第五十九話 辺土

第59話 辺土 その一



 魔界でアンドロマリウスの実験について調べるつもりだった。

 知り得たのは、それよりもっと根源的かつ重大なことばかりだ。


 天使の卵——


 でも、これで、アンドロマリウスの目的が明確になった。

 アンドロマリウスは自分の体を使った実験で、天使に類似した“擬似天使”を造りあげた。

 そのなかにアスモデウスの心臓を埋めこみ、悪魔退治をさせることで、命を生みだす力を快楽の玉に集めようとしている。


 そして、アンドロマリウスは苦痛の玉も欲しがっていた。

 最終的に快楽の玉と苦痛の玉を一つにするためだ。二つの玉が一つになったときにできるという命の玉を——天使の卵を生成しようとしている。


 おそらくは、そこからアスモデウスの新たな肉体を完全復活させるという目的で。


 天使の卵はその元となった天使のうちの、どちらか一方を蘇らせるようだ。

 それがどちらになるかは天使たちにもわからない。ランダムに決まる。

 狙ってアスモデウスを復活させるには、別のなんらかの手段が必要になってくるのだろうが、そこもあらかじめ細工ずみなのかもしれない。


(そんなことしたって、アスモデウスには恋人がいたんじゃないか。どうせ、報われないのに)


 と思ったが、新しい卵から生まれ変わると、それ以前の想いは消えるのかもしれない。

 そうでなければ、一度でも心臓をかさねて輪廻したことのある天使は、そのときの相手を思って泣き続けることになる。以降、誰とも繁殖しないわけだから、新しい命の玉が作られなくなる。


 どっちみち、天使は天使同士でしか、つがいにならない。

 アンドロマリウスには望みのない恋だ。そんなことも彼には関係ないのだろうか。アンドロマリウス自身が言っていたように、ただいてくれるだけで満足なのか。


 ため息をついていると、どこからか矢がとんできた。


「危ない!」


 あわてて、青蘭を抱いて地面にふせる。

 レラジェが追ってきたのだ。

 まだ生きていたらしい。


「あいつをなんとかしないと。あれにあたれば、おれたちも腐ってしまうぞ」

「アンドロマリウスに退治させよう」

「…………」


 アンドロマリウスの狙いがわかった今、それはさけたい。


 アスモデウスとして復活したとき、青蘭はどうなってしまうのだろう?

 やはり、アスモデウスの魂として新しい肉体のなかに復活するわけだから、それ以前の記憶はなくしてしまうということだろう。

 青蘭はアスモデウスとなり、龍郎のことを忘れてしまう。


 それでも、アンドロマリウスが主張したように、ほんとうに青蘭のためを思うなら、アスモデウスとして蘇らせるべきなのだろうか?


 青蘭という擬似天使は仮の姿だ。

 それも体内にある快楽の玉の力で美貌を保ってはいるが、じっさいには火事のときの傷跡で大きく損なわれている。

 みじめで、憐れな存在。

 その体も死ねば、また別の人間として儚い生をくりかえすことになる。


 アンドロマリウスの言うとおりだ。

 青蘭の幸福を思うなら、大いなる智天使として蘇生させるべき。

 青蘭もそれを望んでいる。

 今度こそ一つになろうと言った……。


「龍郎さん! 次が来るよ」

「ああ……逃げよう」


 ぼんやりしている場合ではなかった。

 レラジェの矢が飛んでくる。

 あわてて、闇のなかへ走りだす。


「なんとかして、本体のいどころをつきとめたいな」

「暗くて見えない」


 たしかに、そうだ。

 タルタロスの鍾乳洞は青白い光に、ほんのりとだが照らされていた。それが無数の虫の作る光とは言え、視界がきくことはありがたかった。


 だが、リンボにはその虫もいないらしい。明かりになるものが何もない。

 青蘭の居場所だけは、なんとなくわかるのだが。


(あれ? なんで、青蘭のことはわかるんだろう? これって、なんの感覚なんだ?)


 とにかく、青蘭の手をひいて走る。

 地面を足でふみつけるたびに、何かが悲鳴をあげた。同時に、ぬるっとしたイヤな感触が広がる。

 ただの土や岩の地面ではないようだ。そういえば、ふみしめる触感も岩よりだいぶ、やわらかい。


 レラジェはその音を聞きつけて追ってくるようだ。正確に狙ってくる。そのたびに姿勢を低くしてよけた。


(せめて、相手の姿が見えればな)


 ヘカトンケイルの部屋がくずれて、タルタロスから落ちるとき、レラジェらしき姿かかすかに見えた。緑色の狩人のような服を着ていた。


 それにしても、どこからか血の匂いがする。青蘭のかぐわしい花のような香りをかぎわけにくくなる。

 顔をしかめた龍郎だが、ハッと気づいた。


 匂いだ。

 青蘭のことは姿が見えているわけじゃない。独特なその香りで、無意識に判別していた。

 ということは、もしかしたらレラジェも龍郎たちのことを匂いで追ってきているのかもしれない。


「青蘭。血の匂いがするよね」

「うん。足元から」

「足元?」


 青蘭のほうが龍郎より嗅覚がするどい。

 身を低くして、あたりの匂いをかいだ。なるほど。血の匂いが濃くなる。

 もしや、この地面のヌルヌルした感じは、そのせいだろうか? 周囲一帯が血でぬれているのかもしれない。


 龍郎は思いきって地面に手をあてた。右手だった。利き手だから自然に使ってしまう。


 うぎゃあーッと激しい苦痛の声が大地からあがる。肉のこげるような匂いも。ヌルヌルが増した。


 手にふれたのは草のようなものだが、龍郎の右手で焼ける。

 つまり、悪魔か亡者だ。


 龍郎はゾクリとした。

 足の下いちめんに、亡者がよこたわっている。

 龍郎たちはその上を歩いているのかもしれない。

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