第54話 轆轤の井戸 その三



「凄惨な死にざまの瞬間をそのままに遺すことこそ、諸行無常の理の表現。いでよ。井戸の底の大蝦蟇。やつらを見るも哀れな死体にするがよい。さすれば、至高の首茶碗の材料が手に入る。わんさかとな。わんさか」


 陶吉はしだいに目ばかりが爛々らんらんと光り、異様に手足が長く、頭でっかちな化け物へと変容していく。グロテスクな黒い宇宙人のようだ。

 彼が縄を引くたびに、青い清水の幻影があふれ、頭上の黒い渦巻きが力を得て脈動する。


「やめろ! 陶吉。おまえはツァトゥグアにあやつられているんだ!」


 しかし、欲望の虜となった悪魔だ。他人の言葉など耳に入るわけもない。

 陶吉は縄を引く手を早める。キリキリと轆轤がまわった。

 どこからかわからない地鳴りが彼方から近づいてくる。


 龍郎はなんとか陶吉にとびつこうとするが、黒い渦巻きが突風のようにまきおこり、井戸に近づけない。


(くそッ。どうしたら……)


 地鳴りと脈動の間隔が短くなる。

 このままではツァトゥグアが降臨してしまう。


 そのときだ。

 とつぜん、何者かが陶吉の背中にしがみついた。ギャーッとものすごい悲鳴が、あたりに響きわたる。


 神父だ。

 フレデリック神父が片腕で陶吉の首をホールドしながら、ロザリオを押しあてている。神父のロザリオの接した陶吉の背中から黒い煙があがった。

 陶吉の手から縄が離れ、つるべが落ちる。突風がやんだ。


「龍郎くん。今のうちだ。召喚をとめるんだ!」


 神父に言われるまでもない。

 一刻も早く、そうしたい。


「どうやったら止められるんですか?」

「縄を切って、轆轤がまわらないようにしろ。それから、井戸の蓋を閉めるんだ」

「わかりました」


 龍郎は井戸にかけよった。が、縄は思ったより頑丈だ。切ると言っても素手ではムリだ。


「何してる! 早く、これで——」


 神父がポケットからナイフをとりだして投げ渡してくる。

 龍郎はそれを受けとり、縄目に刃を食いこませた。


 陶吉が叫び声をあげ、抵抗する。

「やめろ! 愚か者どもがァー! わしの邪魔をするな!」


 陶吉が長い腕をふりまわすと、神父がふきとばされた。龍郎が手を貸すために、ふみだそうとすると、神父がとどめる。


「君はそっちに専念しろ!」


 たしかに、そのとおりだ。

 龍郎は必死に手を動かした。繊維の一つ一つがプツプツと切れていく。

 ようやく、縄が切断できた。


「青蘭! 手を貸してくれ。蓋をもとに」

「うん」


 とは言え、ぶ厚い石の蓋だ。かなりの重量がある。陶吉は悪魔の腕力だからこそ、一人で開けたのだろうが、人間の龍郎たちは厳しい。うなっていると、穂村が目をさましてきた。


「穂村先生! 手を貸してくださいッ!」


 穂村は現状を飲みこんでいたかどうかわからないが、戦っている神父と悪魔、そのわきで悪戦苦闘している龍郎たちを見て、とりあえず言われたとおりにしてくれた。

 ななめに立てかけられた蓋に、三人が体重を乗せると、なんとか重い蓋も井戸にかぶさった。はみだした部分を全身の力で押しこむ。ずりずりと石組みの上をすべり、ようやく蓋は閉まった。


 陶吉と神父は、まだ上になったり下になったり、もみあっていた。陶吉の体はいたるところから煙があがり、火傷を負っている。

 神父がロザリオを左手に持ちかえ、それで陶吉の顔半分はありそうに肥大した右目につき刺した。

 とたんに陶吉の頭部が炎に包まれる。

 神父は陶吉をつきとばし、その下からぬけだしてきた。


「やっと、やったか? 私も君たちくらい力があればな」

「いえ。助かりました。これで、なんとか収束しますかね?」


 だが、空にはまだ、うっすらと黒い渦巻き雲が残っている。急速に薄れてはいるが、完全に消滅してはいない。

 なんだか、おかしい。


「……とにかく、陶吉を退魔してしまいましょう」

「そうだな。召喚者が生きていると、魔法が解けない」


 陶吉は頭部の炎が全身に燃えひろがり始めていた。見た感じは、もう命があるようではない。とは言え、相手は悪魔だ。用心に用心を重ねておくことにした。


 龍郎が右手に意識を集中すると、退魔の剣が現れる。

 それでひとなぎしたら、悪魔の体はきれいに滅却する。


 だが、龍郎が歩みよろうと足をふみだした直後だ。

 とつぜん、陶吉が立ちあがった。

 それが陶吉の意思だったのか、ツァトゥグアに体だけあやつられての行動だったのかはわからない。


 陶吉は全身、燃えあがりながら、井戸の石蓋の上に飛びのった。二、三度、すばやく足をふみしめると、ビリビリと蓋に亀裂が走る。


「マズイぞ。龍郎くん。急げ!」

「はいッ!」


 龍郎は急いで腕を伸ばし、陶吉を切りつけた。

 が、そのときにはすでに遅かった。

 陶吉は笑いながら、井戸の底へ落ちていった。石蓋が崩れおちている。


 陶吉の哄笑とわめき声が、井戸のなかで尾をひく。


「わしを食え! 大蝦蟇よ。わしは大蝦蟇と一つになる。神になるのだッ。今こそ、わしは——」


 ドン!——と、どこか遠くで衝撃が走った。

 大地が激しく鳴動する。

 黒雲がさっきより濃い渦巻きを空に描いた。

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