第六十八話 時の風穴

第68話 時の風穴 その一



 洞窟のなかは湿っぽかった。

 しかし、どこからか風が吹きぬけ、冷んやりとしている。

 入ってすぐのところに、コウモリたちの残した痕跡が糞の山という形で刻みつけられていた。ものすごい匂いだ。

 だが、もちろん、青蘭の言う匂いは、それのことではないのだが。


「龍郎さん……」


 コウモリの公衆トイレにふみこむ勇気が、青蘭にはないようだった。そこで気おくれしたように尻ごみする。


「いいよ。青蘭はここで待ってて」


 だが、青蘭を一人にするのは心配だ。


「英雄さん、青蘭といっしょにいてもらえますか?」

「わかりました」


 アグンは承知するのに、青蘭の目には涙がたまってくる。


「龍郎さんがボクを置いていく……」


 このセリフ、どっかで聞いたなぁ。

 そうか、前に清美さんの実家の怪異を調べていたときに、二手にわかれて調査しようと言ったら、こんなふうに返されたんだった。

 と、龍郎は当時を思い返す。

 まだ青蘭とつきあう前だ。

 ツンデレがやっと少しなついてきたころ。


「すぐ帰ってくるから。ね?」

「ほんとにすぐ?」

「うん」

「ボクが呼んだら一分で帰ってきて」

「約束する」


 ほんの数分のことに、コレだ。

 じっさいにはこの上に誓いの指切りもしている。ふつうの指切りは小指だが、青蘭は二人がペアリングをしている左手の薬指をからめる。

 ほんとに可愛い。甘ったれ。


 今生の別れのように涙ぐむ青蘭を残し、龍郎はさきへ進んでいった。

 スマホの画面を明るくして、周囲を照らす。

 岩壁に模様が見えるようだが、スマホの明かりくらいでは確認できない。ちゃんと懐中電灯を持って、あらためて来たほうがいいだろう。


 そう思ってひきかえそうとしたときだ。

 前方がうっすらと青く輝いていた。

 その光は自然のもののようには見えなかった。放射性物質の放つそれのように、どことなく人体に害をおよぼしそうな不安感をおぼえる。


 龍郎は用心しながら光のもとへ近づいていった。怪しい光のせいで、明るさには困らない。スマホで照らす必要はなくなり、ポケットにしまう。


「あっ! 人が——」


 光の中心に男が一人、倒れていた。

 東洋人であることはまちがいない。

 しばらく、男の体じたいが発光しているかのように青白い光に包まれていた。が、しだいに薄れ、数分後にはおさまる。


「大丈夫ですか? しっかりしてください!」


 かるくゆするが反応がない。

 首筋に手をあてると脈はある。

 かかえて外へ出ようとしたものの、天井が低く、腰をかがめないといけないので抱きあげることができなかった。


「英雄さん! すみません。こっちに来てくれますか? 手伝ってください。人が倒れているんです!」


 外に向かって大声を出すと、アグンがやってきた。

 ふたたびポケットからスマホを出して振ってみせると、それを目印に近づいてきたアグンが、男を見て驚愕の声をあげる。


「ナシルディン! ナシルディンじゃないですか!」

「えっ? この人がナシルディンさん?」

「そうです。私の幼なじみですね」


 なぜ行方不明の男がこんなところに倒れているのか、いなくなっていたあいだどうしていたのかわからないが、ともかく二人で脇と足を持って、外へ運びだす。

 その途中、表のほうで悲鳴が聞こえた。争うような物音も。


(青蘭だッ!)


 青蘭の身に何かあったのか?


「すみません。英雄さん。ちょっと待っててください」


 龍郎は地面にナシルディンをおろし、急いで外へかけていく。


「青蘭!」


 コウモリの残した汚物の山をとびこえて、陽光のなかへとびだす。

 そこで青蘭が人間の男ともみあっていた。青蘭が怒りの形相をしていなければ、ぱっと見ものすごい美男美女カップルなのが悔しい。

 ワヤンだ。村一番の美青年が、絶世の美女に抱きついてる。


「何してるんだ! 青蘭を離せ!」


 龍郎はカッとなって、男をつきとばした。

 ワヤンはジャワ語で二言三言モゴモゴ言って、走り去っていった。


「青蘭、大丈夫?」

「うん」

「何かされたの?」

「うしろから急に抱きつかれて……」

「ごめん。やっぱり一人にしたらいけなかった」


 青蘭は悪魔だけじゃなく、人間の男にも、しょっちゅうさらわれそうになる。男にはみんな、青蘭が純金製の彫像と同じほど魅力的に見えるのだ。


「青蘭。あの洞窟のなかに人が倒れてたんだ。つれてこなくちゃいけない。ほんのちょっとのあいだだけ、あの入口のとこで待てる?」

「うん……」


 話していると、意外にもアグンが一人でナシルディンをつれてきた。かかえているわけではない。ナシルディンが自分の足で歩くのに、アグンが肩を貸している。龍郎がいなくなったあとすぐに、ナシルディンが意識をとりもどしたらしい。


「龍郎さん。ナシルディンの目がさめました。怪我はないみたいですが、いったん、彼の家に送りましょう」

「そうですね」


 ナシルディンについては、さっき洞窟内で運ぶときに、体のあちこちに右手でふれた。悪魔に取り憑かれていたり、マイノグーラが化けているわけではない。

 だいぶ衰弱しているようなので、今は医者に見せることが優先だ。

 いったい、どこへ消えていたのか、なぜ、とつぜん戻ってこれたのかなど、聞きたいことはいろいろあるが。

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