第59話 辺土 その二



 血の匂いが濃くなったせいで、レラジェは龍郎たちの正しい位置が把握できないようだ。飛んでくる矢の位置が微妙にそれる。


 そう言えば、矢も見えていないはずなのに、どこから来て、どこへ向かっていくのかわかる。矢じりにぬってある猛毒の匂いと、矢羽が風を切る音のせいだ。


 音と匂いの感覚だけで、おたがいに相手の場所を見きわめている。


 龍郎は考えた。

 足の下にあるのが亡者なのか悪魔なのか、はたまた、それ以外の何かなのかもわからないが、この血の匂いは使える。


 草のようなものをにぎりしめ、力いっぱい持ちあげると、ギャッという悲鳴とともに、それがひっこぬけた。ドクドクと生あたたかいものが足をぬらす。やはり、この鉄っぽい匂いを発しているのは、この草のような何かの体液だ。


 龍郎はそれを矢の飛んでくる方向になげた。次々にひきぬいて、四方八方にバラまく。

 闇の向こうで、チッと舌打ちの音が聞こえた。レラジェは四散した血の匂いのせいで、こっちの位置をつかめなくなったようだ。


 このすきに逃げだせば……。

 だが、それではすぐにまた追いつかれる。


「青蘭、ここにいて」


 耳元でささやくと、ささやきが返ってきた。


「ダメ。ボクも行く」


 ぎゅうっと龍郎の手をにぎりしめてくる。

 しかたない。

 やみくもに矢を射られれば、どこにいても危険は同じだ。それより闇のなかで離ればなれになるほうが心配だ。


 龍郎は青蘭の手をにぎったまま、そっと足音を殺して歩きだした。

 草のようなものをふみつけると、うめき声をあげるが、さっきひきぬいたヤツらが耳をつんざくような声で叫び続けているので、それもかきけされる。


 いっきに走る。

 さっきから障害になるものがなかった。ここはかなり広い空間らしく、鍾乳石や石筍のようなものはない。

 そう考えて、全力に近い速度で走っていった。矢の飛んできたほうをめざす。


 レラジェが血の匂いにまどわされているのは、短時間だろう。おそらくは十分とか、十五分とか、そんなもの。

 それなら、逃げるより、このすきにこっちの攻撃が届く範囲に近づいていくほうがいい。


 数十メートルは進んだ。

 暗闇のなかで匂いだけを頼りに矢を放つには、このていどが限界だろう。


 その場所で、龍郎は右手に意思を集中した。退魔の剣が凝る。青い清冽な光を放ち、あたりを明るく照らしだす。


(見えた——!)


 レラジェだ。緑色の中世風の服を着た狩人。大きな弓を手にしている。

 距離は五メートル。

 思いのほか近い。


 レラジェがあわてふためいて矢筒から矢をとり、つがえる。

 だが、龍郎のほうが速い。


「チェストッ!」


 薬丸自顕流で大きくふりかぶり、刃を叩きこむ。

 みごとに体の中心をとらえ、レラジェは真っ二つに裂けた。

 人間なら、当然、死ぬ。

 が、レラジェはまだ息があった。

 こんなとき、頑丈な悪魔は哀れだと、龍郎は思う。


「おまえ、そんなに快楽の玉が欲しいのか?」

「違う。助けてくれ。滅さないで」

「どう違うんだ?」

「命令されただけだ」

「誰に?」

「……それは、言えない」


 アンドロマリウスは追跡者がレラジェだと知ったとき、妙な表情をしていた。レラジェに命令した者の心当たりがあったのかもしれない。


(アンドロマリウスの知りあいか?)


 アンドロマリウスの交友関係など知らないが、以前、幻視したとき、仲間らしき悪魔と話しているところを見た。

 頭に三本の角があった。いかにも悪魔らしい悪魔の姿をしていた。

 たしか、名前は……?


 青蘭がつぶやいた。


「——サルガタナス。レラジェの上官はサルガタナスだ。サルガタナスはアスタロトの配下。それに、サルガタナスの部下のなかには、フォラスもいる」

「フォラス? それって、アンドロマリウスが実験を頼んだ悪魔じゃないか?」


 そうだ。

 それに、マダム・グレモリーがベルサイユ宮殿で会う約束をしていたのも、フォラスだ。

 文献には載っていないが、グレモリーとアンドロマリウスは親しかった。フォラスとも同じていど親しかったということではないだろうか?


 フォラスなら自分の実験の結果を見届ける前に、青蘭を殺すことはない。フォラスは何よりも智を重視するタイプのようだから。

 となれば、残るは……。


「……グレモリーの頼みで、おれと青蘭を殺しに来たのか?」


 レラジェが答えることはなかった。

 そのとき、青白く光る巨大なものが迫ってきた。ぼんやりと人の形をしている。しかし、頭部は盛りあがり、花弁のように何かがつきだしているので、シルエットは異様な形をしていた。


 ヘカトンケイルだ。

 龍郎の剣の放つ光を見つけて近づいてきたのだ。


 ヘカトンケイルは巨体にふさわしからぬすばやい動きで駆けよってくると、二つにわかれたレラジェの体を両方つかんだ。

 龍郎たちの見ている前で、泣きわめくレラジェに巨大な口でかぶりつく。食うためというより苦痛をあたえるためのようだ。ヘカトンケイルが大事にしていた宝物を壊したレラジェに、怒りをぶつけたのだ。


 結果的に、レラジェは巨人に喰われた。

 咀嚼そしゃくの音と断末魔の声が、しばらく続いた。

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