第39話 涙石 その二



 部屋に入った瞬間、誰かが泣いているような気がした。

 何かが部屋のすみにいて、涙をこぼしている……。


「本柳さん。じゃあ、おれたち、先生の荷物、運んでいきますよ?」


 声をかけられて、龍郎は我に返った。

「ああ。うん。押入れのなかは、だいたい片づいてるから、そっちから詰めてくれれば——」


 言いながら、押入れをあけて、なかを確認する。布団などは新居に運んだあとだ。衣服はもともと、それほど数がなかった。


 だが、押入れのすみに、ころんと何かがころがっている。

 それを手にとった龍郎は、ハッとした。指輪のケースだ。ふたをあけなくても、なかに何が入っているのかわかる。


(こんなところにあったのか。引っ越すとき、ずいぶん探したんだけどな)


 龍郎はそれを誰にも見つからないうちに、ポケットに入れようとした。だが、運悪く、そのときちょうど、穂村のダンボール箱を持ってきた学生が、「ここに置けばいいですか?」と、龍郎のとなりに立った。


「あれ? それ、指輪のケースじゃないっすか? わあっ、青蘭さんにあげるんすね? いいなぁ。妬けるなぁ」


 派手にさわいでくれたので、青蘭に見つかってしまった。


「ほんと? ボクにくれるの?」


 嬉しそうな青蘭を見ると胸が痛む。


「いや、その……」


 これは違うんだよとは言えなくなっていた。


「うん、まあ……」

「ありがとう!」


 満面の笑みの青蘭に、龍郎はケースを手渡した。青蘭がウキウキしたようすで、ふたをあける。なかには、アクアマリンのついた細い銀の指輪が入っていた。アクアマリンは澄んだ水色の石だ。三月の誕生石である。


 青蘭は世間一般的な家庭環境で育ったわけではない。きわめて特殊な事情を持っている。誕生石のことなんて知らなければいいなと、龍郎は一瞬、願った。


 とたんに、青蘭の表情がわずかに曇る。


「……これ、ほんとにボクの?」

「あの、ええと……」

「龍郎さんがどもるときって、都合の悪いときだよね?」

「えっ? そ、そうかな?」

「うん。そう」


 じっと見つめられて、かなり焦る。


「えーと……いや、その、ほら。まだ青蘭の誕生日、聞いたことなかったから」

「ふうん?」

「青蘭の誕生日って?」

「七月三日」

「そうなんだ」


 すばやくネットで検索すると、誕生石は真っ赤な石を示していた。青蘭らしい。


「ルビーか……」

耀太ようたはボクにルビーのピアスくれたよ? アイツが裏切って、有り金持ち逃げしたときに捨てたけど」

「頼む。元カレの話なんかしないでくれ」

「なんで?」

「妬けるから」

「ほんと?」

「うん」


 青蘭は龍郎の目を覗きこんでくる。龍郎が嘘をついていないか、透かし見ようとしている。


「龍郎さん」

「うん」

「正直に言って。これ、ボクのじゃないでしょ?」

「う、うん……」

「元カノにあげるつもりだったの?」

「うん。まあ……」

「やっぱり」


 青蘭は指輪のケースをしめると、いきなり窓をあけた。そして、思いっきり力をこめてケースを遠くへ放りなげる。オリンピックの代表になれそうなくらいキレイな放物線を描いて、指輪はケースごと飛んでいった。


「ほら、スッキリした! これでいいよね? 龍郎さん?」

「うん……」


 ズキリと胸が痛んだことは、青蘭にはナイショだ。


(やっぱり、まだ忘れてなかったんだな。おれ……)


 まあ、忘れられるわけもないのだが。あんな別れかたをしたら。


 龍郎の表情を読んだのか、急速に青蘭が不安そうになった。


「……ダメだった?」


 泣きそうに見あげてくる。

 可愛い。

 こんなにも愛おしい人に出会えるなんて、奇跡だ。


「いや、いいんだ。もう」


 青蘭を抱きしめようと両手を伸ばす。遠慮がちに、青蘭がすがりつこうとした。そのとき急に、あいだに穂村がわりこんできた。


「いやはや。楽しい一幕を見せてもらった。が、もういいだろうか? 早めに運び入れて、学生たちを自由にしてやりたいんだ」


 周囲に人がいたことを、ふいに思いだした。修羅場を見せびらかしていたわけだ。恥ずかしさで、このまま押入れのなかに閉じこもりたい。


「す、すいません。急いで、おれたちの荷物、出します」


 龍郎は逃げるような思いで、置きっぱなしにしていたダンボールを持って外へ出た。と言っても、ダンボールの中身は清美のオタク本だ。数が多すぎて、全部、運びきれなかったのだ。


 荷物の出し入れが終わったのが、午後一時すぎだった。


「じゃあ、これが鍵です。おれたちは、これで」

「ありがとう。また連絡するよ」


 穂村たちと別れて、龍郎は青蘭と二人で車に乗りこんだ。町なかまで移動して、いったん停車する。


「昼ご飯、食ってから帰ろうか。青蘭」

「うん」

「ほら、このあたり、前はよくいっしょに散歩したろ?」


 近年、国宝になった城の近辺だ。

 さきほどのアパートに住んでいたころは、比較的近かったので、水堀のまわりの松並木の歩道を歩いたものだ。


 景色のとても美しいところなので、青蘭の気分が少しでも晴れないかと考えた。


 武家屋敷を改築した蕎麦屋で昼飯をすまし、肩をならべて石畳の街路を歩いていく。

 ツツジや藤の花が咲いていた。一年でもっとも美しい季節だ。景色は穏やかで、やわらかな光に満ちている。それなのに、心の内はうっすらと冷たい。


 青蘭にほんとのことを言ったほうがいいだろうか?

 でも、青蘭は過剰なヤキモチ妬きだ。きっと許してくれないし、何より、龍郎の心が自分一人のものではないと知れば悲しむ。青蘭を悲しませたくない。


 迷いの気持ちが、を生んだのかもしれない。

 気づくと、目の前に、その人が立っていた。


紫透しずく?」


 信じられない。

 目の前に、あの指輪を渡すはずだった彼女が立っていた。

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