第七十一話 ティンダロス

第71話 ティンダロス その一



 誰かに頰をなでられるような感覚をおぼえて、青蘭は目をさました。

 周囲は真っ暗だ。

 おかしい。

 たしか、アグンの家のゲストハウスに泊まっていたはずだ。いくら暗いと言っても、窓から月明かりくらいは入ってくる。


 するとまた、誰かの手が青蘭の頰にふれた。


「……龍郎さん?」


 でも、それにしては、イヤな匂いがする。さわられると背筋がゾッとした。

 こんなものが龍郎であるわけがない。

 となれば……。


「悪魔だね。おまえ、誰?」


 ふふふとくぐもった笑い声がかすかに届く。かなり低いが、女の声のようだ。


「可愛いね。おまえ、天使だろ? ノーデンスが前の戦のときに、生物兵器として開発したやつだね」


 ドキンと胸がとびあがる。

 自分がかつて天使だったという自覚はあった。このところ、よく白昼夢のように、そのころの幻を見る。龍郎のそばにいると、ときおり、それが今のことなのか、過去のことなのか、わからなくなる。

 だが、生物兵器だなんて、そんなふうに思ったことは一度もなかった。


 声のぬしは笑いながら、青蘭の頰をなでる。

 青蘭はその手をふりはらおうとした。そして初めて、自分が手足を縛られ、テーブルのようなものに固定されていることを知る。


「ボクに何をしたんだ?」

「何をしたかは重要じゃない。大事なのは、これから何をするかだよ」


 青蘭は息を呑んだ。

 この女の悪魔が自分に何をするつもりなのかはわからない。だが、ただ食うとか、殺すとか、そんな生やさしいことではないと推測できた。


「おまえがマイノグーラだな?」

「まあ、そんなふうに呼ばれることもある」

「……おまえも快楽の玉を狙っているのか?」


 これまでの悪魔はみんなそうだった。快楽の玉じたいを欲しがるか、それを内包する青蘭を欲しがるか、だ。自由を封じておいて腹をえぐる気だろうかと考えた。


 マイノグーラはアハアハと笑いながら、青蘭の胸をなでる。心臓の上をなぞってから、ゆっくりと手を下腹におろしていった。その手がある地点で止まると、ズキンと痛みにも似た快楽がつきぬける。


 快楽の玉だ。

 そこに快楽の玉がある。

 邪神の魔力を感じて、欲しがっているのだ。強大な魔力を自分のなかに、とりこむために。


「おまえはおもしろいねぇ。心臓が二つある天使は初めて見た。まあ、上の心臓はなんの役にも立たないみたいだけど」


「やめろ! 離せ」


「ダメ、ダメ。あんたはあたしの虜だ。せっかく捕まえたんだから、楽しいことしないと。あたしがあんたの子どもを生んであげるよ。新しい種族を作ろう。犬どもはウルサイばっかりで可愛くないんだよねぇ。まあ、あれの親父にあたるのが触手のビラビラした山羊っぽいバケモノだからねぇ。しゃーないか。知ってるか? シュブ=ニグラス。あいつはふだん女だけど男でもあるんだよ。初期のヤツらはみんなそうだね。両生具有っての? 単体生殖できる原始細胞みたいなもんだ。宇宙の始まりは案外つまんないもんしかいなかったんだよね」


 マイノグーラは長々と話しつつ、青蘭の快楽の玉のあるあたりの皮膚に爪を立てる。えぐりだすつもりではない。獣が甘噛みするように、そうすることで刺激しているのだ。


「やめ……」

「あんたの子どもなら、きっと、とびきり綺麗なのができると思うんだ。あんたもシュブみたいにさ。女だけど男でもある。天使ってそういうものだろ? あたしが男にしてあげるよ」

「…………」


 抵抗しようにも手足をつながれている。


 青蘭の今の体は女だが、快楽の玉を使えば、なんとかなるのかもしれない。


 でも、それだけは絶対にイヤだ。

 天使にとって子どもを作るということは、自分の命を次の世代に譲りわたすこと。自分と伴侶の二つの命を重ねて、たった一つの卵を生む。

 両者の命を一つにするための、生涯最大にして最後の重大な儀式。


 だからこそ、そのへんの誰とでもいいと言うわけにはいかない。想いあった相手でなければ。


 青蘭にとっては龍郎こそが、一生のつがいの相手だ。いつか二人の心臓を重ねるときが来る。それまで、半分の心臓たまごを大事に守らなければならない。


 アンドロマリウスと取引するしかないと、青蘭は思った。

 青蘭は自分のなかにいる魔王に呼びかけた。


(アンドロマリウス。マイノグーラを倒せ)

(いいのか? 青蘭。おまえの体はもうあんまり残ってないんだぜ?)

(……ボクがあんなやつに子どもを生ませることになってもいいのか? それはおまえだって望むところじゃないだろう?)

(そうだが、契約は契約だ。どこをくれる?)


 青蘭は舌打ちをついた。

 アンドロマリウスを使役するためには、青蘭の体の一部を彼に渡さなければならない。それがアンドロマリウスとの契約だ。


 まだ龍郎と出会う前、自暴自棄になっていたころ、考えなしにアンドロマリウスの言うがまま、好きなだけ体を与えてきた。そのころのツケが今まわってきている。

 あと何度、自分はアンドロマリウスを使うことができるのだろう?

 そのリミットは確実に近づいている。


 だが、そんなことを考えているうちにも、マイノグーラは青蘭の上に覆いかぶさってくる。


「あんたとあたしで新しい宇宙を創ろう。もうじき、まがった時間ととがった時間が完全につながって、ヤツらが戦いだす。そうなれば、古い宇宙は消しとぶ。どう? おもしろい提案だろ?」


 青蘭はあせった。

 そんなことは望んでないし、こんな化け物と通じて創世するのなんて、まっぴらごめんだ。


「やめろ! バカ。愚民。離せ、バケモノ。このドブス!」

「あーあ。いきがっちゃってぇ。可愛いねぇ」


 あばれると鎖かロープか、はたまた魔法の拘束なのか知らないが、手足にくいこんで、よけいに痛い。

 このままでは、ほんとにやられてしまう。

 全身から冷や汗が流れおちる。


 すると、そのときだ。

 ガラスのくだけるような音とともに、空間がひび割れた。

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