第80話 潜入 その五
*
青蘭の意識がもどったとき、そこは完全なる闇のなかだった。
なぜ、そんなところに自分がいるのか一瞬、状況を思いだせない。
(そうだ。龍郎さんが出ていったあと、急にビリッときて……)
スタンガンで気絶させられたのだ。
いったい、どのくらいのあいだ気を失っていたのだろう。
それに、ここはどこだろうか。
(龍郎さん……)
光矢製薬のビルのなかにいるのかどうかもわからない。
青蘭は周囲のようすをうかがうつもりで起きあがろうとした。
しかし、動けない。
体が麻痺している。
それに手足を拘束されているようにも感じた。
拉致されることにはなれていた。
緊縛もよくある。
体内に魔王を飼っているから、これまでその状態を恐れたことはなかったのだが、なぜ製薬会社が自分を誘拐したのか、不思議ではあった。
(社内に悪魔がひそんでるんだから、その危険性は最初からあったわけだけど)
龍郎はその悪魔をナイアルラトホテップではないかと考えていたようだが、青蘭にはそこが疑問だ。
邪神というよりは、この匂いは……。
(アンドロマリウス。聞こえるか?)
体内の魔王に心のなかで話しかけると、応えがあった。
(青蘭。蛇が集まってくる)
(蛇?)
(そうだ。蛇はおれの
(おまえが呼んだの?)
(違う。おれのほかにも蛇神がいる。そいつが蛇たちをあやつっている)
(蛇神……)
(気をつけろ。青蘭。もしものことがあれば
(そう言うけど、ボクの体の一部を持っていくんだろ?)
問いかけると、魔王がニヤリと笑うような感触があった。
(それがおまえとの契約だ)
これまでも、ずっとそうだった。
アンドロマリウスは青蘭を愛しているという。それは真実なのだろう。
でも、やはり悪魔なのだ。魔王に慈悲はないと、これまでの経験則から、青蘭は
なんとか自力で逃げださなければならない。
低級な悪魔ならともかく、相手も魔王クラスの場合、ロザリオでは抵抗できない。できるだけアンドロマリウスの力を借りずにとなると、戦うことはさけたいところだ。
考えていると、闇のなかに靴音が響いた。一つではない。複数だ。
それが近づいてきたと思うと、暗闇の一部が二つに割れた。ドアがひらいたのだ。両開きの自動ドアだ。
外からの光が入ってきた。明るい廊下が見える。そこに医者のような術衣を着た男が立っていた。背後に二人、似たようなかっこうの女がいる。
(医者……?)
女が壁のスイッチをひねり、照明を点灯した。
おかげで室内のようすが見えた。
手術室のようだ。青蘭は台の上にベルトで固定され、まわりを医術用の器具でかこまれている。
だが、手術台に乗せられていたのは、青蘭一人ではなかった。青蘭のとなりの台上に少女がよこたわっている。体の自由を奪われているわけでもないのに、人形のようにまっすぐ上を見て、まばたきすらしない。
その少女を見て、青蘭は驚愕した。
白銀の長い髪。純白の肌。
その顔立ちは青蘭に瓜二つ。
アスモデウスだ。
(そう言えば、龍郎さんが深夜に見たって……)
そのときの少女に違いない。
青蘭は気づいた。
手術台に縛られた青蘭には、少女の右半身しか見えないが、その右腕。手の甲が不自然にデコボコしている。ケロイド……いや、ウロコだ。少女の腕には透きとおるガラスのように美しくはあるが、
その鱗は手の甲から袖で隠れる部分まで続き、さらには肩口から現れる肌にも見える。
おそらく、全身の何割かが鱗で覆われている。
(アンドロマリウスが言ってた蛇神って、この子?)
そう。このビルのなかにある悪魔の匂い。クトゥルフの邪神というより、魔王のものだ。それも、青蘭にとってはひじょうになじみ深い。
アンドロマリウスの匂い——
アスモデウスの顔をして、アンドロマリウスの匂いを持つ少女。
それはもう答えが決まっている。
あの地下の実験室で生まれた擬似生命。アンドロマリウスの細胞をもとに造られた天使の卵から生まれた者だ。
兄ではないだろう。
つまり、実験体の生き残りは複数いた。
青蘭の妹にあたるのだろうか?
それとも外見年齢が幼く見えるだけで、青蘭より前に生まれた個体なのか。
どちらにしろ、じっと微動だにしないそのようすから、欠陥体なのだとわかる。ふつうに反応して自立行動する機能がないのかもしれない。
だからこそ、アンドロマリウスに見限られた。
術衣を着た男女は無言で作業を始めている。男は医者、女は看護師のようだ。女が注射器にアンプルの液体を吸いあげる。
どうやら彼らは青蘭を麻酔で眠らせ、オペを始めるつもりのようだ。
もうこうなると、なるべく自力で逃げよう……なんて言っていられない。
(アンドロマリウス。ボクの拘束を解いて、医者と看護師を始末して)
ところが、ついさっきまで話していたアンドロマリウスの返答がない。気配がないわけではない。が、何かに妨害されたように、たがいの感覚が遠のく。アンドロマリウスは深く眠りについた。
すると、そのとき、ふたたびドアがひらいた。二人の男女が入ってくる。
二人を見て、青蘭はこれが最初から仕組まれた罠だったのだと悟った。
女は天野やよい。青蘭たちの依頼人だ。つまり、彼女は青蘭をここへおびきよせるために、偽の依頼をしてきたのだ。
そして、男は——
「やあ、青蘭。ようこそ。おれの手術室へ。歓迎するよ」
「そうか。おまえが、そうだったのか。おまえがボクの……」
「おまえだなんて、つれないな。兄弟じゃないか」
そのおもてを白銀の鱗が覆い、髪の色も白っぽく変化している。それでも、男の顔は青蘭の知っている人物だった。
「誰かに似てると思った。おまえの顔。そうだ。アンドロマリウスに似てるんだ。アンドロマリウスが人間に化身したときの姿に。アンドロマリウスよりずっと若いけど」
ふふふ、と、男は笑う。
「今さらかい? いつ気づかれるかドキドキしてたけど、心配なかったな。さあ、パーティーを始めよう」
男が青蘭を上からのぞきこむ。
照明がそのおもてを照らす。
画家、黒川水月の顔を——
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