第16話 終末の音 その四



 なんだろう? あの女?

 なんだか薄暗い場所にいるせいか、いやに黒いもやに全身が包まれて見える。


 龍郎がまばたきして見なおしたときには、女の姿は消えていた。


 気をとりなおして進んでいくと、大きな通りに行きあたる。道路の両脇にはオフィスのテナントビルやコンビニがならんでいた。行きかう人々は仕事帰りのOLやサラリーマンだ。バスの停留所には帰宅を急ぐ人が列を作っている。


 日常の風景のなかに戻って、龍郎はホッとした。やはり、さっきの変な女は錯覚だったのだ。たぶん、この界隈を寝ぐらにしているホームレスを、奇妙なもののように見間違えてしまったのだろう。


「ホテル、こっちだったよな? タクシーひろう?」

「いいよ。ホテルに帰ったら、お邪魔虫がいるじゃない」


 青蘭は嬉しそうに龍郎と腕を組む。

 ここ数日、ずっとナーバスになっていたから、青蘭が微笑しているだけで、龍郎も胸の内がぬるんだ。

 清美には悪いが、少しのあいだ、さみしい思いをしていてもらおう。


 恋人どうしのように肩をよせあって歩いていると、また、あの音がした。ゴウゴウと風の通る音。

 交差点の信号は赤だ。

 立ちどまると、ビルとビルのすきまに、あの女が立っている。さすがにギョッとした。つけてきたのだろうかと思った。


「青蘭……」

「うん。あいつ、イヤな匂いがする」

「悪魔かな?」

「たぶん」


 信号が変わった。

 足どりを早めてホテルの方角をめざす。しかし、次の通りにさしかかったとき、マンションとマンションの塀のあいだに、その女は立っていた。これでハッキリした。女は尾行しているわけではない。龍郎たちの行く手へ、さきまわりしている。あきらかに異界的な存在だ。


 女はすきまからふみだし、こっちへ近づいてこようとしている。

 だが、動きは鈍い。


 龍郎は青蘭の手をひいて、そのよこをかけぬけた。


「追ってくるかな?」

「だろうね」

「青蘭の匂いに惹かれてきたんだろうか?」

「かもしれない」


 青蘭の体内にある“快楽の玉”は、悪魔にとって、抗いがたい魅惑の香りだ。人間にとっても青蘭はこの上なく魅力的だが、悪魔にはそれ以上の存在なのだ。


 歩きまわるうちに、いつのまにか道に迷っていた。

 なんだか、周囲のようすがおかしい。人影がパタリと見えなくなり、ならんでいた車のテールランプもまったく見えない。


 まるで無人の街だ。

 龍郎と青蘭の二人以外の人という人が死にたえた廃墟の街に迷いこんでしまったかのようだ。


 頭上でまた、あの音がした。

 突風がビルとビルのすきまを吹きぬけていくときのような。

 ある種の笛の音色のような。


 とうとつに、青蘭が言った。

「アポカリプティックサウンドだ」

「え? 何、それ?」

「一時期、ネットで流行ったんですよ。終末の音だって」

「あれが? 風の音にしか聞こえないけど」

「ただね。ラグナロクの前に天使がラッパを吹きならすって言い伝えがキリスト教圏にはあるんですよね。アポカリプティックサウンドは、それじゃないかって」


 ラグナロクとは日本語に訳すと、神々の黄昏。北欧神話で謳われる神々の滅びの日のことだ。


「まさか、この世が滅ぶ前だって言うのか?」

「さあ、それはわからないけど」


 話すうちにも、女が迫ってきていた。

 とにかく、やみくもに走って逃げる。だが、女は必ず、さきまわりして行く手をふさいだ。しだいにビルとビルのあいだのすきまに追いつめられていく。


 暗く狭いビルの谷底。

 星も見えない空に、轟音がつきぬけていく。


 進行方向に女が現れた。

 コートのフリンジが風に揺れる。

 いや——違う! フリンジではない。それは女の皮膚だ。よく見れば、女のコートは穴だらけで、肋骨の浮いた胴体が丸見えになっていた。その腹部にガッポリ穴があき、体の向こうの風景が見えている。あの異様な音は、女の腹にあいた穴を風が吹きぬけていくときのものだった。フリンジのような皮膚が、そのたびにビラビラと踊る。


「うわッ。なんなんだ? あいつ」


 女はビルの向こう側の出口をふさいで両手を広げた。その腕には、腹部のフリンジに似た皮膚がたれさがり、羽のようになっている。両手の指にはカギ爪がついていた。


 青蘭が叫ぶ。

「ナイトゴーントだ!」

「なんだ、それ?」

「ノーデンスに仕える奉仕種族です。ナイアルラトホテップが使役することもある。クトゥルフ神話の化け物。ショゴスと同程度の低級なヤツらだ」

「危険なのか?」

「邪神にくらべたら、ぜんぜん危険は少ないけど、なんで、こんなところにいるんだろう? ナイトゴーントは荒野に住む種族で、街中には出てこない」


 女は汚い羽を広げると、ビルとビルのあいだの狭い空間に低空飛行でつっこんでくる。思いのほか速い。


「危ない!」


 龍郎は青蘭を抱いて、しゃがみこんだ。頭のすぐ上を戦闘機がつきぬけていったかのような破壊的な音と強風がすぎていった。


 次の瞬間、女の姿は消えていた。

 一瞬だけ見えた女の顔は無貌だった。フードの下には、ぽっかりと穴があいていた。


 魔が消えた。

 あたりの空気がやわらぐ。


「あれは、いったい……?」

 たずねると、青蘭はつぶやく。

「宣戦布告……または、終末を宣言しているのかもしれない。ナイアルラトホテップはクトゥルフの主神アザトースの右腕だ。クトゥルフの神々が戦いを挑んできた……のかな?」


 もうあまり、龍郎や青蘭に平穏な時は残されていないのかもしれない。

 そう思うと、急激に背筋が冷えた。




 了

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