第六十一話 ロバは愚か者

第61話 ロバは愚か者 その一



 雄々しく輝く翼。

 女性のような、少年のような細身の長身。


 それは、まさしく天使だ。

 それじたいの放つ白熱する光のせいで逆光になっているが、シルエットは天使そのもの。


 あぜんとしたものの、迷っているいとまはなかった。

 龍郎は夢中で手を伸ばした。

 天使は龍郎の手をつかみ、力強くひきあげる。


 片手では青蘭の手をにぎりしめている。人間二人がぶらさがっても、天使は難なく飛翔する。


 狼はそのまま、無限階段に落ちていった。力つきたのだろう。


「ヘカトンケイル、狼……みんな、犠牲になって……」

「青蘭。それは彼らの意思だ。君のせいじゃない」

「うん……」


 多少の退魔の力があろうと、ここでは無力だ。魔法の使えない人間には、自力で地獄を脱出することなんて不可能なのだ。ここまで来れただけで奇跡だ。


 そして、今度は天使の力を借りて、龍郎たちはゲートを越えた。

 床に足がついた。

 本来、この場所も暗闇だろうが、天使の体から発する光のせいで、四囲が明るく照らしだされている。


 あらためて天使の顔を見て、龍郎は愕然がくぜんとした。


「なっ、バカな——」と言ってから、でも、そうでもないと思いなおす。

 苦痛の玉の見せた天使の記憶のなかで、その人のことはすでに天使として見ていたからだ。


「リエル……君は天使、なのか?」


 新薔薇十字団のリーダーは、いつものすまし顔で龍郎をながめている。

 だが、そのおもては少しだけ、いつものリエルとは異なる。白目が見えないほど瞳が大きい。まつげが長く、肌もよりすべらかだ。

 もともと中性的な美青年だが、もうそれは人間とは言えない美の領域だ。

 何より、その背中の翼と、三メートル強の身長が、ハッキリと彼の正体を告げている。


「わが名は、ガブリエル。リエルは人間の世界にまぎれこむために使っている最近の偽名だ」と、彼は言った。


「ガブリエル。大天使……」


 龍郎がつぶやくと、ガブリエルは笑った。


「さすがに私の名前くらいは知っているんだな」

「有名だからね。聖母マリアに受胎告知したって、ほんと?」

「そんなことに興味があるのか?」

「いや」


 ほんとに聞きたいのは別のことだ。ただ、聞きたいことがありすぎて思考の整理がつかない。


「つまり、人間には化身してる? 仮の姿なのか?」

「そう」

「なんのために?」

「楽園から盗まれた賢者の石の行方を追うために」

「なるほど」


 言われてみれば、何もかも道理にかなってる。


「じゃあ、君はおれたちのなかにある賢者の石を奪うすきをうかがっていたのか。それで組織に入らないかと、しつこく勧誘したり、おれたちに貸しを作ろうとしていた」

「心外だな。私は誠意を持って対応したはずだ。その気になれば君たちを殺して賢者の石を奪うことはたやすかった。でも、それをしなかっただろう?」

「まあ、そうだな」


 そこはまあいい。

 それより、アスモデウスが堕天させられた詳細なてんまつや、神の密命とはなんだったのか、そもそも神とは誰なのかなど、聞きたいことは山盛りだ。


 そう言えば、以前、リエルとアスモデウスが兄弟だと幻視のなかで聞いた。それも気になる。

 あのとき、リエルはアスモデウスに対して何か不穏なことを言っていた。


 だが、残念ながら、ゆっくり尋ねている場合ではなかった。


 そこは岩壁をけずった住居のようだ。洞穴を利用した原始的な室内だ。

 家具は少ないが、部屋の中央に龍郎たち以外の人物がいる。


「ガブリエル。ここ、まだ魔界だよな?」

「ああ。リンボからタルタロスへ来たにすぎない」

「じゃあ、あのおばあさんは悪魔だな?」

「そうだろう」


 いかにも中世の魔女然とした服装の老婆が、大鍋をかきまわしている。鍋のなかは煮えたぎり、異臭を放っていた。見ると、血のような色の液体のなかに、人間の手足のようなものが原形をとどめたまま、なげこまれている。

 怪しい。

 怪しすぎる。


「もしもし、おばあさん。ここはあなたの家ですか?」


 龍郎は自分でも無意識に、童話のなかのセリフのような古くさい呼びかけをしていた。


 老婆はゆっくりとふりかえる。

 長いわし鼻のいかにも魔女っぽい顔立ち。でも、その瞳を見て、龍郎は妙な気がした。

 どこかで、会ったことがある?


「おまえさんがた、道に迷いなすったな?」

「ええ、まあ。もう一度、マダム・グレモリーに会いたいのですが、どうしたら行けますか?」


 老婆は黙って鍋の中身をかきまわす。


「ご存じないですか? では、せめて、タルタロスから上層階へ行く道を教えてもらえませんか?」


 老婆はそれにも答えなかった。

 かわりに木の器を手にとり、鍋の中身を盛りつけた。


「スープでもいかがですかな? 疲れておられましょう」


 ひひひと、老婆は器をさしだして笑う。

 毒でも入っているんじゃないだろうか。

 それ以前に、人間の手足を具材にしたスープなんて食べられない。

 そう思うのに、なぜか急に空腹を感じた。器の中身がひどく魅力的に見える。ほかほかとゆげを立てたスープ……いや、よく母が作ってくれた豚汁だ。龍郎のうちでは、豚汁と言えば味噌汁ではなく、かす汁だ。


「——龍郎さん!」


 とつぜん、青蘭に大きな声で呼びとめられて、龍郎はハッと心づいた。無意識に伸ばして器を受けとろうとしていた手をおろす。


「龍郎さん。あんな得体の知れないもの食べちゃダメだ。きっと毒入りだよ」

「あ、ああ……」


 龍郎は老婆をうかがった。

 老婆の目は笑っている。

 それを見て、とうとつに気づいた。

 この老婆は龍郎を試している。

 龍郎が老婆を信用するかどうか確認しているのだと。


 ほんとにただの毒入りかもしれない。龍郎たちをらくに殺すための手段にすぎないのかも。


 でも、その瞳が誰のものなのか、龍郎は悟ってしまった。


 龍郎は青蘭の制止をふりきって、器を手にとる。

 赤いドロドロの液体をいっきに飲みこんだ——

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