第36話 探偵のお仕事 その五
まったく、どうして青蘭はいつも、こんなに龍郎に心配ばっかりさせるんだろう?
こんなことがこれから一生続くなら、心臓がいくつあっても、もたない。
そんな思いが脳裏をよぎる。
エレベーターのボタンを押すが、ドアがひらかない。屋上に止まったまま、動く気配がない。
「くそッ!」
龍郎は階段をかけあがった。
悲鳴の聞こえたほうへ向かう。
二階か?
いや、二階は静まりかえっている。
上部をあおぎみると、四階あたりの外廊下で、もみあう人影がある。あの服は青蘭のようだ。
「青蘭!」
「龍郎さん——!」
青蘭が下をむき、一瞬、目があった。だが、誰かにひきずられるようにして、青蘭はどこかの部屋のなかへつれられていった。鉄の扉の閉まる固い音が鳴り響く。
「青蘭!」
龍郎はあわてて四階まで走っていく。
グルグル折れまがる階段を夢中でのぼる。息を切らして四階まで来ると、さっき青蘭が立っていたあたりまで急ぐ。
すぐそばのドアの内から、争うような声が聞こえる。
「青蘭!」
404と書かれている。
ここも鍵はかかっていない。
とびこむと、なかではゾッとするような光景が待っていた。
室内のあらゆる場所に霊が
黒いタールのように体の溶解した霊。
白目が濁り青白い肌の霊。
ダラダラ血を流した霊。
あきらかに悪魔化している霊もいた。頭には角、両腕が七節もある異様な姿。
それらが妙にのろのろした仕草で、部屋の角に向かっていた。そこに、青蘭がしゃがみこんでいるのだ。
快楽の玉は悪魔にとっては抗えない魅惑らしい。
亡霊たちは、青蘭のなかにある快楽の玉に群がっていく蟻だ。
「青蘭! こっちに来い!」
群がっているのは、どれも下級の霊や、それに毛が生えたていどの悪魔だ。邪神を粉砕する青蘭が恐れるほどのものではない。
だが、そのとき、なぜか、青蘭は身動きもせず、すくんでいた。
「青蘭? どうしたんだ?」
このていどの小物相手なら、青蘭のなかにいる魔王アンドロマリウスを使役するまでもなく、エクソシストだった青蘭の父の形見の品であるロザリオだけで、充分、祓うことができる。そう。いつもの青蘭なら。
「龍郎さん……」
「青蘭。待ってろ。今、そっちに行くから!」
青蘭は青ざめたおもてを泣きそうに歪める。
龍郎は必死で霊たちを殴った。
快楽の玉の対となる苦痛の玉。
龍郎の右手に埋まったその玉は、快楽の玉とは逆の効果を持つ。
つまり、悪魔に苦痛を与え、滅する。
素手で殴るだけで、おぼろな霊は消滅した。霊よりほんの少していどが高いだけの悪魔も、龍郎の拳があたると、そこから溶けていく。
どいつもこいつも殴り倒して、ようやく、青蘭のもとへ辿りついた。
抱きしめると、青蘭は龍郎の腕のなかで泣いた。
「青蘭」
「龍郎さん……」
「ごめん。目を離して。怖かったんだな」
「わたし……」
青蘭は深刻な目で龍郎を見つめ、そっと口をひらきかけた。が、そのとき、外廊下を走ってくる足音があり、玄関から磯福と穂村がかけこんでくる。
「龍郎——うわッ! し、死体だ!」
磯福の言うとおりだ。
青蘭を助けることに夢中で、龍郎は気づいていなかったが、畳の上に茶色くひからびた死体が転がっている。それも、二つ。服装から言って男女だろう。
「これは……」
穂村が答えた。
「ここは、川野さんの部屋だ。長らく姿を見かけてなかったから、川野さん夫婦だろう」
夫婦は部屋の座卓の上に安置した地蔵を抱き包むような体勢で倒れている。
「地蔵を盗んだのは、この人たちみたいですね」
穂村がため息をつく。
「川野さんたちは娘さんが今年の正月に、飛びおり自殺したんだ。たぶん、娘の供養のためにと思ったんだろうな。地蔵は子どもの守り神だから」
そんなことをしても供養になどならないのに、親にとっては可愛い子どものためなら、どんな愚かなことでもできてしまうのだ。
「地蔵をもとの場所に戻しに行きましょう。多少はこの場所の空気も清められる。以前と同じくらいには安全になる。あと、駐車場にある焼却炉は解体するなりなんなりして、早く処分してしまったほうがいいですよ」
それほど大きな地蔵ではなかったので、龍郎一人でも持ち運ぶことができた。神社にそれを返すと、すうっと周囲の邪気が薄れた。
団地のなかには、まだいくらか霊がうろついていたが、龍郎のゲンコツですべてキレイに追い払うことができた。
「龍郎。スゴイな! おまえ、いつから、こんなスーパーマンになったんだよ? なんか体も軽くなったし、久々に気持ちが晴れ晴れする」と、磯福は単純に喜んでいる。
しかし、龍郎の気分は反比例して重い。磯福の前ではムリをして平静をとりつくろっていたが。
「じゃあ、もう安心だな。青蘭がぐあい悪いみたいだから、帰るよ。おれが見た感じ、霊はいなくなったから」
立ち去ろうとすると、穂村に呼びとめられた。
「待ってくれ。君たち、霊能者か何かか?」
「いえ。オカルト専門の探偵です」
「いやいや。探偵が亡者を殴って退治できないだろう。じつは私はこういう者なんだ」
穂村はポケットから何かをとりだした。ヨレヨレの皮の財布から、一枚の名刺を出して、さしだしてくる。
そこには電話番号などといっしょに、肩書きが印刷されていた。考古学者だ。M市内にある大学の准教授と記されている。フルネームは——
「あれ? おれの母校の講師だったんですね。すいません。知りませんでした」
「いやいいよ。私のゼミが不人気なのは自覚してる。それより、君たちの能力に興味があるなぁ。よければ後日、ここに連絡してくれないか? 私で助力になれば協力する」
「どうも」
龍郎は一礼して、その場を去った。
そんなことより、気になることがある。
軽自動車に乗りこんで二人きりになると、青蘭はポロポロ涙を流した。透きとおる涙の粒が、龍郎の胸をしめつける。
青蘭はつぶやいた。
「ボク、どうしてたんだっけ? ああいうとき、どうやって悪魔を退治してた? 思いだせない」
ああ、やはり——
案じていたとおりだ。
青蘭は喪失してしまったのだ。
デビルサマナーとしての力を……。
了
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