第二十七話 ザクロの木の下に

第27話 ザクロの木の下に その一



 なぜだ。なぜ逃げないんだ。青蘭——


 呆然としているうちに、目の前に有翼天使が迫っていた。

 あわてて、龍郎は走った。労働天使をつきとばしながら、細い鉄柵を乗りこえる。交差する別の廊下にとびおりようとした。


 が、そのとき背後から体をつらぬかれる衝撃があった。肩に激痛が走り、バランスをくずす。


 そのまま、龍郎は意識を失った。


 次に目をあけると、そこは氏家家の中庭だった。庭に折りかさなるようにして、瑠璃とともに倒れていたのだ。龍郎の胸にすがるように目をとじる瑠璃を見て、龍郎はわけもなく悲しくなった。


 またダメだった。

 いったい、いつになったら、ほんとの青蘭をとりもどせるのだろう。


「せ……瑠璃さん」


 抱きおこすときに、龍郎は気づいた。

 ワンピースからのぞく胸の谷間に、十字のような形の傷痕がある。ごく小さいがケロイドだ。夜ごとに何度も見てきた。青蘭がまだ、その部分をアンドロマリウスに譲りわたしていない証拠……。


「青蘭?」


 長い睫毛をまたたかせて、瑠璃が目をひらく。龍郎を見て微笑んだ。

 だが、そのとき、バタバタと足音が近づいてきて、あわてたように冬真が駆けつけてくる。


「龍郎! 瑠璃に何してるんだッ!」


 怒りもあらわにして、龍郎から瑠璃をひきはなす。


「何って、二人とも急に気を失ったから。ここの木の下を掘ってくれって瑠璃さんに言われて——」


 冬真は龍郎の指さす穴をふりかえり、青ざめた。


 穴は、そこにあった。

 龍郎が失神する前のときのままだ。

 しかし、そのなかにあったはずの死体は消えている。ただ、がぽりと大きな空洞が木の根元にあいているだけだ。


「なんてことするんだ! すぐ埋めないと!」


 冬真はシャベルを手にとり、穴をうずめようとする。

 しかし、それをひきとめるように、瑠璃がすがりつく。


 いったい、その穴のなかに何があるというのだろう?

 瑠璃はどうしても、そこに葬った何かが気になってしかたないらしい。


 兄妹がおたがいをうかがいあっているすきに、龍郎は穴のなかをのぞいてみた。やはり、何もない。あのとき見た青蘭の死体は幻影だったのだろうか?


(それにしても深い穴だなぁ。どこまで続いてるんだ?)


 なんだか見つめていると、頭がクラクラする。めまいを誘うほどに底の知れない深さがある。


 まるで、地球の裏までつながっているかのような……。


 龍郎は試しに、小石を一つ、穴のなかに落としてみた。が、石は深く深く闇のなかに吸われるように消えて、そのまま音も聞こえなかった。底がないかのような感触だ。


「瑠璃。離れるんだ。早くしないと、ヤツらが来るぞ!」


 冬真はあれほど可愛がっている妹をつきとばして、大急ぎで穴を埋めた。あんなに底知れぬ空洞なのに、龍郎が掘ったあとのわずかの土をかけると、もうふさがってしまう。なんとも異様だ。現実の論理を超越している。


(もしかして、この空洞が、螺旋の巣に通じてるんじゃないか?)


 そう考えると納得がいく。

 屋敷の地下室は中庭にむかって伸びていた。地下の書斎のある位置は、このザクロの木のすぐそばのはずだ。つまり、地下で壁一枚をへだてて、木の根元の空洞と背中あわせになっている……。


 だから、このペンダントを持っているだけでは、螺旋の巣へ行くことができないのかもしれない。

 この木の下にある空洞が、異次元への接点なのだとしたら。


 冬真は穴をふさいでしまうと、目に見えて安堵した。瑠璃の手をひいて逃げるように去っていこうとする。


「待ってくれ。冬真。さっき、この穴からヤツらが来るって言ったよな? ヤツらって、なんだ?」


 冬真は困りはてたようだ。

 龍郎を見つめたあと、進退きわまったふうで言いすてる。


「君の聞きまちがいじゃないか? そんなこと言わないよ」

「違う。ハッキリ言ったよ。『早く穴を埋めないと、ヤツらが来る』って。冬真。この屋敷が異常な状態なのはわかる。でも、協力してくれないと謎は解けない。君は何を隠してるんだ? 教えてくれないか」

「何も隠してなんかいないよ」

「じゃあ、言わせてもらうけど、君がつれていこうとしてるのは、瑠璃さんじゃない。青蘭だ。おれの大切な人なんだ」


 冬真の表情が硬質になる。警戒と怒りの念が見えた。


「バカなことを言うなよ。これは瑠璃だ。龍郎くんこそ、どうかしてるんじゃないのか?」

「どうかしてるのは君だろ? だって、その人は別人だ。顔立ちもそうだけど、さっき胸元に火傷のあとが見えた。あれは青蘭が子どものときに負った傷だ。妹と言い張るにはムリがある」


 冬真は黙りこんだ。

 言いわけを考えているように見えた。

 そして、とつぜん、瑠璃の背中にまわると、ワンピースのジッパーをおろした。


「——おい、冬真!」


 龍郎が止めるのも聞かず、冬真は瑠璃の肩からワンピースを落とした。黒い女物の下着をまとう瑠璃の裸身があらわになる。瑠璃は完全にされるがままだ。青蘭なら少なくとも怒るだろうに、何をされているのかわかっていないようだ。


 むしろ、憤ったのは龍郎のほうだ。

 愛する人がほかの男に人前で服をぬがされた。それも、自分の意思に反して。こんな屈辱、耐えられない。


「おい! よせよ。冬真! いいかげんにしろ」

「こうしないと君が認めないだろ? ほら、見ろよ。どこに火傷のあとがあるって? どこにもないじゃないか!」


 言いながら、冬真は瑠璃のブラジャーのホックを外した。なめらかな白い胸が陽光にさらされる。決して豊満とは言えないが、でも小さすぎはしない。左右の大きさの同じ、モデルのように形のいい美しい乳房。


 龍郎は愕然とした。

 怖かったのだ。なぜ、これを見ても、冬真がまだ瑠璃を自分の妹だと主張できるのか。


 思ったとおり、そこには十字形のケロイドがあった。ちょうど胸のまんなか。きめ細やかで、なまめかしい芳香を放つミルク色の肌に、赤く聖痕のごとく刻まれている。


「冬真……」


 龍郎は冬真の正気を疑った。

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