、三段とびで階段をかけあがった。

 しかし、途中で神父の足が止まる。

 そのさきを見て、龍郎もすくむ。


 毒蛇の群れだ。

 下からだけではなかった。

 上部からも蛇は忍びよっていたのだ。

 龍郎たちは、はさみうちにされてしまった。

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