第四十三話 失われた唄の追憶

第43話 失われた唄の追憶 その一



 海鳴りが唄のように聞こえる。

 ふたたび、この場所へ帰ってきた。


 青蘭が両親と五歳までをすごした屋敷。そして、十六歳で出ていくまで、監禁に等しい状況で縛られていた、地獄のような診療所。


 それらのある孤島に。


 島へはこの前のように、漁師に頼んで船で運んでもらった。

 食料品はまだこの前に運んだものがある。缶詰やレトルト食品を診療所のなかに持ちこんでいた。この前はけっきょく、まったく手をつけずに帰ることになった。もしまた来るときがあればと思い、そのまま残しておいたのだ。


 漁師に二十四時間後、迎えにきてくれるよう頼んだ。そのあとは、島に龍郎と青蘭の二人きりだ。


 日が暮れかけている。


「診療所のなかには電気が通ってなかったよね?」

「うん」

「じゃあ、どうやって、なかに入る? 入口、自動ドアだけど」

「こっちに従業員用の出入り口があるんだ。鍵を僕が持ってる」

「鍵、持ってきてたんだ」

「いつも身につけてるよ」


 前回、龍郎たちが来たときには、すでに鍵のあいていた通用口。青蘭はその前に立つと、服の下から銀の鎖をひきだす。ペンダントのトップのかわりに鍵が通してあった。あきらかに装飾的な鍵ではなく、実用的なものだ。

 その鍵を使って、青蘭は表玄関の横にある鉄のドアをひらく。


「今夜はここに泊まろうよ」と、青蘭は言った。

「そうだね」

「屋敷のあとには寝る場所はないし、見てまわるのにも明るいほうが便利でしょ?」

「ああ」


 あの列車をおりてから、龍郎は聞きたいのに聞けない。

 青蘭が何を思いだし、どこまでを知ったのか。

 見たかぎりでは、これまでと態度は変わっていない。


 急速に日がかげる。

 診療所の玄関ホールに、いくつものダンボールが積みかさなって置かれている。龍郎たちの持ちこんだものの他、青蘭が運びこませたものもあるようだ。


「このなかに、たしか懐中電灯も入れておいたんだけど」と言って、青蘭はダンボールのなかをさぐっている。


「ねえ、青蘭」

「うん?」


 いざ、たずねようとすると、心臓がバクバクした。緊張が高まる。だが、聞かないわけにはいかない。


「さっき、列車のなかで言ってたことだけど」

「うん」

「青蘭、何を思いだしたの?」


 急に明るい光がさしつけられて、龍郎は目をとじた。青蘭がくすくす笑う。


「あった。懐中電灯」

「まぶしいよ。青蘭」


 光の輪がそれる。

 龍郎は、ほっと息をついて、青蘭を見なおした。そして、ドキッとする。いつもの青蘭にはない表情だった。甘えん坊な青蘭でも、出会ったばかりのころの高飛車な青蘭でもない。


 その微笑みは、見る者を星のまたたきをながめているのと同じ気分にさせる。深遠な宇宙の謎を秘めた、人智を超える何か。そんなものを見るような心地に。


「わからない。ただ、胸の奥で唄が聞こえる。その唄がやむとき、ほんとのボクが目をさますんだ」

「…………」


 思わず、龍郎は安堵した。


 青蘭はアスモデウスをとりもどした。おそらくは天使だったころのアスモデウスの記憶を。しかし、アスモデウスはあいかわらず、青蘭のなかで眠っている。以前の青蘭の状態に戻ったということなのだろう。


(よかった……のか? でも、それなら、アンドロマリウスはどうなったんだろう? 青蘭が悪魔と戦うには、アスモデウスではなく、アンドロマリウスの力が必要だ)


 それとも、アスモデウスが完全に覚醒すれば、青蘭は誰の力を借りることなく戦えるのだろうか?

 アスモデウスはもともと悪魔と戦っていた。そのころの記憶が戻れば……。


 青蘭のためを思えば、アンドロマリウスに体を細切れに奪われていくより、自力で身を守れるほうがいいに決まっている。


 試しに問いかけた。

「アンドロマリウスのことは思いだした?」


 青蘭はダンボールから缶詰をとりだしながら首をふる。

 やはり、アンドロマリウスは青蘭のなかからいなくなったままらしい。


 龍郎は青蘭を手伝って、ワインのボトルと紙コップなどを手にとった。

 院内を歩く青蘭についていく。


 青蘭は一室の前で言った。

「ここ、ボクが使ってた病室だよ」


 白い壁。窓の一つもない、強い圧迫感のある六畳ほどの部屋。

 部屋の片側にクィーンサイズていどのパイプベッドが置かれている。

 ほかに家具らしいものが何もない。小さなテーブルが一つだけ壁ぎわに置かれていたが、よく見ると、それは床に作りつけになっていた。


(こんな部屋で、十年も……)


 外からドアに鍵をかけて幽閉されていたのだ。それはもう精神的な拷問と言える。


 龍郎が黙りこんでいると、青蘭は微笑した。


「でも、もう平気だよ。ボクには龍郎さんがいる」

「ああ」


 笑顔が痛ましい。

 やはり、どんなことがあっても、この人を守らなければ。

 この笑顔をずっと、絶やさないように。


「青蘭。つらいなら、別の部屋に行こうか?」

「いいんだ。ここにいると、なんだか、いろいろ思いだせそうな気がする。さっき、深海の底を漂っているとき、子守唄が聞こえた。ボクは宇宙を旅する鳥だった。でも……」

「でも?」


 青蘭は心の声に耳をすますように目をとじた。長いまつげが懐中電灯の黄色い光のなかでふるえている。


「思いだせない。でも、快楽の玉は赤かった。血のように赤い結晶だった」

「見たことがあるの?」

「うん。ある」


 賢者の石を盗んだ罪で、アスモデウスは堕天させられたのだという。

 どうやら、それは真実のことのようだ。


「そういえば、龍郎さんもボクに何か言いかけてなかった?」

「ああ……」


 やはり、言うべきだ。

 ここまで思いだしている青蘭に隠しとおすのは卑怯だろう。


「あのね。青蘭。以前、ここに来たとき、おれは五歳の青蘭にあったんだ。青蘭の記憶の結界に入ったろ?」

「あったね」

「あのとき、五歳の君が言ってた」

「なんて?」

「うん。あのね——」


 話しかけていたとき、離れた場所で音がした。足音のようだったが。


 ここは無人島だ。

 島内には龍郎と青蘭しかいない。


「……今の音」

「行ってみよう」


 龍郎は青蘭とともに廊下をのぞいた。

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