第56話 魔界行 その七



 てっきり、老人と自分のほかは無人だと思っていた。

 だが、よく見れば、洞窟の岩壁ぞいに、たくさんの牢がある。石筍のかたまりにすぎないと思っていたものが、なかは空洞になっていて、ごく小さな鳥みたいな悪魔がクチバシを出していた。天井からつりさげられたカゴのような牢屋もある。


「敗戦の将って、こんなにいるのか」

「大戦だったからな。負け戦を喫した者も多い」


 以前、幻視のなかで見た大戦。

 あのときの幻には、ひじょうに重要なヒントが隠されていた。

 それがなんだったのか思いだせない。

 しかし今はそれどころじゃない。

 とにかく、逃げださなければ、ヘカトンケイルがやってくる。


「全部、牢から出すってわけには——」

「愚かなことを言うでない。やつらは旧支配者側に寝返った者どもぞ。戒めを解けば、人の世をかきまわそう」


 それもそうだ。

 人間が悪魔と認識している者たちは、どちらかと言えば精霊と呼んだほうがいいようだ。大地の力が凝縮して生まれた、なかば霊的なもの。

 とは言え、そのすべてが人間から見て善であるとは言いがたい。


 とにかくこの場から遠ざかろうと走りだしたとき、天井からつるされた牛の面をかぶった魔神が声高に叫んだ。


「そいつを信用するのか? そいつはベリトだぞ」


 ベリト?

 どこかで聞いたことがある。


 龍郎の持つ悪魔や天使やクトゥルフの邪神たちの知識は、ほとんどがネットで調べたものだ。

 青蘭と出会って、そういうものと戦うようになったあと、急遽つめこんだ、まにあわせの知識でしかない。

 全部はとても覚えきれていないし、その情報源じたいが間違っていることだってある。


 ベリト……たしか、魔王の名前だったろうか?

 しかし、当人はソロモンだと名乗った。


 龍郎は迷ったが、とりあえず逃げだすことを先決にした。


 それにしても、これだけ騒げば番人が来ると、なぜ、彼らは考えないのだろう。冷静なら、ひっそりと逃げだすために声をひそめ、チャンスを確実にする。

 それができないほど、精神性を破壊されているのかもしれない。

 人間だって真っ白な何もない一室に一人で監禁されれば、すぐに変調をきたすという。彼らはそれより遥かに長い歳月、幽閉されているのだ。魔物とは言え、この静かな拷問はキツイのだろう。


「こっちだ。ここから別の穴に行ける」と、老人は手招きした。


 石筍に隠れて見えにくいが、岩壁に穴がある。その奥にもトンネルが続いている。龍郎が通るには腰をかがめれば充分だが、老人がくぐりぬけるには四つんばいにならなければならない。


 よく見つけたなと龍郎は思った。

 ずっと前から逃亡するときのために目をつけていたのだろうか。


 ドシン、ドシンとあの足音が近づいてきていた。

 龍郎は考えるいとまもなく、その穴に入っていった。

 青蘭をかかえているから全速力というわけにはいかないが、どうにかヘカトンケイルがやってくるまでに、七、八メートルは離れることができた。


 ここもヒカリゴケのようなもので青く発光している。

 しかし、進むうちに龍郎は気づいてしまった。

 こけじゃない。

 妙にザワザワうねると思えば、それは虫だ。体長一センチほどの糸みたいな虫が無数に岩に張りつき、あわく光っている。大量の虫の巣だ。

 そこそこ気味悪い。が、魔界だから、こんなものかと龍郎はあきらめた。


 枝道はだんだん先細りになってくる。

 ほんとに別の洞窟に通じているのだろうか?


 龍郎が心配になっていると、とうとつに目の前がひらけた。

 丸いテーブルのような岩が中央にある空間。天井が高く、広さは十二畳ていど。岩窟であることに変わりはないが、小さな窓のような切りこみが多数あり、部屋のように見えなくもない。


 テーブルの上にライオンが寝ころんでいた。異形の獅子だ。頭部と足はガチョウのそれで、尻尾が丸いウサギ。背中に小さな羽もある。よこたわっていても、頭が天井につかえそうだ。


 ライオンは龍郎を見ると、人語を話した。


「予言しよう。おまえはおまえの時間で五つ数えるうちに死ぬ」


 五つ……五秒ということだろうか? あるいは五分? いや、五分を認識するには三百も数えなければならない。やはり、五秒だろう。

 それはつまり、このライオンに五秒後、襲われるということか?


 わけのわからないヤツが次々と出てくるなぁ、さすが地獄の底だと、龍郎はため息をついた。


「我はイポス。過去と未来を告げる者。いや、しかし、おまえの未来は……」


 ライオンはブツブツ言いながら目をとじて瞑想を始める。


 五秒はとっくに経過している気がするが、とくに何も起こらない。

 ライオンにも龍郎をどうにかするつもりはないようだ。

 安心して、そこから進む道を探した。

 そのときだ。

 急に背後からブンッと風を切る音が聞こえた。風圧が背中をなでる。

 ふりむくと、すぐそばに岩石のようなものが迫っていた。

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