第39話 涙石 その三



「紫透? ほんとに?」


 染髪したわけではなく、生まれつき、ほのかに赤みのある栗色の髪を風にゆらし、紫透は微笑む。


 あいかわらず、少女のようにほっそりして、水に溶けそうにはかなげだ。


「ひさしぶり。龍郎くん」

「うん。ひさしぶりだね。二年ぶりかな?」

「そうか。もう二年になるんだ」


 目の前まで近づいてみると、あのころと少しも変わっていない。


 大学に入ってすぐ、友達に誘われて行ったサークルの見学会で出会った。あ、おれ、惹かれてるなというのは、ひとめでわかった。


 なんというか、友達に言わせると、龍郎は趣味が変わってるらしい。むしろ悪趣味とさえ言われたこともある。


 龍郎も人並みに何度か人を好きになった。でも、たいてい、その相手は家庭に事情があったり、経済的に困っていたり、人一倍不器用だったりした。


 どうも、不幸な人に惹かれるようなのだ。自分でも、自覚はなきにしもあらずだ。ドキリとする女性の仕草が、ため息をつくところだったり、涙を浮かべる姿だったりする。


 薄幸な女性を見ると、この人のことは、おれが守らなくちゃ——と思う。相手が不幸であればあるほど、強く思う。そういう意味では、ほんとに悪趣味だ。


 紫透に惹かれたのも、きっと、それだった。

 最初に出会ったとき、彼女は車椅子に乗っていた。貧血を起こして倒れたときに足の骨を折ってしまったと言っていた。せっかくの入学式なのに、こんな格好で恥ずかしいと、はにかむように苦笑する姿に、きゅんとした。


「……もう一度、会いたいと思ってたんだ。おれ、あのとき、まにあわなくて、君にさよなら言えなかった」


 紫透はそれには応えなかった。

 かわりに、長い髪をゆらして手を伸ばしてきた。


「ねえ、せっかくだし、お城、あがってみない? 前にいっしょに行こうって言ったのに、けっきょく行けなかったでしょ?」

「そうだけど……」


 龍郎は迷った。

 何かとても大切なものを忘れている。

 なんだっただろうか?


 あたりを見まわすが、何かがないという認識しかなかった。ないということはわかるのだが、それがなんだったのかわからない。


「ごめん……なんか、ぼんやりして。頭のなかに霞がかかったみたいだ」

「気にすることないよ。思いだせないなら、たいしたものじゃないんだよ」

「うん……そう、かな?」


 でも、それがないことで心のなかにポッカリと穴があいたような心地がする。それは、なくしてはいけないものだったという確信はあった。


「なつかしいね。前はよく、こんなふうにして歩いたよね」

「あ、ああ……」


 紫透が腕をとってきた。

 恋人同士のように手をつないで歩く。


「お城に行って、遊覧船にも乗ろうか? ほら、見て。白鳥だよ」

「あっ、ほんとだね。もうそんな季節か。今年は花見ができなかったけど、新芽の萌えるこのくらいの時期もいいね」

「うん。素敵」


 デートコースを満喫した。

 紫透の笑顔を見るのは、ほんとに久しぶりだ。


「よかった。おれ、あんな別れかたをしたから、ずっと気になってたんだ。ねえ、紫透。今、君は幸せかな?」

「幸せだよ。龍郎くんと再会できたし。日が傾いてきたね」

「早いね。時間が、あっというまにすぎる」

「ねえ、龍郎くん。今夜は、うちに泊まらない? お父さんやお母さんも、きっと喜ぶと思うんだ」

「そうかな」


 あのころできなかったことをたくさんしたい。でも、もうそろそろお別れのときだ。

 そう思うのに、だんだん頭の奥が痺れたようになって、考えることができない。


 紫透にひっぱられるまま、どこかへ向かって歩いていた。


 あたりは急速に暗くなっていく。

 薄紫色のもやのなかに、ピンクトルマリンみたいな鮮やかな桃色が、ひとすじ、よこたわっている。


 二年前、初めて一人で宝石店に行ったときのことを思いだす。仕送りはしてもらっていたが、彼女にはどうしても自分で稼いだ金でプレゼントを買いたかった。けんめいにアルバイトをして、紫透の誕生石の指輪を買った。淡い水色の石は、紫透の白い指にどんなにか似合うだろうと、とても楽しみにしていた。


「あの指輪、君に渡さないと」

「指輪?」

「君に渡そうと思って、買ってたんだよ。婚約指輪」

「ほんとに?」

「うん……」


 あの指輪、どこへやったっけ?

 そうだ。

 さっき、アパートの窓から投げすてられてしまったんだった。

 なんで、そんなことになったんだったかな……? 思いだせないけど、探さないと。


 いつのまにか、アパートの近くまで戻っていた。アパートの裏は空き地だ。管理が悪く、草むらになっている。早春には大根の薄紫色の花が咲いた。今は菜の花に似た芥子菜からしなの黄色い花が、ぽつりぽつりと咲いている。タンポポやシロツメクサも花をつけている。


 龍郎は草むらにひざをついて、必死で、指輪を探した。だが、どこにもない。


「龍郎くん。もっと向こうに落ちたよ」

「そうだったかな?」

「うん。あの川のなかだった」

「川……」


 空き地のさらに向こうは川だ。このへんは田んぼが多いので、用水路がそこここに流れていた。


 龍郎はその川をながめた。

 幅は二メートルくらい。

 けっこう、深い。

 昨日、雨が降ったせいか流れもずいぶん早かった。


(でも、見つけないと。あの指輪。見つけて、紫透に渡さないと……)


 そんな強迫観念に迫られて、龍郎は水のなかへ入っていった……。

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