第四十八話 人喰い熊

第48話 人喰い熊 その一



 アクレサンダーは人なつこい犬だ。

 完全に散歩だと勘違いしている。

 龍郎は片手に犬の鎖を持ち、片手で青蘭の手をにぎりながら、本日二回め、六地蔵に向かっている。


「このへんかな。住職は六地蔵の前を通りすぎてから五十メートル付近で北東に向かう昔の山道があると言ってた」

「あれじゃない?」

「ああ、そうだね」


 片側が切りたつ崖になった例の道。

 反対側は山肌になっている。

 車で通ったときには気づかなかったが、杉の木のあいだに枯葉に覆われた道らしきものがあった。

 車道から見ただけでも暗い。


「これは昼間でも懐中電灯あったほうがよかったかな?」

「龍郎さん……」

「うん」


 嫌な匂いがする。

 それに、アレクサンダーが急におびえだした。

 もしかしたら、この感じは……。


「行くか」

「うん」


 薄暗い細道へと入っていった。山道だから起伏が多い。登ったり下ったりしながら、二十分ばかりも歩き続けると、やがて廃屋が見えた。屋根は斜めに崩れおち、半壊している。以前はそこで炭を焼いたのか、石窯に似たものの残骸もあった。


 なんだか、空気がネバネバしている。ねっとりとよどんだ瘴気しょうきだ。


 手前にこんもりと、やや低めの傾斜。その背後には急峻きゅうしゅんな山脈へと続く岩肌が見えた。

 廃屋はその稜線りょうせんのはざまにつぶれたシルエットを見せている。その周辺だけ、まるで焼けただれたように木々が枯れていた。


 雑木のあいだから、龍郎は一歩、ふみだした。廃屋に近づいていく。


 遠くから見たかぎり、そこは無人のようだった。

 だが、二十メートル手前まで来たときだ。とつぜん、キャンと鳴いて、アレクサンダーが逃げだしていった。一目散に来た道を戻っていく。


「あっ、こら、アレクサンダー!」


 借りものの犬を迷子にするわけにはいかないと龍郎は焦った。が、つないでいた手を、青蘭が強くにぎりしめてくる。


「龍郎さん! 見て——」


 言われてふりかえった。

 つぶれかけた羊羹ようかんみたいな廃屋。

 その木造の建物の戸口から、何者かが覗いている。


 人喰い熊だと、とっさに龍郎は思った。黒っぽい毛並みが目についた。


 だが、よく見ると、熊じゃない。その熊には人間の顔がついている。ただ、その顔色は生きている人のそれではなかった。青白い死人の肌をして、熊の毛皮をまとった、またぎのような服装の男。ひげがぼうぼうに伸びて、原始人のようにも見える。異様な風体のなかで、双眸がギラギラ輝いていた。その姿は人形ひとがたでこそあるものの、飢えた熊そのものだ。


「貪食だ!」


 青蘭の叫び声が合図になったかのように、それは廃屋のなかから這いだしてきた。デカイ。穴ぐらのようにつぶれた、あの小屋のどこに、どうやって収まっていたのだろうという巨体だ。三メートルはある。


 そいつが“人喰い熊”であることは明白だった。首に白い人骨らしきものをいくつも紐に通してぶらさげている。ちようど遠目には、それがツキノワグマの喉元の白い模様のようだ。


 貪食は獣じみた咆哮ほうこうをあげた。森が揺れる。

 とがった牙は狼のように鋭い。

 そいつは、ギロリと龍郎たちに視線をなげると、いきなり駆けだしてきた。


「うわッ!」

「こいつ、ボクらを食う気だ!」


 それは、かつては人間だったはずだ。

 いったい、何があって、そうなったのかわからない。


 この山奥の一軒家で、冬、食糧がつきたなら……。

 一家にいたのは、長男以外、すべて女ばかり。“人喰い熊”が好物とする、女の肉だけが、そこにあったなら……。


 貪食はうなり声をあげながら疾駆しっくしてくる。すごい速さだ。自動車なみの時速は出ている。じっさいに熊の走行速度はヒグマで時速五十キロ、ツキノワグマで三十五キロとも言われる。とても人間の足では逃げきれない。


 またたくまに、それは龍郎たちの前に立ちはだかった。牙をむいて襲いかかってくる。長いかぎ爪のついた両腕を高くあげ、ふりおろそうとする。


 龍郎は右手をかかげた。

 パッと光が差し、熊は目をくらました。やみくもにふりまわす爪が杉の木にあたり、幹に大きな爪痕が残る。ゾッとするほど深くえぐれている。


(あれをまともに食らってたら、一撃で腹が引き裂かれてるな)


 龍郎は落ちていた木の枝をひろいあげた。両手でにぎりしめると、苦痛の玉の波動が伝わる。それで熊のすねを叩いた。肉のこげる匂い。


「ギャッ」と熊が叫び、大きく腕を左右にふった。軽くなでられただけなのに、龍郎は体ごと、ふっとんだ。杉の幹に思いきり背中を打ちつける。一瞬、気が遠くなった。


「龍郎さん!」


 青蘭が青ざめ、魔王の名を呼ぶ。

「アンドロマリウス!」


 龍郎は必死でひきとめた。

「ダメだ! その力はなるべく使うな。青蘭!」

「でも……」


 青蘭のなかにいるアンドロマリウスの力を使うためには、青蘭は自分の肉体の一部を代償として引き渡さなければならない。もうあまり、渡せる場所は残っていないはずだ。


 青蘭の肉体がすべてアンドロマリウスのものになったとき、青蘭自身はどうなってしまうのか?


 それが明確になるまで、龍郎は青蘭にできうるかぎり、その力を使ってほしくなかった。


 しかし、この悪魔、強い。

 これまでの低級悪魔とは違う。

 低級悪魔なら龍郎が苦痛の玉の宿る右手でふれただけで消滅するのに。


(ちょくせつ右手でさわってないからか? なんとかして、こいつのふところに入りこまないと……)


 考えるあいだも視界がぼやける。

 そのまま、失神した。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る