第42話 黄泉比良坂 その四



 じっとルリムの赤い目を見つめる。

 ルリムは龍郎の決意をうながす。


「どう? やる?」

「おれたちの愛が本物なら問題ないんだよな?」

「ええ」

「じゃあ、やるよ」


 答えたとたんだ。

 龍郎の足元が崩れた。

 ガイコツたちが雪崩なだれのように奈落の底へころがり落ちていく。


 龍郎の立っている場所は、どうやら列車の連結部の手前だった。だが、その一歩さきに底知れぬ谷底が口をあけている。断崖絶壁だ。一度落ちたら、二度と這いあがることはできないだろう。地獄へ続く深淵だと直感する。


「ここは……」

「黄泉の入口」

「これが、黄泉」


 見つめていると、遥か底のほうでグルグルと光が渦巻いて、目がまわる。星くずのような光だ。渦をまくようすは銀河に見えた。


 その暗い底から、無数の白い腕が伸びている。青ざめた死人の腕だ。男の手。女の手。子どもや年寄りの手もある。


「このなかから、あなたの恋人を選んで。正解なら、あなたは恋人のもとへ行けるし、不正解なら、あなたの恋人はそのまま黄泉に落ちてしまう」

「なんだって? このなかから? だって、ものすごい数だぞ?」

「いいじゃない。あなたたちの愛が本物なら、簡単なことでしょ?」


 龍郎は口をつぐんだ。


 おそらく伸ばされた腕は地獄の亡者のそれだ。

 これまで生まれて死んだ人間の数がどれだけあるのかわからない。そのすべてが、ウヨウヨとナメクジのように、軟体動物的な動きで救済者の助けを待っている。

 一兆、二兆という単位ではない。けいでもがいでもない。那由多なゆた不可思議ふかしぎ無量大数むりょうたいすうだ。


 それこそ、星くずの数だけある腕のなかから、ただ一人の腕を見つけろというのである。


「やれるもんなら、やってみて」


 龍郎のつかんでいた武骨な手が、すっと離れ、嘲笑いながら、ルリムの姿が消えた。


 どうしたらいいのだろうか?

 このなかへ飛びこんで行けばいいのか?

 それとも、呼べば応えるのか?


「青蘭! 青蘭ァーッ!」


 声は虚しく闇に吸われて先細りになる。返事はない。


 ただ、無数の腕がウヨウヨと這いあがり、巨大すぎる一つの生き物のように目の前に伸びてくる。まるで、白く発光するイソギンチャクだ。


 それらは救済を求めながら、龍郎にからみついてこようとする。

 救済か、救済が得られないなら地獄へ道づれか。

 それらにはもう人間としての意識はなく、ひたすら救われることに飢えていた。


 彼らはなぜ、そこにいるのか。

 なぜ、自ら、そこをぬけだすことができないのか。


 死者だからか?

 それとも、生前の所業か?

 ただ宇宙の理だから?


 龍郎には、そのすべてを救うことはできない。もちろん、そんなことはわかっている。

 ただ、理解しているのは、永劫に飢えたこの惨めな軟体動物の群れに、青蘭を堕とすことはできないという一点だ。


 龍郎は目を閉じた。

 青蘭の気配を感じる。

 目ではなく、心で青蘭を探す。


 深海の海底を埋めつくす白いイソギンチャク。そのなかを漂う。

 ここは地獄じゃない。

 青蘭と二人なら、どんな場所でも天国だ。


 そう思うと、あたりが一段、明るくなった。

 深い古代の海中を流されていく。龍郎の表面にすがるように、イソギンチャクの触手がなでる。

 だが、龍郎の求めているのは、それではない。


(青蘭。青蘭。おまえだけだよ。おれの魂の半分)


(ボクもだよ。龍郎さん。ボクたちは、つがいの鳥)


(どちらかが欠けても飛べない)


(二人で一つ)


 海底を覆う白い触手のなかに、赤い光が見えた。暗い海底のなかで、その光は灯台の明かりのように、煌々こうこうと照り輝いている。


 本能的に惹かれる光だ。

 吸いよせられるように、その光のもとへ泳いでいく。イルカのように、素早く、力強く。


 すると、触手の団塊のなかから、一本の腕がつきだしていた。優美な鳥の首のような弧を描き、その指に赤く光る石をつけている。


 二人で買ったペアリング。

 愛の結晶。

 その石に快楽の玉の鼓動が伝わる。


 龍郎は迷わず、その手をとった。

 指と指をからめると、陶酔が押しよせる。


 触手の海は消しとび、そのなかから青蘭が生まれてきた。


 でも、驚いたことに、その姿はいつもの青蘭ではない。

 白金の髪。ブルーとグリーンのオッドアイ。天上天下の美を誇る天使の青蘭だ。


「……アスモデウス?」

「わたしも、あなたの愛の一部?」

「ああ。そうだよ。おまえはまぎれもなく青蘭だ」


 アスモデウスの左右の色の異なる瞳から、澄んだ涙があふれる。涙はこぼれおちると同時に、キラキラと輝く玉となった。


「今度こそ、あなたと一つになれる?」

「なれるよ」

「よかった」


 頼りなくすがりついてくる仕草は、まさしく青蘭だ。さみしがりやで、甘えん坊。


 魔王だとか、智天使だとか、その肩書きに目をくらまされ、本質が見えていなかった。青蘭なら、それがどんな姿であろうと、強烈な愛されたがりなのに。


(天界から堕とされて、ずっと一人でさまよってきたんだな。気が狂うほど長い年月を)


 ごめん。さみしい思いをさせて。

 もう離さないよ。


 そっとささやくと、アスモデウスは微笑みながら薄れていった。


 気がつくと、列車のなかに戻っていた。窓の外の牧歌的な景色を、明るい陽光がおだやかに照らしている。


 龍郎の腕のなかで青蘭が笑っていた。

 まわりの乗客がじろじろ見るのもおかまいなしで、濃厚にくちづけてくる。


(夢……?)


 いや、違う。

 たっぷりと唇をかさねたあと、青蘭は龍郎の耳に吐息のような言葉をふきこんでくる。


「思いだした。ボクは鳥。遠い宇宙のかなたから、あなたのもとへ飛んできたよ」

「青……蘭……?」


 青蘭のなかの失われたものが蘇った。




 了

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